断章『ラドゥーン包囲戦』
かつて、あの人は、それを卒業試験だと言った。
私は、それに合格できなかった。
あの人の卒業試験は、私にとって、むごいことであったから。
そう……父親をこの手で殺したことより、一億倍むごい。
◇ ◇ ◇
ケセド共通歴二〇一四年、二月。
ラドゥーンの国は、これまでの二千年、領土を細長く、左右に広げた女の両腕のような形を作っていた。
なぜ、このような、いびつな形の国土を造り上げたのか、ヘスペラは、先王たちの趣味をまるで理解できなかったが、今回のヨルムンガンド対戦の役には立ちそうだ。そう思っていたのだが――
「報告! 各地点にて、巨大な壁が築かれました」
開戦の刻を知らせる日の出の半刻前。まだ空は暗く、松明が点された本陣のなかに、伝令が駆け込んできた。
彼は、一夜にして築かれた長大万里の壁について、息せき切って説明している。
妹王が、こちらに視線を投げる気配がした。家族であるから、半ば盲目半ば弱視であっても、その気配を感じ取ることは容易だ。
「土嚢を用意していたのでしょう。ヨルムンガンドは、熊のベルゼルクルを配下にしていたから。彼らの怪力で築いたのね」
かつて、ヨルムンガンドの逆臣から献上された、黒い羽扇で手ずから伝令の顔を扇いでやる。
「姉貴、」
「たった一晩の作業量で完全な壁が築けるはずがない。穴は、必ずある。それを捜しなさい。ただし、見つけてもすぐに突入せず、偵察小隊を先行させること。本隊は、遠眼鏡を使い、それを観察。亢龍軍師ならば、そこに罠を必ず張る」
「はい!」
伝令が、とんぼ返りで、前線に舞い戻る。
「現物を見てないのによく、わかるねえ」
「よくある一夜城というものよ。亢龍軍師の受け売りだけど」
「なんだ、じゃあ手の内ばればれか」
「おそらく壁の内側に、罠を張った上、ヨルムンガンド兵が待ち受けているでしょうね。武器庫の弩弓の紛失に関する報告があった。おそらく、これも先生の仕業ね。でなければ、壁を築くわけがない」
ヘスペラは顔を、一夜城の壁へ――北の方角へ向ける。
日の出だ。霊宮がその長大な尾を出し合って、国橋を架けた。
それ以外の各地点に、架橋橇を用意しており、包囲の準備はしている。
「外から射撃しても、無駄ね。土嚢は、土砂が矢の威力を殺してしまう。安全地帯からの射線も通らないわ。子細確認がとれるまで、無謀な突入は禁止」
「おう。しっかし、亢龍軍師が敵か。あの眼鏡、とっつかまえたら達磨の芋虫にでもして、檻のなかで飼ってやるか。姉貴に、不格好な土下座させてやるよ」
妹に手を引かれ、陣の外へ出ながら、ヘスペラは首を振った。
「そんなふうに脅しても、絶対に土下座なんて、しないわよ。あの人を動かせるのは、自分の胸にある理想の王だけ」
――三年強の契約で、名のある軍師を雇った。
亢龍を名乗る男と一緒にいる間は、家族の不和を忘れることができたから、ヘスペラは契約延長を願い出た。
捨てないでと縋りついたし、愛しているとも訴えた。
その時の、彼の表情は忘れない。この世すべての憎悪と嫌悪をかき集めたような、あの目つきを。
こちらを蔑みながら、彼は言った。
『俺の卒業試験を合格できたら、考えてみよう。俺を相手に戦って、俺を殺すことができたのなら、俺の屍を好きにすればいいんじゃないか?』
できるわけがない、生きて喋って、時々頭を撫でてもらうのが好きだったのに。
殺せるわけが――
どこかで、銅鑼が大きく打ち鳴らされた。戦意の高揚をうながすように、それは連打される。
「今なら……今の私なら、殺せる……」
「なに?」
「アレズサ、私に遠慮しなくていいから。亢龍軍師は殺しましょう、それが誰の為でもなる」
「……いいの?」
「防壁の内側は進軍を阻み、軍隊を細分化するための柵、塹壕、弩弓警戒のための盾、ヨルムンガンド側に有利な順路が設置されているはず。その順路はおそらく狭いわ。偵察確認後、弩弓兵ではなく、弓兵にありったけの火矢を撃たせて、伏兵をあぶり殺す」
「ええ? ……だって、あれだろ。前の戦、ヨルムンガンドは国境で、炎の壁を築いたって話だろ。こっちにまで延焼したら、」
「アレズサ、あなたは先王を超え、永遠不変の上帝になると。そう誓ったでしょう、あなたが言ったのでしょう? あいつを超えるのだって」
妹王が、その肉厚な手を、剣の柄にかける。
「……わかったよ、ねーちゃんがそう言うなら」
来い、と妹が軽々こちらを担いだ。
いつもの輿に載せ、衣服の裾の乱れを整えてから、担ぎ手に合図する。
そして、軍馬にまたがった妹は不敵に笑った。
「姉貴! あたしが亢龍と幼帝の首を盆に載せて持ってくるとこ、右目でしっかり見ろよ? なあ!」
出陣の銅鑼は、打ち鳴らされる。
「親征なり、親征なり!」
「女王が出なさる!」
「アレズサ万歳!」
王旗を掲げ、軍馬で駆ける妹王の背は、すぐに遠のいて行く。
「私は、ここまでで、いいわ。ご苦労、とめて」
担ぎ手に指示し、自らの進軍は、国橋の手前で止める。
仮面をかぶった男が、やって来て、砂地に膝をついた。
「……アペプ領の火種は?」
「申し訳ございません。戦前に、幼帝の悪評を撒きましたが、甲斐無く」
「混水摸魚は失敗か。アペプ人は、名誉尊厳より、水を取ったわけね」
羽扇の内側に、口元を隠し、思案する。
「他に何か気づいたことは?」
「枯れ地のため、戦前より海岸沿いは漁業が活発でしたが、ここしばらくは漁船の造船を開始して、遠洋での操業を、」
「造船……漁船……?」
頭を巡らせる、古代の戦の例を思い返す。
「ああ、背面取り!」
思いついて、後ろを見やる。
「眼前は、おそらく最低限の兵力を残した空城。ヨルムンガンド本隊は、南方沿岸から船より上陸すると見た。すみやかに隊を二分して、精鋭は南方にあたれ! 上陸直後ならば勝機はある」
「はい!」
「あなたは伝令後、索敵に回って! 王将か軍師の在所を確認」
仮面男は、その場から、すばやく駆けだした。
「地形から、こちらの包囲戦になると思ったが、逆に両翼包囲されるか。……みな、疲れているだろうが、頼みます! 私は、南方指揮にあたる!」
輿が浮き、ぐらりと体が揺れる。
〈……待って。これが複数の策を合わせた連環ならば、もうひとつ、〉
あ、と吐息が漏れる。
「左右だ! 東西から、脚の速いのが、」
思いついたと同時、銅鑼が打ち鳴らされた。
その数と律動に、心臓が跳ねる。遠くから馬の迫る音が聞こえた。
「ヘスペラ様! お降り下さい、輿では逃げ切れません」
「お手をどうぞ! 防砂林に入ります」
担ぎ手が、こちらの手を取った。
海岸の防砂林に逃げ込むと同時に、騎馬武者の一群が駆けてきた。
旗二本が交差した家紋を掲げ、朱塗りの軍装をまとっている。ヨルムンガンドの精鋭、二之旗本の騎士――武士の一団。
ただし、彼らは駆けて過ぎるだけ。背を低くして、疾駆に集中しており、すぐに戦闘をする気はないらしい。
「上陸されたのか!」
「後ろだ、後ろ!」
前後左右で、ラドゥーン弩兵たちの惑う声が聞こえる。
「馬首かえぇ! そのまま釣れえぇ!」
陣頭指揮をとる武士が叫ぶと、騎馬武者は失速後、反転して、もと来た道を戻る。
「逃げたか」
「追えっ、追え!」
「そのまま針ねずみにしちまえ!」
すばやい奇襲に怖じ気づいたものの、逃げる背を見て、いくらか気力を回復したらしい。ラドゥーンの兵は、赤い背を追う。
「駄目よ、それを追っては……!」
怒鳴ったが騎馬や人々の怒号、巻き上がる砂に、声はかき消される。
砂煙の向こうで、いくらか刃の打ち合う音がしたかと思えば、ふたたび馬のいななきは遠ざかる。
ラドゥーンの兵は、先王を斃した経緯から、結束は固く強い。しかし、この数年は弩弓の性能頼みで、接近戦や遭遇戦の練度が落ちている節があった。
〈私の失策だ。最近は弩弓に頼って、訓練の時間を減らし、土木作業に兵士を使った〉
それなりの練兵では駄目だったのだ。
ヨルムンガンドは十二年もの内戦を経験した。そこで生き残り続けた戦士や武士の練度は如何ほどか。
「姉貴!」
「……アレズサ」
「ここにいたか! 壁の後ろは、たしかに寡兵だった。でも、みんな、熊人間どもにびびっちまってる」
「ベルゼルクル……狂戦士の一族が前、横から武士か。後ろから何が来ても、もう驚かないわよ」
「は?」
「武士の釣り野伏せを、深追いする必要はない。海上の船団から騎馬の輸送なんて、数は限られている。しかし、正面の、悪名高いベルゼルクルとまともに戦えるとは思えない。荷運びの牛を、壁側に向けてから、角に剣、尾に火をつけて放ちなさい」
「ああ、なるほど。肉を前にして、熊が引っかからないとは限らないってか」
妹王は感嘆して、こちらを褒め称えたが、ヘスペラは、それだけで勝利を引き寄せられるとは思わなかった。
自分の切り札も手札も、亢龍軍師は把握済みだろう。
「いくら頭を使っても結局は、王将の首を奪らなきゃ終わらない、か」
アレズサ、と妹の名を呼ぶ。
「なに?」
妹は、自分の声音に含まれる不穏の響きを感じたようだ。小声になっている。
「先の釣り野伏せ、討ち死にした武士の装備を回収しなさい。あとは、仮面男を呼んで来て。あれに向こうと接触させ、こう言わせるのよ。『道すがら、ラドゥーンの軍師を討ち取った』と。あとは仮面が、お膳立てしてくれる。……例の首桶の準備するから」
「首桶……霊宝を使うのか。しかし、ありゃあ、」
「対戦前に一通り、文化歴史はたたき込んできた。二之旗本の武士は首実検を尊ぶ、それを逆手にとれば……いい? 必ず勝つのよ。あなたが、あなた自身の手で勝つのよ」
「死ぬ気かよ!?」
「ただじゃ死なない、この首と引き替えにしてでも絶対、幼帝か軍師を道連れにする」
「そんなこと、」
「言ったでしょう? ただじゃ死なない。あなたは、先王を超えるのよ。誰も行かなかった、神の高みに昇る。それだけが、私たち姉妹の自尊心を、傷を回復させる。あいつを……見返してやれる!」
かつて、亢龍軍師に言われたこと――…
たとえ死んでも、自分の死すら、策に組み込むのが軍師だと。
自分の望みのために、命すら捧げる覚悟を持つのが軍師だと。
自分の望みは、なんだった?
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