七話 前夜


 帰蝶の嫁入りの日程は流れるように決まっていった。

 あまりの順調さに城の者は皆戸惑いを隠せず、帰蝶の三人の兄たちも納得が出来ていないようだった。


 全てを覚悟したあの日から帰蝶は兄たちに嫁入りの本当の目的を告げることはしなかった。

 ただ、帰蝶の態度から兄たちも並々ならぬ真意があると悟ったようで、最初は口々に嫁入りをやめるように言っていたが、ひと月もすれば何も言わなくなった。

 代わりにと言っては何だが、帰蝶を今まで以上に構うようになった。


 とうの帰蝶はというと、大体がいつも通りであった。

 供を連れずに野山を駆け巡り、衛門に怒られ、兄たちに交じって鍛錬をし、料理に失敗し――その合間を縫うようにして嫁入り道具を確かめたり、十兵衛に礼儀作法を教えてもらったりしていた。


 そしてそんな日々を過ごす間に、あっという間に如月の13日を迎えた。その翌日にはもう嫁入りが迫っていた。


「衛門、嫁入り道具ってこれで全部なの?」


「そうですけれど、何か足りないものでもございましたか?」


 色とりどりの着物や化粧用具等を眺める帰蝶に衛門が尋ねる。

 これらの着物や化粧用具は一国の姫君にしては少なく――されど、その質は一目でわかる上等なものであった。

 もっともこの大半を帰蝶は袖を通さずにすごしていたのだが。


「いや、もう少し前にあった着物とかがなかった気がしたから。青地に鶴の派手な奴とか、どうしたの?」

「ああ、もう姫様が着るにはいささか小さいものもいくつかございましたので、それはおいていくべきかと思いまして」

「いや、着られなくてもいいから取りあえず持っていくだけ持って行こう」


 衛門は帰蝶の意図をよく理解できずに、眉を怪訝に潜めた。


「それは一体どういう……?」

「いざという時に売れば便利かな、と思って。武器や毒物とかは有るにこしたことはないけど、怪しすぎるから持ち込めないでしょ? 着物は持ち込んでも怪しまれにくいけど、お金に換えられるし、お金にさえなれば現地で大体調達できるからね」


 帰蝶はそう言うと積まれていた着物を手に取った。

 白地に牡丹、華やかで美しい柄だが、帰蝶には年頃の娘が見せる華やかな物へのあこがれや、喜びはないらしい。


「売り方は工夫しなきゃいけないけど、これだけで適当な人間を何人も雇えるんだから、便利だよね」


 衛門は目を丸くして、頷いた。


「分かりました、流石は姫様でございます! 即急に手配いたします!」

「うん、ありがとう」


 帰蝶は衛門にいつも通り笑いかける。その笑顔に衛門もどこか安心するのか、吊られたように照れくさそうな笑顔を浮かべた。


 帰蝶は大体はいつも通りに暮らしていた。だが、所々変わるところは有った。

 視点が鋭くなったり、少し大人びた顔をするようになったり、いつもよりも真面目に衛門や十兵衛の話を聞いたり、衛門にはその成長が嬉しかった。


「じゃあ、私は龍兄に剣のけいこをつけてもらってくるから! それでその後には孫兄に孫子を返して、喜平兄と山で競争してくる!」

「……さようでございますか」


 まあ、代わらない部分も多くあるのだが。

 兄たちと会えるのが最後かもしれないと帰蝶が覚悟していることを衛門は知っていたので、笑顔で送り出した。


 衛門は城内で唯一帰蝶の嫁入りに付き添うことが決まっている侍女であった。

 幼いころから共にすごしてきた衛門にだけは帰蝶は全てを話した。――無論、驚かなかったと言ったら嘘になる。

 大切に思う主だからこそ、暗殺したり人を欺くことになる命に反感も覚えもした。だが、ついぞそれは言うことが出来なかった。


 衛門は童女のように自由奔放で、明るくて優しい、陽だまりのような帰蝶の姿をず

 っと見てきた。そのままの彼女だったら、衛門は大反対しただろう。

 だが、帰蝶は普段と違う覇気をまとい、別人のような真剣な顔で衛門に己の覚悟を語ったのだ。――止めることなど、できるはずもない。


「本当に貴女は……」


 帰蝶は童女そのままに城の廊下を兄たちに会うべく駆けてゆく。見る者の胸を温かくする、微笑ましい姿だった。


 衛門は知っている。幼いころから帰蝶のずっとそばにいて、とんでもなく振り回され、それでも傍で使えると決め、それを誇りに思ってきた。

 帰蝶も知らない帰蝶のことだって、知っている。


「大丈夫です、私が姫様をお守りしますから」


 先の事しか目が行っていない帰蝶は、衛門が今彼女に向ける慈愛に満ちた姉のような、母のような顔には気が付いていない。

 それでも衛門が帰蝶に抱く、帰蝶と同等の覚悟には気が付いているだろう。

 二人の関係はそういう関係なのだから。






 ――――――――――――――――


 13日の夜、稲葉山城では盛大な宴が催された。無論帰蝶の嫁入りを祝うものである、表向きは。


 城の中の誰もが帰蝶の嫁入りがただの嫁入りではないことは悟っていた。

 だが、帰蝶自身の覚悟が固いのもあり、彼らはそこには何も触れず、噂をすることもなかった。


「さて」


 低く、しゃがれた声で道三が口を開いた。


「皆も知っていると思うが、今宵は帰蝶の嫁入りを祝う宴だ。飲んで騒いでくれて大いに構わん」


 飲んで騒げ、という割には場の雰囲気はしんとした緊張が走っていた。――誰もが道三の言葉のがそれではすまないことを悟ったからだろう。


「帰蝶」

「はい」


 珍しいことに帰蝶は綺麗に着つけられていた。

 彼女が正装をすることなど年に何度もないことなので、皆驚いて彼女を見た。


 周囲の視線をものともせず、ゆっくりと帰蝶は道三の前に歩みを進める。その動きは神託を聞く巫女か何かのようで、厳かさを感じさせた。


「帰蝶はこの度、尾張に嫁ぐことになった。その際、帰蝶という字は「帰」という字を用いていて嫁入りにはいささか縁起が悪いという話になってな――名を改めることになった」


 驚愕がその場に走った。

 戦国の世の習いとして男は成長と共に名を変えていく、だから改名自体は決して珍しいことではない。

 だが、女の場合は別である。結婚等で本名以外のあだ名のような物がつくことはあるが、名前自体はまず変えない。


 帰蝶はざわめく背後をよそに涼しい顔をしていた。堂々とした微笑は、目の前の男とよく似ている。


「明日より我が娘は濃と名乗る。皆、心得よ。よいな、濃」

「はい、父上」


 帰蝶が父道三に一つだけ願ったことは、帰蝶の名を改めることであった。


 帰蝶は感情が豊かで、おおよそ姫君らしくない振る舞いをするものの、城の者に慕われながら生きてきた。

 この生き方が悪い物だとは帰蝶は少しも思ってはいない、だが帰蝶が尾張にそのまま嫁げば役目は果たせないだろうと感じていた。


 自分は帰蝶を押し込めて完璧な姫君を演じきる必要がある。

 そこで思いついたのが、別人としての心構えで尾張に嫁ぐということであった。

 美濃の姫――濃姫として嫁ぐ、それは帰蝶の覚悟の一端で有った。


 道三はざわめく場を制するように、ひょいと片眉を上げた。


「皆何を騒いでいる。帰蝶が濃になるのは明日の事――今日は帰蝶だ。何も変わらぬ」


 おそらく帰蝶の他に道三の言葉の意味を理解できたものはいるまい。

 怪訝な顔の一同に道三は悪戯をする子供、よりはあくどい顔を浮かべた。


「まあ、今日は取りあえず飲んで騒げばよいだけだ」

 





 その夜は帰蝶にとって忘れられない日になった。


 美味しい物をいっぱい食べて、義龍に心配されながらも励まされ、孫四朗に小言のような忠告をもらい、喜平次に笑いながら頭をくしゃくしゃにされ、十兵衛に縁起の良い微笑を貰い、別れる侍女たちに歌や皆で用意したという髪飾りを貰い、たくさん笑って、涙はこらえて、忘れられない一夜を過ごした。


 幸せをかみしめながら、帰蝶は美濃で最後の夜を迎えた。本当に幸せで温かな宴であった。



 ――――――――――――― 

 天文1〇年、ある縁談がまとまり、日ノ本に小さな波紋を建てた。

 曰く、尾張の織田の嫡男のうつけと美濃のマムシの娘が結婚し、織田と斎藤は同盟関係になったのだと。

 近隣諸国は新たな同盟の成立に警戒を強めたり、あの道三が背後にいるという事で慎重に出方を窺ったという。特に遠江の大名今川家は厳しい目を向けていたという。

 花婿の名は織田信長、尾張の織田家嫡男であり、多様に噂される大器の男だ。

 そして花嫁の名は濃姫。美濃の斎藤家の娘であり、謎めいた――美しい姫であったという。

 

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