二十四話 義父との語らい
納得のいかない会を終えた、その夜のことだった。
「今日は散々でしたね」
疲れ切った衛門の言葉に異を唱える者はいない。全員が全員疲れていた。それでも、衛門だけが怒りの衝動で話す元気があるようだった。
「全く、大うつけにもほどがありましょう! 作法や礼儀をなんと心得ているのか、姫様やはりさくりと」
その時だった。全員の視線がふすまの外へとむけられた。こちらへと向かう足音がするが、心当たりは一人しかない。
「また、信長公ですか」
何をしようというのか、まさか弁解などないだろう。これまでの美濃を利用しようとしない放任主義な姿勢といい、土田御前と信行との関係にくぎを刺しに来るとも思えない。
だが、今夜に関しては素直に嬉しかった。流石に、言いたいことがたまっている。帰蝶は本来ならば直情型で、これでも我慢に我慢を重ねていたのだ――少しぐらい物を申してもいいだろう。
濃は足音が部屋の前にくるのを見図り、襖をあけた。姫君としての作法は形もないが、どうせ挨拶もなく入ってくるつもりだ。文句だけ言って締め出してやろうと息を巻いていたが――思わず固まった。
「信長公!」
「ほう、思いのほか大胆だな」
「な」
あまりの驚きに声が出てこなかった。そこにいたのは信長ではない、それよりもずっと上の年代で見覚えがある貫禄のある男と、影のように付き添う男がいた。
「の、信秀様?」
「夜更けに悪いが、少々よいかな」
「あの」
「信長のことだ」
そう言われれば、濃としては断る理由などない。濃は目線で二人に指示をすると、信秀と供の男を迎え入れた。
「……このような訪れはあまり良いことではないと思いますが」
「流石に義娘の寝所に行くのはどうかとは思うが、一度話しておきたくてな。――これについては気にしなくていい、信頼できるものだ」
苦笑いをする信秀に、近衛が茶を差し出した。が、彼は首を振って断った。
「いや、結構。そう長居するつもりなはない、本題は簡単でな」
簡単と言いつつ、場には尋常でない緊張感が満ちた。
「実はな、土田におぬしの離縁を提案された」
「いかがいたしまして?」
濃のことを元から快く思っていなかったうえに、取り込みにも難航している土田御前がそう言いだすことは十分に予想できる話だった。
顔色を変えず他人事のように切り返す濃に、信秀は面白そうにくつりと笑った。
「ほう、流石はマムシの娘、そう簡単には驚きはせんか」
「お褒めいただき、光栄でございます」
「おぬしはどうするのが良いと考える?」
「美濃と尾張の仲を取り持つのが私のお役目。美濃と事を構えることこそ尾張のためとなるならば、離縁が適切でしょう」
暗にやれるものならやってみろ、と笑顔で言う濃に対しても、信秀は顔色を変えなかった。
「美濃にとっては、此度の婚姻は利するものだったかな?」
「それはもちろん、周辺国との良好な関係は何よりも重要ですから」
「ほう、では信長を夫として迎えておぬしはどう思った」
国としてではなく、個人として尋ねられ、濃は少し答え方に迷った。
信長に対して思うところは多くある。腹が立ったり、頭を抱えたくなったことは一度や二度ではない。それでも、それをうつけと切り捨てられない、目を離せない何かが彼には有った。
本当のところは自分ですら、彼をどう思っているのかわからないのかもしれないと濃は内心苦く思った。
「変わった方だと思います」
「うつけと思うか」
「……お考えが人と違うのかと」
歯切れ悪く答える濃を信秀は追及しなかった。彼はどこか温かなまなざしで濃を見ると、おもむろに語りだした。
「あれは昔は品性方向でな、土田の自慢の息子だった」
「信長公が、ですか」
それはあまりにも想像がつかない内容で、濃は目を丸くした。それを興味深そうにみると、信秀は懐かしそうに続けた。
「そうだ、想像もつかないだろう。学に秀で、礼儀や武を重んじる、今の信行に少し似ていたな。だが、ある時から別人のように変わった――あれにせがまれて尾張を見せたその後だった」
うつけが領地を見て、領民を知り、考えを改めるのはわかる。濃も領民や領地の話を耳にするたび、美濃の里や町を見るたびに、斎藤家の姫としての自覚や責任を感じていた。
だが、逆とはどういうことなのか。彼は己に課せられた国を見て、何を考えたのか。分からない――知りたい、と思った濃がいた。
「奇行のあまり狐につかれたと土田は言ったがな、だがわしから見ればあれは何も変わっていない」
「何故、そう思われるのですか」
「それこそおぬしと同じよ」
思いがけない切り替えされ方に、濃は相当間抜けな顔をしていただろう。素が出たといってもいい、それを見て信秀は笑った。
「うつけと言われようが、目を離せん。あれはそういう男だ。そして、それこそ信長が必要な理由だ」
「尾張には信長公が必要だと?」
「さて、それはどうだか」
どことなく人を食ったような態度は、父に似ていた。戦国を生きるというのはそういうことなのかもしれないが、少し納得がいかなかった。
だが、濃が問い詰めようとする前におもむろに信秀が立ち上がった。
「濃姫、今宵話せたことは誠によかった。ああ、土田の事は気にせんでいい。家中の詫びに入ったようなものだからな、わしはこれにて失礼しよう」
「――さようですか」
大義名分足りえる離縁の事は、あっさり信秀に確約されてしまった手前、引き留めることはできなかった。消化不良のような気持ちはあったが、長居をされてもこまるのは濃だった。
濃の目くばせに応じ滑らかな動作で彼女たちが襖をあけ、道を作る。信秀は濃の顔を見て目じりをわずかに下げると、そのまま外へと向かった。付き従った男はこの場においても終始無言だった。
「お義父様、此度はわざわざ足を運んでいただきありがとうございます」
「何気にするな、元々美濃との縁は今の尾張には切れん」
そういった口調は、どこか苦笑めいたものが感じられた。信秀はそのまま足を進め、おもむろに歩みを止めた。
「おぬしのような娘が信長に嫁いで良かった。あれにはおぬしが必要だろう――のことを頼む」
故意かはわからないが、最後はよく聞き取れなかった。だが、問い返す間もなく信秀は悠々と去っていく。
その後ろ姿は堂々としており、威厳や覚悟を感じる当主として生きた大きな背中に、濃はしばし見ほれた。父道三と似て異なる覚悟や人生の片鱗が見えた気がしたのだ。
そして、その後ろ姿が濃が見た彼の最後の姿となったのである。
それから数日後のこと、織田信秀は病に伏した。あまりにも唐突な知らせに尾張家中は大いにゆれた。
医者などが呼ばれ手に手を尽くしたが、その甲斐虚しく、瞬く間に彼はこの世を去ることになった。40年ほどの生涯であった。
戦乱の世を巧みにわたり、生きた男は何を思っていったのか――周囲に何を言われても変えなかった嫡男にどんな未来を託したのか。
それは最早誰にも分からない、信秀の夢へと化したのである。
裏 信長公記 石崎 @1192296
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