断章『寡婦の思い出』

 おじいさんから、陛下への嫁入りは見合わせると聞かされた時、実はほっとしました。

 好きなひとがいます。忘れられないひとがいます。何度訴えても、返ってくる言葉は、こう。

『死んだ者のことは忘れろ。おまえはまだ十五だよ。今から寡婦めいて、どうするんだい?』

 おじいさん。心配してくださって、どうも、ありがとう。

 だけど私の恋心を勝手に、かわいそう、不幸だと決めつけるのは、やめて下さい。

 幸せなんて、人それぞれじゃあ、ありませんか。


     ◇ ◇ ◇


 ヨルムンガンド史上、その内乱で最大規模の戦闘が行われたのは、ケセド共通歴二○一二年初冬から初春にかけて、弓手司領である。

 当時、弓手司の元老の外孫セルンとドランは、領境から少し奥まった地にいた。

 男は、領境で馬に乗って、弓を持ち。女子供は、奥地で羊を飼い、馬を鍛え、弓矢を作る。そんな時勢である。

 ひゅー、どう、ひゅー、どう、と独特の発声で、羊を放牧地から、厩舎天幕に追い込んでいたセルンとドランは、地平線の向こうに大量の煙が舞うのを見た。

「なんだろう?」

「なにかしら?」

 双子のように似ているが、実はひとつ違いの姉妹は顔を見合わせた。

 牧羊犬たちが、姉妹の仕事を継いで、厩舎用の天幕に羊を追い込み始める。

「おかあさんとおばさんに報告しなくっちゃ」

「変なことは言えって、言われてるものね」

 ドランは犬とともに羊を追い、セルンは住居の天幕に駆け込んだ。

「かあさん! おばさん!」

 移動式住居のなかで、母ショルガは木を削り、叔母ノランギは衣装の繕いをしている最中だった。

 針を扱う手を止め、叔母が、こちらを見た。

「あそこ、すごい煙が」

 途端、母と叔母が立ち上がった。

 叔母は、きびきびと荷をまとめ始め、母は単筒の遠眼鏡を持ち出し、どの方角と訊いてくる。

「こっち!」

 外へ出て、指し示すほうを、母が遠眼鏡で見た。

「青い狼煙が混ざっている。北西の防衛戦線が崩れた」

 顔色が変わり、厳しく目尻をつり上げる。

「私と、おばさんの馬に鞍を乗せて! ドランは、どうしたの?」

「羊を、」

「羊は一度、あきらめて」

「おかあさん、正気なの……!」

 年をまたぎ、間もなく家畜の出産時期というところで、手塩にかけた家畜を手放すのは惜しい。悔しい。だが、

「殺されたら、おしまいよ。餓死したっておしまい。けれど、他の誰でもなく、あなたたちを囚われるわけにいかない」

 普通の女子供ならば、殺されるか、犯されるかするだろう。

 しかし、元老の外孫と知れれば、使い出のある人質にもなり得る。

 荷をまとめ、叔母と妹が、それぞれ馬を連れてきた。替え馬の背には、籠に入った干し肉や醍醐、麺麭、乳酒の瓶が乗せられている。

「ショルガねえさん、これ!」

 笛を差し出された母は、大きく胸腹をふくらませ、それを吹いた。

 平野に、鳥の鳴き声に似た笛が轟く。

「二人とも南へ、遠くへ逃げるのよ! 他の家にも、ちゃんと知らせてあげてね!」

 叔母の号令を受け、姉妹は、馬を走らせた。

 ヨルムンガンドで馬の名産地といえば、弓手司と馬鞍戸である。騎馬突撃の軍馬ならば重量のある馬鞍戸産だが、弓手司の馬は脚が早く、駆け抜けながらの弓射に向いている。

 背後から、どっどっど、とすさまじい音が響き渡った。

 振り返れば、厩舎天幕から逃がされた羊たちが、ひとかたまりに駆けていくのが見える。

 身重の羊が動けず、途方に暮れ、べえべえ鳴いている姿が哀れだ。

 鶏たちが、懸命に翼を羽ばたかせ、近くの低木に飛び乗っている。

「わんちゃんたち、羊を頼むわよ!」

「何ボッとしてるの、早くなさい! 振り返らず、前へ!」

 番犬二匹に話しかけていた母は、叔母とともに、こちらへ駆けてきた。

 せかされ、再び、馬の脚を速める。

 ――替え馬を使って距離を稼ぐうち、他家の女子供と合流し始めた。

 みな、あの笛の意味がわかったのだろう。夕方には、一行は子供を含め、五十人にふくれあがった。

「北? 北から来たの?」

「ああ、羊が……」

「あの子たち、うまく逃げてるといいのだけれど」

「私の息子、前線だわ……もう、どうしたら……」

 身を寄せ合って休憩すれば、どの口からも愚痴がこぼれる。

 空を見上げれば、その色は茜色で、妙に心細い。どうにか持ち出した醍醐と干し肉を分け合い、噛みしめた。

「……こんな思いまでして、戦う意味、あるのかしら」

 誰かが、ぽつりとこぼした言葉に、しんと静まりかえる。

「歴史や正義って、なんの役に立つの? 妙な義理立てしないで、さっさと降伏したほうがいいんじゃない? 今まで、皇帝家が、あたしたちに何をしてくれたってのさ?」

 大岩が点在する場、それぞれ岩を背に座り込んでいたので、誰が何を言ったか、はっきりしない。

「……特に、何もしてないわよね。シンハーン青狼王が、カルル皇帝に負けてから、六百五十年。六百五十年の間、何も、してくれなかったでしょ! 税をかすめ取るだけだったじゃない!」

「してくれなかった、こと自体に意味があるだろ」

 誰かが、前者の言葉尻をとらえて、反論した。

「それだけ経っても私らは、私らだ。全部、昔のまま。良き風習も、悪しき儀式もそのまま、現在に受け継がれている。町に定住して、田畑を耕す暮らしがしたいのなら、そうすればいい。それができる者は、とっくに移住している」

「それを善しとしなかった末裔が、私らだよ。この暮らしが性に合っていたから、羊や草原を捨てられなかったから、ここにいる。それでいい、おまえたちの好きにすればいいと言ったのが、カルル皇帝だろ」

 誰かは、さらに言葉を続ける。

「それとも、あんた、今さら九靫に屈したい? 九靫から逃げ出してきた母娘を見たことある? ああいう目に遭いたいのなら、こんなところで愚図ってないで、さっさと九靫の野営地に行けば? 服ひん剥いて、番号の刺青を彫られて、死ぬまで嬲ってもらえるよ」

「っ……それは一面に過ぎないわ! 九靫にも、まともな男は少しくらい、」

 何か妙に九靫の肩を持つ女だ、と。ドラン、セルンは顔を見合わせた。

 岩陰から、そっと、その女の姿を覗き見る。腰帯を男巻きにしている以外は、なんの変哲もない女だ。

「でも、皇帝さまは、みんなのおとうさん、おじいちゃんなんだって。うちのばあちゃん、言ってたよ」

 愚図り続ける女に対して、どこぞの子供が口を開く。

「いつもは全然、家のなかのことしてくんないし、威張ってるだけだけど、一番危険なときに、子供たちを守ってくれるおとうさんで、おじいさんなんだって」

 ドラン、セルンよりも幼い男児が、女を見上げ、訊ねた。

「ねえ、おねえさん。おねえさんは、おとうさんやおじいちゃんが困っているなら、助けたいって思わない? それとも今の皇帝さまは、なんの価値もない、飲んべんだらりの、ぐうたら親父?」

 どこの家の子かは知らないが、よく口の回る、利発な子供だ。

 子供に言い負かされた女は、ぱくぱくと口を開閉し、それから唇を噛む。そのまま膝の間に顔を埋めてしまった。

 セルンとドランは顔を見合わせ、静かにもとの岩陰に戻った。

「……そういうふうに考えたこと、なかったわね。ドラン」

「そうね、セルン。今の皇帝さま、たしか十二歳くらいだもの」

「おじいさんというには、ちょっと、ね」

「おとうさんだって無理よ」

 みなの口数が少なくなり、間もなく日も暮れた。

 草原を渡る風は寒く、みな身を寄せ合い、岩陰に隠れて、目を閉じる。

 火は起こせない。煙で敵を呼び寄せる可能性がある。

 乳酒や、誰かの秘蔵の蒸留酒をあおって、寒さを忘れて寝入る。

 ――違和感に目を覚ましたのは、子供たちが先だった。

 飲み慣れた乳酒はともかく、酒精分の高い蒸留酒は成人に独占され、それを飲まなかったからだ。

 ぼやけた視界のなか、炊いてはいけないはずの火が炊かれ、煙が立ち上っている。

 深酒の大人たちは、無意識に炎の熱を感じとって、心地よさそうに眠り続けていた。

「……誰? 何をしているの?」

 子供たちのなかで一番の年長であるセルンが、人影に声をかけた。

 先だって、九靫に降伏しようと言い出した女が振り返る。

「起きていたの?」

「あれくらいの乳酒なら二刻で目覚めるわ。ドラン、起きて、他の子を起こして!」

 妹を蹴飛ばしつつ、火の元を見れば、焚き火の組み方は暖を取るそれではなかった。

狼煙をあげるための組み方だ。

 おまけに煙の色は赤い。狼煙用の薬剤を燃やしたのだろう。

「寒いでしょう? こちらで火に当たったら」

 その女は、優しい声で呼びかける。闇が深く、彼女の顔は見えない。

「冗談! 起きて、起きろ、みんな! 起きて」

 セルンは、飛び起きたドランとともに、みなを揺り起こすが、しっかり目覚めたのは子供たちだけである。

「眠らせてあげなさいよ。眠ったままのほうが、幸せよ」

 女の手がセルンの首裏をなぞり、すぐに絞め始めた。ぎゅうぎゅうと怨恨こめて。

「セルン!」

「っ……、のっ」

 セルンは腰帯に佩いた短剣を引き抜き、逆手で、背後の女を突く。

 女がひるんだ拍子、ドランが弓を引き絞り、近距離で女のこめかみを射貫いた。

「……あ。あああっ! やっちゃった、殺(や)っちゃったわ、どうしよう!? こいつ、妊婦じゃないわよね!?」

「手のひらに数字の刺青がある。九靫の人間だから、私たち弓手司の掟は適用されない。気にしちゃダメよ」

 自分の首からはずれた手を見て、セルンは妹をなだめる。

「そうなの?」

「九靫の最下層の女は、名前じゃ無くて、数字で呼ばれるって噂。この女、弓手司に来て、初めて服を着たのね。帯の巻き方が男巻なのよ」

「逃げ出してきたの? なら、どうして、」

「虐待されている人は、それを虐待だと認めていない場合があるんですって。そう思い込まないと、魂が壊れてしまうの。この女は工作員になるよう、仕込まれたのでしょう」

「ふうん」

「それより、早く全員起こしましょう。間違いなく嗅ぎつけられているわ。防衛線が持ち直していれば、問題ないのだけど」

 しかし、頬を叩いても、蹴飛ばしても、大人たちはいっかな目を覚まさない。

 飲み慣れない蒸留酒に、睡り薬を混ぜられていたようだ。あの女の仕業だろう。

「……どうするの、セルン」

 目覚めた子供たちをあやし、なだめつつ、妹が訊ねる。

 セルンは一度、目を閉じ、深く息を吐いた。

「ここから南東に青狼王時代の城砦があったはず。昔話じゃ、あの城砦の地下に古い井戸があって、そこを降りると、縦横無尽に張り巡らされた旧水路があるのだって。ドラン、あなたは、この子たちをそこへ導いて」

「セルンは、どうする?」

「ここに留まるわ。時間が許す限り、おかあさんたちを蹴り起こしてみる。駄目なら……わかるわよね? わたし、九靫の辱めを受けるつもりは無いわよ」

「………………」

「さあ、行って」

 妹は渋ったが、最後には根負けし、赤子の一人を抱えて馬に乗った。

 自力で馬に乗れる子供たちは宥め賺し、先に行かせる。

「はやまらないでよ?」

「運次第よ。さようなら、ドラン」

「……さようなら、セルン」

 栗毛の馬が駆け、そのまま闇へ消えていく。

 セルンは、妹たちを見送ったあと、刃を焼き清め、煤けた刃を星空に向かってへ掲げた。

「母なる大地さま。罪なき同胞を手にかけ、その血で御身を汚す無体をお許し下さい。草原の民は、皇帝カルル以外に屈することを恥と思います」

 戦闘や獣の屠殺を行う際に唱える請願の詩を口にし、まず自分の母親の前に立った。

「……ごめんなさい、おかあさん。全部終わったら、私も後を追います」

 深い寝息。母はよく眠っている。きっと死んだことにも気づかず、眠り続けるのだろう。

 泣き崩れる時間は無い。

「――躊躇、しない、のよ。私にしか、できない、から」

 九靫の私兵は下品で、残忍だ。

 領境で九靫に囚われ、逃げ出してきた同胞の女は、先祖の墓標に詣でた後、首を吊って自殺したという。

「一息に、ひといき、一瞬で殺さなきゃ、苦しむ、から、だから、私が、」

 懸命に、自分自身に言い聞かせる。

 どすどすと音を立て、大地を蹴る音が大量に、間近に迫ってくる。

 もう時間が――

 目を閉じ、短剣を振りかぶると、刃が毛むくじゃらの手に掴まれた。

「人間! 何をしている!?」

 生臭い吐息に、目を見開く。

 振り返れば、残り火の光に輝く、目が複数ある。

「人間、何をしている?」

 人語に時折、獣の鳴き声が混じった。

 生臭い息。小山のような体躯。

「……ベルゼルクル……?」

「人間! 答えろ! おまえは、俺たちの敵か!?」

「ちがっ……敵じゃ、ない!」

 現れたのは、よつあし族の若者だった。

 熊の毛皮を着た、獣人。

「弓手司の娘か?」

「は、い。元老の外孫、セルンです」

「そうか。俺は、アルカスだ。ベルゼルクル熊祖国末裔、よつあし族、ジャンババットの子だ」

 熊の獣人、ベルゼルクル熊祖国の末裔は、始祖帝ハラルの時代からヨルムンガンドの忠臣。味方だ。

 気が抜け、へたり込むところを、その獣人が掬い上げてくれた。

「向こうで、逃げる子供らに会った。ここに居残りがいると言っていた。おまえたちで間違いないか?」

「っ……はい。酒に眠り薬が盛られていたみたいで。九靫側の工作員は……そこに始末しました」

「よし。メドベフ、ビョルン、俺がここに残る。あとはジャンババットのほうへ行け。北の方角だぞ!」

 ベルゼルクルたちは、先と打って変わって、雄叫びをあげた。

 草原に、獣の咆哮が響き渡る。

 みな、速度を上げるため、よつあしで北方へ駆けていく。

 良かった、とセルンは安堵した。

 母を、他の女たちを、この手で殺さずにすんで良かった。自ら死なずにすんで良かった。

今度は涙が、目に浮かぶ。

「セルン?」

 熊の若者アルカスが、小首をかしげ、セルンの顔を覗き込んできた。

「腹、痛いか? 拾い食いしたか? 虫下しなら、」

 違います、違うんですと答え、笑いながら、泣いた。

「九靫に捕まるくらいなら、ここのみんなを殺して、自分も死のうと思ったの。早まらないで、よかった」

「人間は、自分で、自分を殺すのが好きだな。二之旗本も、そうだった。セップク?」

 よつあし族の若者は、理解できないというふうに首を振った。

「負けるのがいやなら、勝て。自分を殺したくないのなら、自分を殺しに来る敵を殺せ。死にもの狂いになれば、おまえのような子供でも、一人くらいは殺せる」

 セルンは、地に伏した九靫の女を一瞥し、小さくうなずいた。

「そう、ですね。仲間がいれば、勝てるとは思います。運が良ければ」

「そうだ。一人でかなわないなら、仲間を頼ればいい。ハラルの子は、俺たちベルゼルクルに薬や道具の使い方を教えた。俺たちは、ハラルの子に力を貸した。そして、二千年、誰にも負けなかった。つまり、そういうことだ」

 きまじめな表情で、アルカスがうなずいてみせる。

「この岩場より、青狼王の城砦のほうが、防衛に向く。メドベフ、ビョルンで女たちを砦に運べ。途中で腹が減っても、馬は食うなよ。これは女たちの足だ」

 アルカスが指示を出すと、他二人がうなずいた。

 それぞれ女一人を馬に乗せ、その手綱を腕に引っかけると、空いた腕でもう一人女をかついで、砦の方向へ歩いて行く。

 岩場には、アルカスとセルン、こんこんと眠り続ける女たちとその馬が残された。

「弓手司なら、弓は使えるな? 矢はいくつ残ってる」

「ええと……二十です。あとは短剣がひとつ、ここにあります」

「途中で九靫に遭遇すれば、ジャンババットが斃すだろう。そこから漏れた兵が、こちらに向かうかも知れない。女子供は、いい人質になるからな」

 熊男は、背の低い、平たい岩に腰掛け、北西のほうを睨みつけた。

 セルンは、つられて、その隣に座った。

「寒いか?」

「え? はい…少し」

「ん」

 アルカスは、かぶっていた熊の毛皮の一部を、セルンにかぶせてくれる。

 毛皮は暖かく、こちらの肩を抱く腕は逞しい。その温度に、セルンはぼうっとした。

「眠るなよ。危機はまだ、遠ざかってはいない」

「はい」

 男は、毛皮の内側に作っていた隠しから、紙に包まれた飴を取り出した。

「蜂蜜の飴だ。食うか?」

「はい、ありがとう。……あ、大根が入っている」

「二之旗本で作った。大根は嫌いか?」

「いえ。二之旗本からの食糧支援で、干し大根をもらいました。日持ちして、お米をかさ増しできるから、おなかいっぱいになりました」

「二之旗本は俺の妹が、世話になっている。妹だが、もう妹ではない。あれは人の子だ。死んだら毛皮は、二之旗本の、終の盾に遺すと、小さなころから言っている」

「終の盾は、もう無くなったのでは?」

「一人、生き残っている。いや、マルセルのそばにもう一人いたか。では二人だ」

 アルカスは、飴の包み紙を開いて、自分も口に入れた。

 ――他の熊男が戻ってきては、馬や女たちを城塞へと連れて行く。

 その荷運びの最中に、逃げる羊の群れにあったらしく、数十匹を回収して城塞へ連れて行ったと聞かされ、セルンはほっとした。

「……おまえたちの物と解ってはいる。だが一、二匹、羊を食わせてもらえないか。俺たちは、ずいぶんと、肉を食っていない」

 獣人らしく乏しい表情のくせに、深刻な雰囲気で申し出るので、思わず噴き出して笑った。

 笑いながら、セルンは、城砦の子たちが承知すればと答える。

「……よし、これで最後だな」

 夜明けも間近。城塞まで五往復した熊男が、昏々と眠る女二人を両肩にかついだ時だった。

 北方から、馬と何かの悲鳴が聞こえた。薄紫の空には、砂煙が舞っている。

「あ……!」

「いや、さらに後方からベルゼルクルが来ている。メドベフはすぐ女を連れて行け。そのまま城塞の防御を固めろ! ビョルン、行くぞ! 挟撃する、一人も逃すな!」

 先までの、のんびりした空気も一転、アルカスがはきはきと指示を出す。

 指示を出されたメトベフという名の熊男は、女二人を肩にかつぐと、駆け出した。

「セルン、何をしてる、おまえも早く、あちらに」

「っ……わ、たしも……私も戦います!」

 気づけば、口は勝手に言葉を発していた。

「何を、」

「わかりません、わかりません! わからないけど……あなたと一緒にいたいです!」

 野性の獣を狩ったことはあっても、人間相手に戦った経験は、ない。足手まといだ、ここで死ぬかもしれない。

 頭は、事態を把握しているのに、心はいやだと叫んだ。

 セルンの訴えに、アルカスが目を丸くした。

 居残っていたビョルンが、こちらを見、ああと声を漏らす。

「良かったな、兄弟。その女、おまえに発情しているぞ」

 身も蓋もない物言いに、顔面に、かーっと血が集まる。

「そう……なんで、しょうか……?」

「わからん」

 無表情ながら、アルカスは戸惑っているようだった。

「こちらの発情期は、まだ先だ。それまでは、おまえのことを、どう考えていいのか、よく、わからん」

「そう……ですか……」

 こんな時だというのに、恥ずかしさで泣きたくなったセルンは、思わず馬上で顔を伏せた。

 ちょうど同じ視線の高さになったアルカスが、大きな手で、セルンの頭を撫でる。

「本当に、よく、わからん。……だが、おまえになら、俺の毛皮を与えても、良いと思った」



 ――泣きながら、目が覚めた。

 目を開けば、そこは首都にある弓手司の元老の屋敷で、体を包んでいるのは、毛布ではなく、熊の毛皮だった。

「……アルカスさん……」

 ごわついた毛皮に、頬をすり寄せる。

「おはよう、お寝坊セルン!」

 年子の妹が、布扉をめくって、こっちを覗き込んでいる。

 屋敷と言っても、四方を囲む塀のなかに天幕を張っただけ。草原でのいつもの暮らしと変わりない。

「ご飯できたよ! 昨日の、羊の汁物と……なに、泣いてるの?」

「だって一月よ。今日は、アルカスさんが亡くなった日」

 しっかりと着替えたドランは、半裸に毛皮をまとったセルンを見、頬を掻いた。

「私が、ぐずぐず居残ったから、アルカスさんは退化変身しなくちゃいけなかったんだもの。私が、」

「セルンと、アルカスさんたちが、あそこで挟撃しなかったら、あの城塞まで、九靫が押し寄せてきたはずよ。後ろからベルゼルクルに追いかけられて、追い詰められて。それで何をしでかしたか、わかったものじゃない。判断は間違ってなかった」

 ドランは、寝床のふちにしゃがみこんで、姉の頭を撫でる。

「……セルンは、他の男を捜す気、ないの?」

「ないわ」

「その生き方、苦しくならない?」

「苦しいわ。でも、自分の心を偽るほうが、もっと苦しい。おじいさんが、マルセル様の嫁にならなくてもいいって言ってくれて、わたし、すごくホッとした。あの方、私には弟くらいにしか思えないもの」

 年子の、妹だが、自分よりもずっと割り切りの早いドランは、肩をすくめた。

「他に、いい男、いるわよ。終の盾の護衛武官とかー、ちょっと歳いってるけど亢龍軍師さまとかー、おおとり族のセイラン様とかね! セイラン様、すごく素敵なのよ。声は綺麗だし、空は飛べるし、優しいし、美人だし」

「そうなの。それじゃあ、がんばってね、ドラン」

「……じゃあ、自分もって。ならない?」

「ならないわね」

「思いきって、その熊の毛皮、棄ててみたら?」

「絶対に棄てない」

「……私が棄てたら?」

「殺してやるわ」

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