二十一話 和やかなれども
本音と建前という言葉がある。
思った言葉を口にして物事がうまく進むということは難しく、そのために場所や時に応じてそれぞれ適した皮をかぶるという日ノ本ではいつの時代でも珍しくない風習だ。
とりわけ政治や権力に関係する人々にとって、それは当たり前のことで、彼らの言葉は言葉以上のものを含んでいることが少なくない。
すなわち仮に一見和やかで、互いを思い合う会話をしていたのだとしても、そのまま背後を刺されることだってありえる、ここはそんな世界なのである。
「それにしても、貴女の体調が戻ったようで一安心です。本当に心配したのですよ」
「お義母様には大変ご心配をおかけしたみたいで、お気遣いいただけて嬉しく思います。見舞いの品など、勿体ないばかりで」
「あら、貴女は私の娘なのですから、当然でしょう。気にしないで」
「そのように思っていただき、誠に光栄でございます」
お互いにひときしり言い合うと、濃は目の前の相手と上品に声を立てて笑いあった。
そのにこやかすぎるやり取りは腹の内はどうなっているのかは置いておいて、表面上には非常に順調そうで、濃とその後ろに控える衛門と近衛は胸をなでおろしていた。
信長が夜中に訪れたその翌日、濃は嫁入り道具の盤双六とともに土田御前のもとを訪れていた。
土田御前は本当に以前の彼女と同じ人物なのか疑いたくなるぐらいに、上機嫌に濃を迎え入れ、温かな雰囲気でその会は始まった。
今日と明日では関係が変わっているこの乱世において、人の変わったような振る舞いは珍しいことではないが、やはり少々気味の悪いものはあった。
「そういえば、貴女が来てくれると聞いて、とっておきのものを用意したの。お口に合えばいいのだけれども――夕霧、こちらへ」
土田御前が思い立ったように彼女の侍女を呼ぶと、控えていた女が茶を持ってきた。小さな小箱も持ってきており、開けると中からは小ぶりでかわいらしい上品な饅頭が姿を現した。
「織田家で贔屓にしている職人に作らせたものです、貴女が気に入ってくれればいいけれど……さあ、召し上がって頂戴」
「ありがとうございます。こう見えて私は甘いものが大好きでして、美濃でもよく食しておりました」
濃は最新の注意を払って、饅頭を小さく切って口に運んだ。
ここでうっかり作法を間違えたり、落としたりしようものならばどう揚げ足をとられるか分からない。この状況で即座にあげつらわれることはないだろうが、後の悪評の材料になるものは作らないに限る。
細心の注意を払いながら土田御前への話の切り出し方を考えていたからか、上品な甘さはよくわからなかった。
濃が口を開く前に、土田御前自身が口火を切った。
「ところで、吉法師とは最近どうなのかしら」
「どう、でございますか」
思いのほか直接的な切込みに一瞬濃の眉がひょいと上がったが、それ以上の感情を出さずにただ困ったような顔を浮かべてみせた。
濃としては突然の話題に困惑した態度のつもりだったのだが、土田御前にとっては願っていた反応だったらしく彼女は食い気味に言いつのる。
「無理に気を使わなくてもよいのですよ。私はあの子の母ですが、貴女の母でもあるのです。城内にいれば話は嫌でも聞こえてまいります、何か私が力になれることがあるかもしれません」
心配するような口調で有りながら土田御前の目は獲物を目の前にした鷹そのもので、隙を伺う剣呑さを宿している。
どうやら、濃から信長との不仲の話を聞きだしたいらしい、濃はそう察すると困ったような顔のまま続けた。
「ご心配していただいてありがとうございます。確かに信長公と私では少々色の良くない噂もあるかもしれませんね、お義母様のお耳に何か伝わったのですか?」
「ええ、残念なことだけれども、私の方も無視はできないほどよくない噂があるみたいでよ」
その噂の何割かは土田御前自身が流すなり、煽るなりをしていそうなものだが濃は黙って先を促した。
「貴女と吉法師は政秀の力もあってやっと結べた縁談でしょう? せっかくの尾張と美濃との懸け橋となるべきおめでたい縁なのに、あの二人はそりが合わないのか上手くいっていない。これでは吉法師がまさか家督を告げたとしても、いつ姫が美濃に帰るかわからない、と」
「お義母様、ご心配なさらなくても私は簡単に家に逃げ帰るような女ではありません」
「ええ、それは分かっています。貴女はもう立派な尾張の女よ」
土田御前は大げさに頷いた後、さらに大げさにため息をついて熱弁した。
「これらの噂、貴女は全く悪くないのよ。吉法師が正妻をせっかく美濃の道三様からいただいたのに少しも振る舞いが治らないから。あれでは貴女がどれだけ心をつくしても疲れてしまうのは当然のことよ」
「お義母様、私は」
やんわりと土田御前の言葉をとめようとするものの、一度火のついた彼女は簡単には止められないらしい。
「他家に嫁いで居づらいのは分かるけれど、嫁いできた以上は尾張の女。私に言ってくれればできることだって、きっとあります。貴女の味方は城内にいくらでもいるのです」
言外にその味方は目の前にいるといいたいのだろう。
だが濃だってその味方が濃の行動一つでひっくり返る様な、かりそめの味方ではあることぐらい分かっている。
分かりやすいが厄介な展開に濃が苦笑を浮かべた瞬間、背後で小さな悲鳴が聞こえた。
「きゃっ!」
途端に場の注意が濃と土田御前から、その背後へとそれる。見れば衛門がひどく真っ青な顔でおびえるように立ち上がっていた。
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