十九話 快気祝い
正論ほど、まじめな人間を言いくるめられるものはない。案の定、衛門は怒りと困惑、そして悔しさが一緒になった表情で、言葉を詰まらせていた。正しくぐうの音も出ない、という顔である。
だがそんな衛門にたいして信長は特に追い打ちをかけるわけでもなく、彼は隣の近衛へと視線を移した。興味が失せた、ということなのだろう。
「お前のほうは見かけない顔だな、もう一人の侍女の鷺か」
「はい、病弱故いつも姫様のおそばにはおれませんが、精一杯お勤めをさせていただいております」
「ふーん、お前がね」
信長の感情の色が見えにくい視線はどうにも心臓に悪い、疑っているのか、探っているのか、はたまた何も考えていないのか――まるで分からない。
近衛も近衛で感情がまるで読めないのだが、こちらは全く変わらないから読めないだけであって彼女のほうが相対するには幾何かは気楽である。気分の悪い沈黙の中、近衛と信長の視線が重なり、ぽつりと信長が言った。
「面白い顔をしているな」
「お褒めいただき光栄でございます」
信長の言葉ははっきり言って女性に言うものではなかったが、慣れっこなのか、単に不快さが顔に出ないだけなのか近衛の顔は相変わらずの無表情で、まったく光栄な様子には見えない。
さらに信長などどうでもいいと言わんばかりに勝手に茶の用意の続きを始めてしまう。
だが、信長はさして気にした様子もなく、むしろ感心したような様子で濃のほうを見やった。
「お前も変わったやつを手元に置いているんだな」
「ええ、素敵な侍女でございますよ」
濃は有無を言わせぬ強い語調で言い切るとにこりと信長に笑いかけた。
濃なりのこれ以上は詮索するなというメッセージだったのだが、なぜか彼は濃から不自然に目線をそら黙り込んでしまった。
単に興味が失せたということなのだろうが、何らかの反応があると思って身構えていた濃は肩透かしを食らった気分だった。
そうこうしているうちに、用意ができたらしい近衛が濃と衛門の前に茶を置いた。
信長をいつまでも黙らせていくわけにもいかないので、濃は信長に切り出した。
「それで、本日は何の御用でございますか?」
「用ねぇ……」
どことなくつまらなそうに言ってから、少し頭をひねった後、信長はあっさりといった。
「顔を見に来た」
「……顔ならばもう見えたかとは思いますが?」
いつぞやのやり取りと全く同じである。半分あきれたように濃が言うが、信長は気にすることなく空になった茶碗を近衛に差し出した。
「酒、ないか。強いやつ」
「生憎と、姫様があまり好まれないので」
「じゃあ、白湯でいい」
「信長公」
なんだかはぐらかされたような振る舞いに納得がいかず、濃は微笑みながらも剣呑な目でもう一度問いかけた。
「それで、本日はどのような御用で?」
信長の面倒くさそうな目と、濃の有無を言わさぬ目が交差した。やがて、根負けしたのか、茶碗を近衛に渡した信長が答えた。
「病に臥せっていたんだろ」
「ええ、まあ軽くですが」
「だからその見舞いと快気祝いだ」
そう言うと、信長は先ほど投げてよこした巾着を指さした。巾着は濃の手元にはあったが、未だあけられてはいなかった。巾着越しに持ってみると柔らかく、ほどほどの質量があり、そして何より動いていない。
「開けてもよろしいですか」
「開けなくてどうやって食うんだ」
濃としては礼儀作法的な意味で尋ねたつもりだったが、信長は怪訝な顔でやや声をとがらせて答える。
相変わらず納得しにくい反応ではあるが、その発言からして中身はどうも食べ物であるようだ。濃が巾着を慎重に開くと、中から紙に包まれた丸いものが数個出てきた――菓子、らしい。
「……城下町で買われたのですか?」
「安心しろ、ただの饅頭だ。俺は食ったことがないが美味い」
いろいろと問い返したい言葉であったが、信長に関してはいちいち掘り返してもいられないので濃は笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。私は甘いものが好きなので」
「餅のほうがよかったか?」
無難にお礼を言ったつもりだったのだが、何が引っ掛かったのか、奇妙な問い返しをする信長に、濃は首を振った。
「いえ、饅頭は非常に好きなので。美濃でも時折食していました」
「……そうか」
そして好きが高じて作るほうにも挑戦した結果、すさまじく固い別物の大福を作ったのはいい思い出である。
脳裏をよぎった懐かしい思い出に、濃は思わず笑みをこぼした。
話の切れ間と判断したらしい近衛が白湯を継ぎ終わった湯呑を信長に差し出すと、彼はそれがまるで酒であるかのようにちびりとやり、つまらなそうな顔をして言った。
「濃」
「はい?」
「家中で面白い話が流れていることを知っているか」
ついに来たか、濃は優雅な笑みを浮かべながら仮面の裏で背筋をスッと伸ばした。
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