五話 平手政秀
「本当に、誠に申し訳ございません。若様があのようなことをなさるとは――いや、しかねないお方とは、分かっておりましたが、本当に申し訳ございません!」
そのまま頭を割るのではないかと思うほど頭を下げられて、濃は慌てて止めた。
「大丈夫でございます、それにここは城下町でございましょう、領民に迷惑をかけてしまいます」
正直、心底やめてほしかった。
目の前の初老の男は眉が太く、剛直そうな男であった。
平手政秀、この嫁入りを成立させたからして相当な策略家だと勝手に思っていたが、実際は真面目そうで策を張るような男には見えなかった。
こういう男だからこそ、道三を相手に自分の嫁入りをまとめられたのかもしれない、と濃は思った。
「しかし」
「私がよいと言っているのだから問題はありませんよ。それに――」
そこで濃は衛門たちを思いやった。自分が信長に連れ出されてからさぞ困っただろうことは容易に想像がついた。
「城にはもう先に私の侍女たちがついていることでしょう。彼女たちはきっとさぞ肩身の狭い思いをしていると思います。早く連れて行っていただけませんか?」
衛門はしっかりしているし、猫をかぶるのも得意な自慢の侍女であったが、一抹の不安はないとはいえない。
少し好奇の視線にさらされながら濃は政秀と共に馬に乗った。馬に一人で乗れる姫君などいては、おかしいのだから仕方ないのだが。
「信長公はいつもあのようなご様子なのですか」
黙っているのも気まずかったので、濃が話を振ると政秀は深々とため息をついた。
「昔は聡明なところもあったのですが――最近は少々自由な振る舞いが多くなりまして、爺も手を焼いております」
「自由な振る舞いと言いますと」
「勝手に城をぬけだして町に行かれたり、ならず者を束ねたり、城内でも作法をわざと破るような真似をなさったりしておいでです」
心底困ったような政秀の顔が、美濃でよく見ていた衛門や十兵衛たちの顔に重なり、自然と濃の脳裏に美濃での生活がよぎった。
城を抜け出して山鳥を取りに行き、説教が嫌で城に外から忍びのように登って逃げたり、十兵衛に作法云々で生暖かい目で見られたり――信長ほどではないとはいえ、なかなかの行動である。
心が少し痛んだが、濃は仮面の下に全てを追いやり何食わぬ顔で誤魔化した。
「それは変わったことをなさるのですね」
「ええ、おかげでご生母様とも最近ますます不仲になられまして」
後の言葉は流石に言わなかったが、濃は政秀の言いたいことを察した。
不仲な母親が弟の方を当主にしたいということなのだろう。
やはり自分の立場は大変そうであると濃は他人事のように思った。
あらかじめ美濃を出る前に仕入れていた情報と大して変わらない状況だったから尚更そう思うのかもしれない。
その時、胃に穴があきそうな調子で話していた政秀の声の調子が僅かに上がった。
「濃姫様、こちらが織田家当主織田信秀さまがおられます居城、那古屋城でございます」
那古屋城は濃の育った稲葉山城とは全く異なる城であった。稲葉山城が山の上に孤高に立つ城ならば、那古屋城は町の中で睨みをきかせる大きな関所のようであった。
だが、濃の視線は那古屋城――の前に立つ少女にくぎ付けになった。黄色の着物に猫毛が特徴の濃の侍女、衛門である。
「ああ……」
衛門の顔が怒り狂うのを通り越して泣きそうになっていることを確認して、濃は自然とため息をもらした。
この後の事を思うといろいろ気が重い、だが政秀はそれを別の方向に解釈した。
「ええ、なかなかの城でございましょう。この平手政秀、爺ゆえに築城の頃から知っているのですが、何せこの城築城の時から」
と、衛門の方も馬上の濃に気がついたらしい、ハッとした顔でこちらを見やると彼女は着物の乱れも気にせずに駆け寄ってきた。
「姫様ぁぁぁ!」
どん、と衛門は馬目がけて突進してくる。馬が驚いたように歩みを止めた。
「衛門、私なら大丈夫ですから」
「姫様よくぞご無事で! 本当に私は心配したんですよ。姫様をあのうつけにかっさらわれて、どれだけ途方に暮れた事か……」
衛門はもう言葉にならないらしく、うつむいてしまった。濃がどう声をかけようか考えあぐねていると、政秀が困惑気に尋ねてきた。
「濃姫様、こちらの方は……」
「私の侍女の衛門です。信長公は急なお迎えでしたから、かなり心配していたようです。ああ、平手殿、私を馬からおろしていただいてもよろしいですか?」
「は、かしこまりました」
政秀は丁重に濃を馬から降ろす。
最近、俵のように担がれたり、荷物のように馬に乗せられたり下ろされたりしていたので、その手際に小さな感動すら覚えた。
真っ白だった花嫁衣装は信長に連れまわされていたからか、砂に薄汚れていてお世辞にも綺麗だとは言えなかった。おそらく、化粧も取れているだろう。
「さあ、衛門、落ち着いて。今から、やり直しなのですから。しっかり勤めを果たしましょう」
「はい、姫様」
「平手殿、城まで案内してくださいますか?」
「は、この爺にお任せを」
政秀が馬から降りてかしこまる。濃は政秀を見て、衛門を見て、最後に那古屋城を見た。――この先はもう戦場と変わらない。
一つ大きな息を吸い、美濃とは違う空気に一抹の寂しさを覚えながらも、濃は美濃の姫君として城へ足を一歩進めた。
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