断章『戦いすんで日は暮れて』
たとえば、亢龍軍師の号の知名度はあっても、本人の名前自体は知られていなかったこと。
たとえば、あの寒冷の地で偶然、温泉を見つけたと、そう言ったこと。
たとえば、軍師帝師でありながら、妙に留守がちであること。
最初から、疑惑は尽きなかった。
そう――あれは最初から、私たちの仲間などでは無かったのだ。最初から。
◇ ◇ ◇
高位の外傷性腕神経損傷。
二度と刀は握れなくなるだろう、との診断に、スヴェンは途方に暮れていた。
大叔父の先例を見て、幼児期から万が一のためにと、両腕を鍛えていたが、その両腕がともに使えなくなるとは。
「二度と使えないのか。この腕は」
気落ちで眠れず、夜、野戦病院の窓にもたれかかり、月を見上げる。
今や垂れるばかりで動かぬ両腕が腹立たしい。
「私の取り柄など、剣しかない。文治王佐の才はない。だのに」
それが、終の盾の生き方だった。
ただ剣であれ、盾であれ。政は皇帝の一族が行うべきであって、余計な物欲や権力は不要。
ひたすら皇帝一家に尽くし、守るためを考えた結果。枝葉を刈り込み、整え、伸びて向かう先を決めた盆栽に同じ。整ってはいたが、その生き方が、スヴェンの能力に枷(かせ)をはめてしまっていた。
腕は、ぴくりとも動かぬ。代わりに、心臓と眼底がきゅうきゅうと唸る。
「どうすれば、いい。どうしたら、いい」
夜間に鴉の鳴き声と羽ばたきが響き、そちらを見れば、世闇に鮮やかな金の髪が見えた。
遠目、夜目でも、見間違えはしない。マルセルだ。
下で、あの女医官と話している。
「陛下……皇子……マルセル……すみません。私は、」
窓を開けて、呼びかけることもできず、窓枠に額を打ちつけ、静かに涙を流した。
弩弓から、あるじを守った名誉の負傷、とは言え、かつての大叔父を思い出して、落胆する。
大叔父は、片腕を代償に先帝を守り、そのまま護衛を辞していた。
「こんなのは……私ではない、終の盾ではない、スヴェンではない!」
そのまま、ずるずると床に崩折れて、冷たい壁に額を打ちつける。
がつがつと音を立てては、いやだと嘆いた。
「……他の生き方など知らん。あの方に、要らぬと言われるくらいなら、生き恥をさらすならば、いっそ、」
――あのまま、脳震盪を起こして、気を失っていたらしい。
寝台の上で目を開く。
自ら横たわった覚えがない。夜ではあったが、月が欠けていたので、一日、二日、日が経ったのだろうか。
マルセル直属の護衛武官という身分による、特別待遇の個室はしんと静かだ。
しかし、廊下では、医官が小走りに行き来し、何番の大部屋で、何人棄てた(しんだ)と物騒な隠語が飛び交っていた。
忙しく立ち働く彼らのうちの誰かが、脳震盪のスヴェンを見つけてくれたのだろう。
ぼやけた視界の隅に、あの男が立っていた。
いつの間に、現れたのだろう。たしか彼は――
「……何故、ここに」
「ただの通りすがりだよ。ついでに、その腕、俺なら治してあげられるよ、ってね」
「医聖どのは、おそらく治らぬだろうと」
「あの子はね、見目に反して間抜けだから。治療方法がまだ思いつかないってだけ。それで、どうする? 俺の話を聞く気は、あるかな?」
「………………ある」
「ずいぶん考えたね。即答するかと思った」
「あなたなら、本当に腕を治せるのか?」
「治す、完治させるというよりも、別のもので神経の代用をして動かすことは可能という話だよ」
そして男は、自分の腕に巻き付けていた赤い縄をはずして、見せた。
「この霊宝武具、双頭蛇を、きみの体に突っ込んで、腕につながる神経の代用とする。これが、よく動いて、敵対者を殺せるのは、あの牢屋敷の戦いで見ているだろう?」
男の説明に、スヴェンは注意深く頷いた。
「しかし、その霊宝武具は、あなたに憑いていて、」
「いくつか嘘をついた。この霊宝武具の呪詛自体は、すでに無効だ。ある人間に、逆らうなという命令を含んだ呪いだったが、そいつはとっくの昔に死んだから、俺に命令する人間が、もういないんだ。これをきみに貸しておくし、俺の死後はそのまま、制限なく使えるだろう」
「今さら……何故、そのようなことを暴露する?」
「さてね」
それで、どうする、と男は問う。
「かなり長く使っていたから、俺の意思のほうに同期することもあるけど、それはそれで。躾の悪い犬は、きみが改めて躾け直せばいい。誰が自分のあるじか、しっかり知らしめれば、いずれきみが主人となるときがくるだろう」
「私にそれを勧めて、あなたが得るものは、なんだ?」
問い返した瞬間、男は低く、笑い出した。
「その言い方。妙なところで似ているなあ。……俺に得があるとすれば、そうだな。きみは若く、健康で、あと五、六十年は生きていそうだから、その間に、マルセルくんの意識改革を頼むよ。あの子はどうも、身内や近くの人間に心を割き過ぎる。上帝になるなら、もう少し冷徹に。広く、遠く、平等であって欲しい」
男の申し出は一見、悪くないように思えた。
あの霊宝武具を使えば、もう一度、この腕を動かすことが出来る。終の盾の、スヴェンのままでいられる。しかし、
「私は、あなたを今ひとつ信用できない。この違和感の原因、その理由、あなた自身はお解りか?」
心のどこかで、警鐘が鳴っている。
これは、無邪気に信用していい相手ではない。悪魔の取引だろう。
たとえば、亢龍軍師の号の知名度はあっても、本人の名前自体は知られていなかったこと。本名を意図的に隠してはいないか?
たとえば、あの寒冷の地で偶然、温泉を見つけたと、そう言ったこと。翌朝、マルセルの洗顔のため、湯を汲みに行ったが、温泉は冷えた泉に変わっていた。
たとえば、軍師帝師でありながら、妙に留守がちであること。一年のうち半分は、偵察、情報収集と称して他国へ渡っている。
どれもこれも胡散臭い。まさに胡散臭いという言葉が、眼鏡をかけて歩いているような人物。
「きみの勘は非常に正しいよ、終の盾スヴェン。ハラルの番犬。……俺は基本的に、同じ国に連続四年以上、肩入れしないことに決めている。平等じゃないからね。そうなれば、きみたちの敵に回るわけだ」
「この国の内実を知る軍師帝師から、わざわざ出奔の話を聞かされ、引き留めぬとでも?」
「どうして俺が、この国の――マルセルくんや軍事に関する汚名を一身に集めて、背負おうとしたか。解るか? 王将は、ある程度までは綺麗なほうが良い。――これは建前。本音はね。後腐れなく罷免され、追放されるつもりだからだよ。このほうが波風立たない。昔、ラドゥーンを出る時に、ごたついたからね。あれは失敗したな。女相手は駄目だ、少し優しく扱かっただけで、勝手に恋慕してくる」
「……男女の機微など、私には」
軍師は、古銭を空に投げて、両手で捉えると、寝台脇の棚に並べた。
「本来は単独行動の隠密派なんだよ。軍師帝師は、古人の真似事に過ぎない。この占いなんて、亡国の執政代行者にさせられた時、適当にでっち上げたら、まさしく適当に国の運営が出来たから、そのまま採用しただけ。おっと乾為天(けんいてん)、上爻(じようこう)。亢龍、悔い有り、か」
スヴェンの心臓はあいかわらず警鐘を鳴らしている。
心は納得していない、しかし頭は――
この腕が動かなければ、いざという時、この男を斬り捨てられないではないか。
そのようなことを、頭は冷静に考えている。
「その霊宝武具。呪詛は、本当にないと、言うのだな?」
「彼女はとっくの昔に死んでいる。同名の別人が、俺たちの目の前に現れなければ問題ないはずだ」
「……では、」
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