二十二話 偶然

 突然上がった衛門の悲鳴に、途端に場の注意が濃と土田御前から、その背後へとそれた。彼女の足元に薄汚れた茶褐色がはい回るのを見て、控えていた侍女たちも慌てたように身を引く――鼠だった。


 あっという間に騒然となりかけたその場で真っ先に動いたのは濃だった。

 濃はきっとした目で衛門を見やると、怒りを隠さない険しい口調で衛門をしかりつけた。


「衛門、お義母様の前で無礼でしょう!」

「申し訳ありません、鼠に驚いてしまいまして」


 衛門はかすかに震えていて、見るものの同情を誘う姿ではあった。だが、濃はそんな姿には構わず冷たく言い捨てる。


「理由は関係ありません、目に余ります――下がりなさい」


 濃の怒りを抑えない態度におびえたように、衛門が深く頭を下げ青白い顔で退席する。周りの侍女も濃の怒りは思いのほか迫力があったのか、固唾をのむといった様で彼女を見た。


 場の視線が侍女を退席させた濃へと自然と集まった。濃はその視線を受け、ほほ笑んだ。

 修羅のごとき顔から、一瞬で花開くようなほほ笑みを浮かべたその変わり身に、誰かが恐れるように息を呑んだ。


「お義母様、ご不快なものをお見せして申し訳ありません。何分田舎の者ですので、どうぞご容赦を」

「……いえ、かまわないわ。あれならば、驚いても無理はありません」


 土田御前はそういうと、気を取り直すように笑みを浮かべた。


「それに母と子の歓談ですもの、そう固いことは気にしなくてもいいのですよ――さあ、気を取り直して双六でも致しましょう」

「お義母様、かたじけないです」


 二人の言葉を合図にして、侍女たちが先ほどの騒ぎなどなかったかのように双六の準備を始めた。濃はその様を見ながら、土田御前に尋ねた。


「盤はどちらのものを使いますか? 私も美濃から持ってきたものを持参したのですが……」

「せっかくですから、貴女のものを使わせてもらいましょうか――まあ、立派な」


 ひとたび、双六をするということになれば、話題も当然双六の話題が主流になる。それはつまり、気まずい話題がでかけても、双六の話題にいくらでも話をそらせるということだ。


 濃が先日に二人に言っていたことは単純だった。

 土田御前の敵にもならず、味方にもならずに振る舞えるよう、いざという時には邪魔をすること。

 土田御前とて頭を下げてまで濃を引き込みたいとは思わず、さりげなく濃の悩みに手助けするような姿勢で、あくまで彼女が強い力関係の上で味方に引き込みたいはずだ。

 その微妙な間をつき、相手の思惑を見るだけ見て、自身は明言せずに逃げ切る。


 そのために場を崩させる手段として、近衛も衛門も何種類か仕込みをしていた。その一つがあの鼠である。

 衛門自身が懐に忍ばせていた鼠をあたかも何処かから現れたかのように放ち、おびえる演技をした、というのが事の顛末だ。実際の彼女は鼠を素手で捕まえられるし、その程度でおびえる人間ではない。


 今頃衛門はさっそく次の手段の準備をしていることだろう。手段は何も中からだけではない、外からの方が証拠を残さず偶然を引き起こすことも多いのだ。


「さて、お手合わせと参りましょうか。どちらから賽をふりますか」


 濃は穏やかに微笑みながら、土田御前に尋ねた。

 自分はそう簡単に釣り上げられる獲物ではない。

 釣り上げられるとしても、それは出される餌をすべて出させた後、釣り上げられてもいいと判断した後だけだ。


 二人の間にはあっという間に道三が濃に送った双六盤が整えられ、豪奢な着物を着

 た女たちが盤を囲むさまは平安の絵巻の一幕のようだった。


「そうですわね」


 土田御前は曖昧な笑顔を浮かべると、帰蝶の問いには答えず、ひょいとその奥の侍女に目配せをする。その意味ありげな動きに、濃と近衛がスッと眉をひそめた、その時だった。


「母上、失礼いたします」


 聞き覚えのある声に、濃の脳裏を嫌な予感が走った。青年になり切れない少年の声というべきか、この状況、言葉からして容易に想像がつく。


「おや、これは姉上ではありませんか。母上のところにいらしていたのですね」 

「……これは信行様、お久しゅうございます」


 案の定、その場に入ってきたのは信行だった。

 彼は驚いたような顔を浮かべてはいるが、やはりどこか白々しい。偶然などではなく土田御前が呼び出したのだろう。

 濃には予想ができなかった展開で、一枚上手に出られたことを濃はさとった。


「おや、これはお二人とも仲がよろしいようで。せっかくの邪魔をしたくはありませんし、また後ほど出直しましょう」

「邪魔なぞ、そんなことはありませんよ――そうだ、お前も確か双六が好きでしょう。信行も一緒に一つ遊びでもどうでしょう。濃姫様も義弟と親睦を深めるよき機会となるでしょうし」


 いかにも名案を思い付いたという土田御前の態度だが、これも胡散臭い。

 だが勿論、濃がこの場でその申し出を断ることが出来るわけもなく、その理由もなかった。


「義姉上、同席させていただいてもよろしいですか?」

「ええ」


 濃は美濃の姫君らしい、彼女にとっては宣戦布告となる美しい笑顔をそこに浮かべた。

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