六話 道三の真意
「……へ?」
思わず素というか、普段に近い間抜けな声が出た。
先ほどまであった一国の姫君らしい覇気が消え失せ、童女のようにキョトンとする帰蝶に道三は苦笑する。
「わしはお前に暗殺を任せるかもしれない。だが、それは確実にそうであるというわけではない」
「ど、どういう意味ですか?」
道三の考えがまるで分らなかった帰蝶は目を白黒させた。
「そうだな、お前は織田信長という男をどう思う?」
「……うつけという噂を耳にはしています」
当然だが、帰蝶は織田信長と会ったことはない。
うつけという噂ならば美濃に来る商人や、兄たちから聞いている。だから、帰蝶は織田信長とは領民にうつけと噂されるような暗愚だと自然と思っていた。
だが、帰蝶はそこで詰まった。目の前の道三はそんな単純な答えを求めているわけではない、そんな気がしたのだ。
歯切れが悪い帰蝶に対し、道三は説くように、だがどこか独り言のように言った。
「わしは、織田信長と言う男の先が視えない」
「……奴はうつけだと、父上は言いたいのですか?」
「いや、うつけならば破滅という先が視えよう。だが、それが視えない」
怪訝な顔をする帰蝶にハッキリと道三が言い切った。
「織田信長という男はわし以上の大器だということだ」
一瞬、帰蝶の中で時が止まった。
帰蝶にとって父道三は、乱世一の鬼才で名君で、彼女の知る中でも一番の大器であった。
その父がうつけとしか思っていなかった男を己以上の大器だと言っている。信じられなかった。
「で、ですが、父上とは違い、織田信長はうつけと領民に噂されるような男です。大器などとは思えません!」
「帰蝶、噂と現実が必ずしも一致しないことをお前も知っているだろう」
「でも、火のない所に煙がたつわけがありません!」
帰蝶も自身が卑怯で悪質な冷酷な姫君と他国からとんでもない評判を貰っていることは知っている。
だが、それは他国でのことで、父を貶めるために流されたり、邪推されているだけのことで、自国の領民がそう噂しているわけではない。
嘘の噂には限度がある、織田信長のうつけぶりの噂はその限度をはるかに超えていた。
「信長は話によると、馬上で食事したり、立ち食いしたり、みっともない格好で街を歩いたり、相撲したり、女装したりすらするんだそうですよ!? 一国の嫡男のこんなとんでもない噂が何の根拠もなく広まるとお思いですか? 絶対にもとになるようなとんでもない行動があるのです」
「……帰蝶は信長についてひどく知っているのだな」
感心したのか、呆れているのか道三が何とも言えない顔をしていた。
実はこれらの信長の噂はつい先ほど、帰蝶の嫁入りの話を聞いて大激怒した衛門がいっていた噂が大半だったのだが、帰蝶は素知らぬ顔で誤魔化した。
「とにかく、信長が父上のような大器であるはずありません!」
道三は苦笑をすると首を振った。
「帰蝶よ、わしを褒めてくれるのは嬉しいが、お前は一つ勘違いをしている。――大器とは必ずしも良い意味ではないのだぞ」
「へ?」
帰蝶の目が丸く見開かれた。
「天下を治めるに値する才を大器、という。だが一方で、天下を地獄に変える才もまた大器である」
道三の目が冷たく光る。
「織田信長はそのどちらかだ、とわしは思う。だが、わしには美濃の領主の座がある故に判断できぬ」
淡々とした父の声音に、帰蝶は初めてその真意を理解した。
頭を殴られたような、すさまじい衝撃がした。
帰蝶の表情でそれを悟ったのか、道三は静かに続けた。
「織田信長を暗殺すべき男がどうか帰蝶自身が見極めて事をいたせ、ということだ」
しんとした沈黙がその場を覆った。
何も言えなくなった帰蝶の前に、道三は姫土岐丸をそっと置く。帰蝶の目が紅にくぎ付けになった。
帰蝶は爪が食い込むほどに強く己の手を握りしめた。
「……父上はそんな大任が私に果たせると思うのですか」
「わしが人の技量も見抜けぬ男だと思うのか?」
先の帰蝶の発言を思い出したのかくすり、と道三が笑う。帰蝶は答えられず、別の方向へ質問をかえた。
「もし、信長が暗愚でなければ――私はどうなるのですか」
「さすれば信長を支えるだけだ、美濃とこの乱世の為に」
「……信長が大器でなくとも?」
帰蝶の声は少し、震えていた。
「いや、信長は間違いなく大器だ。間違いなく」
帰蝶は道三の顔を見上げた。
「信長が真にうつけならば、お前が討て。だが、もし信長が名君の大器ならば――」
道三は言葉を区切り、一瞬の躊躇を見せてから言った。
「……お前は美濃に刃を向けても構わない」
帰蝶は何も言わなかった。父の顔をもう一度見て、目の前に置かれた短刀を見つめる。
この選択はきっとこの先の全てを変えてしまうような選択なのだろう。そんな予感が嫌というほどしていた。そして、二度と後戻りが出来ないような予感も。
どれだけの時間が流れたのだろうか。やがて、彼女の白い手がゆっくりとその短刀に伸びた。ひんやりとした、重みのある感触がした。
「その命、拝命いたします」
重みを両手で握りしめる。目線を上げれば、帰蝶の目と道三の目が交差した。
帰蝶はもう迷うことはしなかった。
意思の強い光が帰蝶の眼の奥で揺らめき、覇気というべき覚悟の気配が彼女を覆う。全ての思いを持って帰蝶は道三に相対した。
やがて、道三はふっと微笑を浮かべた。それは帰蝶によく似た微笑だったが、どこか悲しげにも見える、そんな道三に、帰蝶は覚悟を更に固めるため、告げた。
「父上、この命を受けるにあたり、私から父上にお願いしたいことが一つございます」
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