錯覚する予兆

 一度、死んで、そして蘇生した時から、やけに夢見が悪い。

 僕ではない、誰かの夢。

 正直なところ、僕は、僕自身の人生すら、ひいひい言っているくらいなのに、他人の誰かの夢まで背負うのは疲れる。


     ◇ ◇ ◇


 白、黒、灰色の夢の中、"僕"の手足は僕より長く、すらりと伸びていた。

 髪を伸ばしているのか、揺れて跳ねては、髪束が視界に入ってくる。それは単純に黒い。


 室内。

 生活に困らない程度の家具。卓上の紙束に、字を書いた賽子が三つ転がっている。

 室内に姿見の鏡が無いので、ここにいる"僕"もまた男なのだろう。男は、女性ほど鏡を必要としない。


 僕の意思を無視して、"僕"は歩く。一歩の歩幅が長く、ついついと歩けた。

 なるほど。手足が長い、背が高いというのは、こういうことか。いいな。うらやましい。

 扉を手で押し開ける。

 ほのぐらい燭台の光。太い石柱が並んで、影に満ちて黒い天井を支えている。


 歩く。

 歩く。歩く。


 また扉があった。手で押し開ける。水のせせらぎが聞こえた。

 部屋の真ん中には、巨大な水盤。きのこの傘のような水盤は、人間の背よりも高い位置にある。そのへりから、ざあざあと大量の水がこぼれた。

 床には、浅いみぞの水路が縦横無尽に走っている。

 ――なんて、ばかげて無駄の多い部屋なんだろう。人間の住居というより、神話のなかの神殿みたいだ。


"僕"の足は濡れることを厭わない。歩いて、噴水に近づく。

 ざあざあざあ。水の音がする。水盤から流れ出す水は滝のようだ。

 流れ落ちる水は、全周囲に壁を作っているかに思える。が、よく見れば、人間一人が通り抜けられるほどの隙間があった。

"僕"は、溜息をついて、その隙間に話しかけた。


『英雄、色を好むと言うけどね。義父さん、政務をほったらかしなのは、どうかと思う』


 流水の壁の向こうから、女の声がする。


『うちのふしだらな母親を引き取ってくれて、ありがとう。だけどね、』


 女の声がする。


『あんた、まさか本気で、そいつの夫になりたいだけで、天下統一したとか言うわけじゃ無いだろうな』


 女の声がする。


『戦って、この世のすべてを手に入れたのだから、最後まで面倒みてくれよ』


 女の声がする。


『聖婚を経て、あんたは上帝に、玄女の夫になったけどさ、臣民の悩みは、海上を漂っていたときと変わらない。外敵がいなくなっても、あんたが導かなきゃ駄目だってのに、』


 女の声がする。


 女の声がする。


 女の声がする。


『……ほんっと! いい加減にしてくれ。俺や、霊宮だけで、こんな世界すべてを営めると思うか? くだらん! 愛だの恋だの、本当にくだらん!』


 女の声がする。


『たしかに、俺たち、くちなわ族は神使だ。あんたらの使いっ走りという意味もあるんだろう。だけど政治は、俺の得手じゃない。

 玄女かあさんが、あんたを見初めたから、俺は、あんたの政敵を屠り、他国の敵将を暗殺し、流言飛語で内乱を作り出し、国ひとつ、海中に沈めさえした。……そういうことしか出来ないんだよ、俺は!』


"僕"は、とうとう膝をつき、床に手をついて、しゃがみこむ。

 見下ろした手首に罪人にかけるような縄がくくりつけられていた。

 床にある水面に、顔の一部が映りこむ。


 おそらく、淡い色の目。

 縦に細長い瞳孔。


『……賽子の目で決めるうらない政治に、意味なんてあるのか……』


 肩から、長い髪が垂れ落ちて、床に広がる。


『もしも、次があるのなら。次の上帝は、男がいい。いや、男でなくてもいいから、政治に色恋沙汰を持ちこまない王将がいい。玄女の色香に惑わされない王がいい……!』


 ――そう嘆いたところで、目が覚めた。


 ……ここ半月で見慣れた天幕。現在地、馬鞍戸領で昔から使われていた移動式住居。

 野外だが、布織物や毛皮をふんだんに使っていて、まあ、快適といえば快適だ。


 顔を洗い、着替えてから外に出ると、スズカ姫がたすきがけで土鍋と格闘していた。

 大鴉のワタリは、コノリの手から、干し柿をもらって食べている。

 晴天、風に陣幕が揺れている。今日も、いい天気だ。


「おはようございますですわ」

「おはよう。朝から、鍋を炊くなんて、大変だね」

「わたくし、こう見えて結構、野外料理は得意でしてよ。兄上から、たたき込まれましたもの」


 スズカ姫は、以前よりもずっと元気に、気さくになった。

 二之旗本の元老が義理の伯父に代替わりしたので、僕と結婚しなくてはならない、という強迫観念から解放されたらしい。

 お姫さまらしく、しゃなりしゃなりしているより、こうやってたすき掛けして、動き回っているのが似合っている。


 オニグマを失い、負傷中のスヴェンの代わりの護衛が、スズカ姫というのも変な話だけど。

 もともとスズカ姫は、オニグマ相手に相撲という格闘技の稽古をしたり、薙刀という、槍と刀剣の合いの子のような武器を振り回していたらしい。


「おー! 陛下、おはようございます」

「ああ。おはよう、コノリ」

「コノリは、鶏よりも早起きさんでしたわね」

「朝から、あんなに口やかましくないっすよ」


 コノリが、スズカ姫の軽口に渋面を作った。

 姫は屈託無く笑っている。


 ……うん。よかった。

 リョウ元老の死を喜んでいるわけじゃないけど。それでも彼女には彼女の人生があるのだ。彼女は、親の道具じゃない。

 傍目に痛々しいくらい、しなを作って媚びられるより、友人であってくれたほうが僕にはずっと嬉しい。


「はい、どうぞ! ですわ」


 スズカ姫が、丸椅子に座った僕に雑穀のお粥を差し出した。

 僕が受け取り、食べ始めるのを見てから、コノリにも差し出している。

 一番最後に自分の分をよそって、卓上に載せ、丸椅子に座った。


「陛下、今後のご予定は?」

「武装解除と兵士の収容所の件が一段落ついたから、あとは南方の元老たちで共同統治のとりまとめかな? タラちゃんの症状も確認して、必要ならジゼルを行かせる。そのまま僕は、帰城するよ」


 戦争の位置取りの関係で、南西の不零剣、真南の燦々甲、南東の馬鞍戸を一部戦場にしちゃったからね。彼らの不満を早めに解消しなきゃいけない。特に、軍馬の産地である馬鞍戸は、よく労わないと。


 馬の産地といえば、弓手司と馬鞍戸が有名。

 弓手司の馬が早駆けと弓射に向いている一方で、馬鞍戸のは重く勇敢で、さらに鎧武者を乗せての突撃敢行もこなせる。

 昔から二之旗本の武士たちは、馬鞍戸のを好んで使っていたから、今回の海上船団輸送に耐えられた。それらの功績は大きい。


「馬鞍戸のタラ姫、そんなにお悪いんですの?」

「小さい頃から、気候も風土も違う首都と行き来してたから、風邪を引きやすくなったらしいよ。内々、お話は無かったことにって、元老のほうから」

「権威権力より、個人の幸福を取った、というわけですのね」


 そして突然、あら、と頓狂な声をスズカ姫が漏らした。


「じゃあ、陛下の花嫁候補は、どうしますの?」

「スズカ姫だって、僕と結婚なんかしたくなかったでしょ?」

「え? ええ……そんなことは」

「最初から、僕に本気で結婚を迫ってたの、弓手司のドランだけだし、そのドランも――」


 あー、とコノリが木製のお椀から口を離した。境鳥の一族中、一番の美青年のことを思い出したようだ。


「あのう。寝取られた腹いせに、うちの一族潰したりとか、」

「しないよ。そんな理由で、おおとり族全員を潰すわけがない。弓手司の元老がどう考えるかは、わからないけど」

「弓手司領の人間は、ベルゼルクルの件もあって、獣人に寛容みたいですけどね。ただ、あの派手鳥、とっかえひっかえだからなあ」

「あれ? 彼は奥さんたちを大事にしないの?」

「一応してるんじゃないっすか。自分の武器の使いどころがわかってるし、雌連中が、嫉妬で険悪なところに颯爽と現れて、『みんな愛してる!』で終わりっすよ、セイランは」


 そんな話をしながら、木の匙で、半熟の卵を掬って食べる。

 温暖な気候といっても、やはり風のある野外は寒く、お粥の熱さは身に沁みた。


「……こういう世界だと解ってはいるけど。戦争って、好きじゃないなあ」


 オニグマやリョウ元老、たくさんの兵士が亡くなった。スヴェンは大怪我をして、今は療養している。

 忌憚なく呟けば、スズカが小首をかしげる。


「だからこそ今、陛下は、戦っているのでは?」

「……どういうこと?」

「だって。敵対島国全部をヨルムンガンドに吸収してしまえば、それ以降、国全体を巻き込む戦争なんて、起こりようがありませんもの。内乱という例外はありますけども」


 彼女の意見に、思わず、ぽかんと口を開けた。


「……ああ! そういう見方もできるんだ」


 僕は近視眼的で、未来をきちんと考えたことがなかったのかも知れない。

 オニグマが亡くなった衝撃で、悪辣な復讐劇を考えてしまって、結果、その汚名を先生に背負わせたし。


「早く、そういう平和な世界になったら、いいなあ」

「陛下ご自身が、為すんですのよ? 他力本願は、つまりヨルムンガンドという国が、消えて無くなるって意味ですもの」


 ああ、そういうことにもなっちゃうか。

 できたら、ここから先の戦争は、一騎打ちで終わらせたいな。そうすれば、他の人が犠牲にならずにすむ。

 なんとなく、懐中の薬袋を取り出して、中身を確認した。


 もうずっと薬に頼ってばかり、いずれ、ちゃんと自力で戦えるようにしなくちゃと、中身を覗き込んだのだけど。


「………………あれ?」


 数え間違いかな? ひの、ふの、みの。


 ――ちょっと待て。

 僕は、今まで、この丸薬を何回飲んだ?


 トバルカインの遺跡で、戦闘後に一回。

 ミョゴンと戦う時に、一回。

 アペプ戦。セベク王と戦った時に、一回。

 ラドゥーンとの戦いで、スヴェンが怪我した時に一回。その後、強襲隊との戦いで、一回。アレズサ女王と対峙した時、念のために一回。


 今、思い出せるだけで、六回。六錠は、飲んでいる。

 あと一錠は、地面に落としたときに、拾い食いはいけないとジゼルが取り上げられた。

 そして、袋の中に、丸薬が七錠。


 ……あの時、彼らは、なんて言った?

 先生は、原材料は伝説級の蛇の血と言った。そして、ジゼルは十錠も作れなかったと、そう言っていなかったか?


「どうしたんですの?」


 声をかけられ、僕は、すぐに袋の口を閉じた。


「いや………………霊宝武具を使うときに飲む薬、数を確認していたんだ。あと七回分だなと思って」

「七回もあれば、充分ですわ! この世にあと、三つしか国がないんですもの。マルセル様なら、絶対に勝てます」

「うん。僕も、負けたくはないよ。戦うちからがなくて、一方的にやられて、そのまま殺されるのは、こりごりだからね」

「くあー。おかわり三杯、満腹、満腹。お姫さん、ごっそーさん」


 難しい話は我関せずと、お粥を食べ続けていたコノリが、盛大なげっぷをした。


「まあ、はしたない」

「げっぷもおならも生理現象ですって。堅苦しいのは勘弁してくださいよ、お姫さん」

「…………コノリ」

「はいはい?」

「きみ、先生とは、うまくやってる?」


 コノリの満面の笑顔が、そのまま凍りついた。


「ああー、んんー。まあ、そこそこには」

「先生は、苦手?」

「いやあ、なんてか、かんてか。おいらの勘が、深入りするなって告げてますかねえ」

「……コノリは、人間の耳には聞こえない声を出せるって、言ってたよね? それってたとえば、特定の人には聞こえて、それ以外には聞こえない声も出る?」

「たぶん出せますよ。てか、ええと、生き物には可聴域とかいうのがありまして。これが種族とか、年齢で、違ってくる。個人でも微妙に違ってきますです。だから、その音域を確かめながら、調音していけば、」

「じゃあ、」


 言いかけて、うつむき、口ごもる。

 先生に、不審な言動や行動が見られたら、逐一、僕に知らせろって?

 こんな曖昧な予感。違和感。なんの証拠もないことで、恩人を疑っていいのか?


 ふとコノリを見れば、鳥人間は真顔だった。


「気持ちは、わかりますよ。でも、それやったら、多分おいらの命が危ない。あのひと、妙に頭が回る上、口封じとか平気でやりますよ。

 ラシャプ将軍の頓死。あれ、軍師さんの指示じゃないかって、そんな噂がぽつぽつ出てる」


 スズカ姫は少し離れた場所で、こちらに背を向け、洗い桶の中でお椀を洗っている最中だ。


「森や山の中には、踏み込んじゃいけない場所ってのが、あります。多分、あのひとは、そういう場所にいるひとだと思う」

「わかった。きみ、勘が鋭いものね。

 でも、ひとつだけ。きみたち、おおとり族と先生とに過去、何か接点はあった?」


 アペプ戦での、爆撃空襲。あの作戦が、妙にはまり過ぎていて、昔に、何かの密約でもあったんじゃないかと思ったんだ。


「んーと。軍師さん自身の口からだと、うちの巫女ばばと、師弟関係にあったって」

「おおとり族って、寿命が三十年かそこらじゃなかったっけ? 三十代、いや四十手前くらいの人間を弟子にとるのは、難しくないかな」

「うちの巫女ばば、とんでもなく長生きなんすよ。少なくとも、二之旗本がヨルムンガンド帝国に負ける前からだから……。おいら、歴史、あんまり詳しくないけど、多分、千年以上は生きてるみたい」

「そ、れは。ずいぶん長生きだね」

「だからか見た目は、化け物じみてますって。翼は禿げ上がって、蝙蝠みたいだし、何より尻尾が、蛇なんです。二之旗本の昔話に出てくる、鵺。あの妖怪、うちの巫女ばばが、元ネタじゃないかって」


 考えすぎか。

 もとからお医者さんのジゼルは、薬種問屋から原料を手に入れたんだろうし。先生も、どこかで伝説級の蛇をつかまえて、そのまま薬にしちゃったんだろう。


「……勘は、案外ばかにできないっすよ。違和感あるなら、心のはしっこに留めておいたほうがいいです」


 あとは、いつもの飄々とした顔に戻った。スズカ姫が、食器洗いを終えたからかも知れない。


「スズカ姫、ごちそうさまでした」


 手を合わせて、野外用の丸椅子を立つ。


 ――身支度を調えているうちに、会合の時間になった。

 僕の陣幕の外で、次々に先触れの口上が述べられ、元老たちが入ってくる。

 長単靴、燦々甲、不零剣、馬鞍戸、二之旗本。ラドゥーン領と少なからず、近接する土地の元老五人。


 大人数なので、椅子が足りず、元老たちは地面に敷いた絨毯にあぐらをかいて、座っている。僕だけ椅子というのが居心地悪いが、スズカ姫が絶対に床に座っちゃ駄目ですと耳打ちしてきた。


 議題は、今やヨルムンガンドのものとなった、ラドゥーン領の統治について。

 アペプ領と違って、穏やかな気候風土だから、やっぱりみんな、自分の手元に置いておきたいみたいだ。

 二之旗本の新元老ヨシトは、先代の失策の件(あの霊宝道具の生首)があって、領土分与について辞退しようとしていたが、僕と馬鞍戸の説得に折れた。贔屓とかではなく、人的被害が一番多かったのは、勇敢な武士を有する二之旗本だったから。


 ああでもない、こうでもないと地図に線引きしているうちに、あっという間に昼になった。


 ちょっとした賄賂のつもりなのか。みんな、地元の名産品を持ってきていた。

 燻製の肉や魚。蒸し饅頭。醍醐。お漬け物。お酒。なかには料理人を連れてきていて、鍋をお借りしますと、言ってきた元老もいる。

 お酒が入ると、正常な判断力を失うから、今日の話し合いはこれまでにすると先に宣言しておこう。


 体を動かしているわけではなかったが、脳は欲しているのか、思ったより食が進んだ。雰囲気酔いっていうのかな、それとも誰かが開けた酒瓶の酒精にあてられたのか、体がぽかぽかしてくる。


「やあ、どうですか。陛下も一杯」


 スズカ姫のお茶を飲み干した直後、手元の杯にどぼどぼと琥珀色の液体が注がれる。

 見上げれば、燦々甲の元老が、にこにこしながら酒瓶を抱えていた。


「あの……これ、お酒、」

「南方の蛇酒ですよ。蜂蜜と檸檬で割ってありますから、臭くないでしょう?」


 僕の背後、ゲテモノ嫌いのスズカが飛び上がった。


「だめー! 陛下、だめですっ! 南方の蛇酒は、毒蛇を漬け込んでるって噂ですのよ」

「酒に漬け込んでる最中に、無毒化されていますよ」

「ででででもぉ……とめてくださいましっ、姉婿さまっ、姉婿さま!」


 スズカ姫は青い顔をして、義兄の助けを呼んだが、当のヨシト元老はすでに酔いつぶれ、うつむいて、目を閉じている。

 ちなみに馬鞍戸の元老は、そんなヨシト元老相手に姿絵を取り出し、自分の孫息子がどれだけ可愛いかを長々力説していた。


「さあ、男なら、ぐいーっと。陛下、男でしょお!?」


 それにしても、どうして逆臣派の元老って、いちいち僕の癇に障る言動や行動をするのか。

 酒の酔い本性違わず。お酒は、その人の本音や本性をあばくと言うけども。僕らは根っから相性が最悪なのかも知れない。


 ふうっと息を吐く。


「じゃあ。一口だけね」


 酔っ払いに長々からまれるのも面倒で、ちびりと一口だけ舐める。

 ――その直後。


『いやあああああああああああああああああっ』


 小さな女の子の絶叫が、頭に響いてきた。

 あまりの甲高さと長さに、思わず、ぎゅっと目を閉じる。


『いやだいやだいやだいやだぁ! 助けて、おかーさーん! おなかすいた、おなかすいた、おなかすいた! やだやだやだっ! このみずくさいよお、きもちわるいよお……だして、だして、ここからだして! びんづめ、いやあーっ!』


 ………………なんだ、これ。お酒の、幻聴かな。

 それにしても臨場感というか。誰かの恐怖がひしひしと伝わってくる。


『せまいよぉくらいよぉこわいよぉ! だしてーだせーだしてよお!』


 だめだ、この声。悲痛すぎて、気持ち悪い。


「ごめん……気分悪くなってきた。少し休む」


 酒杯を彼らに押しつけ、胃と口を押さえて、天幕のなかに駆け込む。


「陛下!」


 スズカ姫が、すぐにやってきて、うずくまる僕の背中をさすった。


「お水、持ってきます! それと、コノリのお尻蹴飛ばして、すぐに医聖さまを呼ばせます! 横になるなら、顔は横向きに! 仰向けは絶対だめ!」


 てきぱきと采配を振るい、スズカ姫が、僕の衣服の胸をくつろげ、浅底の桶を持ってきた。


「吐くなら、吐いて下さい! 無理して飲み込んじゃいけません! 宴会はただちに中止解散させます! ……あの燦々甲の脳足りん中年め! 下戸に飲ませるな!」


 ぐらぐらする頭を枕に載せ、簡易寝台に横向きに寝る。

 女の子の悲鳴は、まだ聞こえていて、それがつらい。

 視界に動くものを見るのも気持ち悪くて、強く目を閉じた。


 ――この声、言動。どこかに閉じ込められた女の子かな?

 かわいそうに。昔の僕とおんなじで、ごはんも満足に食べられなかったみたいだ。


 目を閉じると、視界にぼんやり、赤い紐のようなものが見えた。

 紐は、じたばたじたばたとそこらをのたうち回り、激しい動きは、やがて静かになっていく。

 よく見ると、それは赤い蛇だった。不思議なことに、まぶたがあって、瞳から涙をこぼしている。


『おかー……さん……』


 赤蛇はか細く、母親を呼び、完全に動かなくなってしまった。


「………………あ」


 ひやりと冷たい手が、ひたいに載せられて、思わず目を開く。

 ジゼルの赤い瞳が、僕の顔を覗き込んでいた。


「急性中毒の二歩手前だな。普段、飲まないのに無茶するから」

「ごめん……」

「酒をすすめた奴が悪い」


 ジゼルはずっぱり斬り捨てて、寝台の僕を抱え起こし、水を飲ませてくれた。


「幻覚や耳鳴りは?」

「女の子の声が聞こえた、かな」

「女だと?」


 女と聞いた瞬間、ジゼルの声が固くなる。


「おなかが空いてて、狭いところに閉じ込められた、女の子の声。あと、赤い蛇を見た」

「……蛇?」

「飲む前に、蛇酒って聞かされたから、その影響かもね」


 奇妙な幻覚症状を笑い飛ばそうとすると、背後で背もたれになってくれていたジゼルが、ぎゅっと僕を抱きしめてきた。


「………………」

「どうしたの?」

「……おそらく、あの丸薬で、くちなわ族に近い体質になったんだろう。それで、蛇酒に漬け込まれた悲鳴を感じ取れたんだな」

「くちなわ族?」

「一応は、獣人の種族だよ。蛇の。半人半蛇。数が少ないんだ。しかも見た目や能力の特異さから、人間や他の獣人に嫌われている……」

「半人半蛇なら、霊宮みたいなもの?」

「まあ、あれも、くちなわの一種だな」

「ジゼル、震えてる。どうしたの?」

「いつ言おう、いつ言おうと、ずっと考えていたんだ。嫌われたら……気持ち悪いと思われたら、遠ざけられたら、いやだから。だから今のままでも、いいかって」

「話が見えない」

「私が、くちなわ……蛇女って、ことだよ」


 ジゼルが蛇? くちなわ? 獣人?


「でも、人間だよね」


 獣人というのは、たとえばオニグマみたいに毛むくじゃらとか。

 コノリみたいに、背中に翼が生えてたり、足に蹴爪があったり。


「化けられるんだよ。人間に」


 背後にいたジゼルが、膝でいざり進み、僕の前に移動した。


「いいか。よく見ろ」


 そう言って、僕と視線をしっかり合わせる。

 まぶたが一度、閉じられた。次に開いたとき。

 円形だった瞳孔が、細長い線になった。


「蛇の目、蛇眼だ。昔の人間は、邪視、邪眼と言っていた。魔女や魔人と目を合わせると、死ぬとか、石化するとか、呪いをかけられるとか。

 間違ってはいない。人間がいうところの魔法を使うとき、目がこういう状態になってしまうから」


 そういえば以前、ジゼルの目が変に見えたことがあったけど……。


「じゃあ、あの時の、雨乞いも?」

「私が、本当に雨を呼んだんだ。魔女で蛇女なんて、人間には、気持ち悪いだけだろう?」

「いや、すごいと思う。畑の水やりが楽になりそうだね」


 そう答えたら、眼前の目が瞬きした。瞳孔が、ふたたび円くなる。


「怖くないか?」

「獣人なら、普通じゃないの?」

「空中の水分凍らせて短剣作ったり、目を合わせて催眠術かけたり、名前を奪って支配したり、怪我を瞬時に治したり、」

「オニグマは巨大な熊になったし、ワタリは大鴉になったよ。要は、ああいうことなんでしょ? 獣人が持ってる、能力」

「………………」

「違うの?」

「違う、けど、違わない、かも知れないな。ただ、」


 ジゼルは、少し拍子抜けの顔をして、肩から力を抜いた。


「わたし……私は、玄女、なんだ。黒くちなわの、雌。すべての島国を統一して、その王将を不老長寿にする、女神の化身で」


 僕は、ぽかんと口を開けた。


「めがみ?」

「…うん」

「ジゼルが?」

「……本当は、ゲブラーと言うんだ。大昔の言葉で、医術、という意味。全然かわいくない名前だろ」


「もしかして、あの丸薬の材料。伝説級の蛇の血というのは、」

「黒くちなわ……私の血だよ。黒くちなわの、玄女の血は、毒にも薬にもなる。ある意味、上帝の卵を見分けるための試薬なんだ。適応できれば、生きる。適応できなければ、死ぬか畸形化する」


「――そのことなんだけど」


 寝台の上で居住まいを正して、彼女を見上げると、彼女もまたいそいそと正座した。なぜか髪を手ぐしで梳かし、もじもじと太ももをすり合わせている。


「あの丸薬、十錠も作っていないって、本当?」


 訊ねたら、ジゼル……ゲブラーは、はあっ?と声をあげた。


「そっちの話か」

「そっちって、どっち。ぼく、別に、話の方向転換なんてしてないよ」


 僕は薬品の話をしていた、はずだ。なぜジゼ、ゲブラーはがっかりしているんだろう。


「この丸薬は、ゲブラーが作って、先生にあげたんだよね?」

「ジゼルで頼むよ、今しばらく。周囲が混乱する」

「ジゼル?」

「ギルベルドが、薬物や爆薬の古文書を持っていて、この丸薬は作れるかと聞いてきたんだ。あいつは、私とは別の意味で、上帝を求めているようだから、多分、上帝を見分けるための試薬が欲しかったんだろうな」

「それを先生に渡した。十錠未満という話に、間違いはない?」

「ああ。大量に血が必要だったんだ。だから多くは作れなかったし、調合も何回か失敗したから、その分は破棄したぞ」


 寄り目を作り、過去を思い出すように、ジゼルが言った。


「ラドゥーンにいたことがあってな。あそこの先王が気にくわなくて、私は早々離脱したんだが。多分、ギルは、ラドゥーンのヘスペラ王女にも、その丸薬を飲ませたと思う。彼女は死ななかったが、顔に傷を負ったらしいな。死なないだけマシとは言えまい、なにせ女の顔だから」


 丸薬。畸形化。先生とのつながり。ふと、さっき聞いた、コノリの言葉を思い出した。

 グリンカムイ国の末裔。今は境鳥と呼ばれている一族の、巫女ばばというひと。


「……玄女ってひと、この世に何人もいるの?」


「いないよ。いないはずだ。少なくとも、同時期に二匹存在できないと思う。玄女は、ひとつ国を作った上帝を不老長寿にして、さらに神の国を創造維持していく存在だ。黒くちなわの女が二匹いたら、神の国がふたつになってしまうだろう?」

「じゃあ、なんで先生は、余分な丸薬を持っていたんだろう?」

「なんのことだ?」

「数を数えたら、おかしかったんだよ。ジゼルが作った数、未使用分と、僕が使った回数。どうやっても計算が合わない。つまり先生は最初から、あの丸薬を持っていた。ひっかかるんだ」

「……ギルが、あの古文書を持っていた。紙質からして、相当、古い……。私の前の玄女が作った丸薬も、受け継いだということか?」

「ジゼルの前の玄女って、誰?」


 訊けば、ジゼルはかるく肩をすくめた。


「歴史上、名を残しているのは、ケセド。テレシアス帝の玄女、青目のケセドだ。そこから二千年。おそらく、今日の私にいたるまで、何匹か、玄女はいたと思う。歴史に名が残っていないだけで」

「玄女って、同時期に存在できないだけで、結構、時代時代に頻繁にいるものなの?」

「世に、霊宝武具が溢れかえっているだろう? 霊宝武具というのは、この世で一番、原初の神に近い黒くちなわを傷つけ、殺した武器だ。人間に対する愛憎入り交じった断末魔が、武器に呪詛と祝福を与える。霊宝武具の数だけ、黒くちなわが傷つけられ、また殺されていると考えて差し支えない」


 ではトバルカインのこれも……養い親の魔女というのは、玄女だったってことか。


「ギルが持っていた丸薬は、古文書もそうだが、遺跡か古物市で入手したんじゃないか? 医術は専門外だと言っていたから」

「……そう、なの、かな?」

「酒が入ると、本性が出るそうだ。おまえの本性は、探偵か学者だな」

「………………」


 先生のことは、尊敬している。

 あの牢屋敷に、助けに来てくれた恩人だし、その後は軍事、政務、帝王学の師匠だ。

 けど……。


 ただ長くつき合っていく内、彼は、あまり優しい人間ではないな、と思った。

 目の前で起きた惨劇を、大事の前の小事と言う。女は、これだから女は、と女性を軽んじる傾向にある。

 公務、義務的なつき合いはするけど、それ以上の人望がまったくなくて、人としてのつながりを欠いている。このままではいつか、理ではなく、情の部分で、他人から排斥されてしまうのではないか。


「なんとなくね……先生は、人間が嫌い、なのかなって……」


 僕の呟きに、ジゼルが首を振って、否定した。


「いや。女嫌いはともかく、人間全体を嫌ってはいないと思うぞ。昔……十年以上前にな、あいつに、私が玄女であることを話した時、言っていた。『俺は、この世から戦を根絶しようと思っている』と。だから軍師や帝師、占術師の真似事をしていると。戦争を無くしたいと願うのは、きっと人間が好きだからさ」


 考えすぎだよ、と、ジゼルは僕の頭を撫でて、ぎゅっと抱きしめてくれた。


「まだ酒が抜けきらないんだろう。よく眠って、肝臓が仕事を終えるまで、待て。すべては順調だよ。なにせ、この"玄女"がそばにいるんだからな」


 胸の柔らかさに、なんとなくリンねえを思い出して、僕はそのまま目を閉じた。


「なあ……マルセルは、神の国、理想の国とは、どんなものだと考える?」


 ジゼルが、僕の頭を撫でながら、問いかけてきた。


「僕の考え?」

「おまえは、私の夫の上帝になるんだぞ。理想の神の国を造れる男だ。よく考えてみろ」

「夫っていうのは、わからないけど。そうだなあ。僕は――」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Jigsaw2 @Sayori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ