白砂の凡夫
天より降る雨は少なく、地にある井戸は底が見えるほど。
我が国の貯水量は年ごと低下し、緑の木陰もまた。
かつて黒髪が多かった我が民も、家畜の小水で頭を洗って、色が抜ける者も増えた。
文字通り、黒髪は王侯貴族の証となった。
ならば、この黒さに誓う。
この命の最期に――そなたらに、豊かな水と木陰を贈ろう。
皆、どうか幸せに……
◇ ◇ ◇
「だから、井戸の水位を上げろと言っておるのだ!」
地上の暑さに耐えられず、セベク・アペプが地下の霊宮に避難すると、神官が霊宮に怒鳴りつけている真っ最中だった。
背を向けていた井守の神官は気づかなかったが、霊宮の青い目はこちらを見て、あっと叫んで、指を指す。
「その手が二度も通じるか、この性悪蛇女め!」
神官は、霊宮の首にかけた縄をつかんで、怒鳴る。
「何が国母の神だ! 母なる水神ならば、水の恵みを寄越せ!」
「井(い)守(もり)の神官ハピよ」
神官の名を思い出して、呼びかけると、彼の背がぴんと伸びた。
「セベク王! 今月の水は、」
「そなたには感謝している。説教役を押しつけ、すまなんだ」
「はっ。いえ。ははあ」
縄をつかんだままの神官をいたわりつつ、霊宮アペプを睨みつける。
青い神、青い目、青い鱗の蛇女は、ふんと鼻を鳴らして、あさってを見た。
各国の霊宮はすべて、同じ顔、同じ形、同じ色をしていても、性格などの内面は違うという話だ。もしも、霊宮アペプと霊宮ヨルムンガンドを並べて見る機会があるとしたら、それぞれこう思うだろう。
ヨルムンガンドは、涼やかで、穏やかで、おとなしい。
アペプは暑苦しく、野蛮で、血に飢えて、おぞましい。
「霊宮アペプ。そなたと我が王家の血筋は千年の仲であろう。もっと融通をきかせてくれまいか。余もこれも、好んで、手荒な真似をしているわけではない」
「ならば、わらわに贄を捧げよ。井戸水は、それからだ」
「こたびの要求、さすがに過分と思うが」
「百の贄を寄越せば、万人の水をくれてやる。これのどこが過分か」
「過分だ。そなた、人間一人が、どれほどの時間をかけて生き、死んでいくか。わかっているのか」
「わかろうが、わかるまいが、対価は変わらぬ。わらわに贄を捧げよ」
「……そなたら霊宮は総じて、国を愛する慈母と聞いておったが。はて」
セベクの嘆息を、蛇女は嘲笑った。
「世の母が総じて慈母であろうか? 子をくびり殺す母はいる、間男にうつつ抜かす母もある。独り身の男の幻想とは、なんと痒いことか」
「セベク王、耳を貸しては、なりませぬ。これは殴りつけ、鞭打ちませんと、」
「暴力で従わせた月の、井戸水は塩辛いものであったぞ」
単純明快な報復だ。あらゆる水を清水に変化させる霊宝道具を所持していなければ、今頃、国民全員、乾き死んでいた。
「はっ! 期を読めぬ腑抜け凡夫め! 贄に、人種は関係ないぞ!」
吐き捨てると、霊宮は神官を突き飛ばし、井戸のなかへ沈んでいった。
「……いわれずとも、凡夫であることは自覚しておるよ」
縄で血豆を作っていた神官の手に、布を巻いてやりながら、セベクは大きく息を吐いた。
うなだれる初老の男の肩をさすりながら、階段を登っていく。
間もなく、急激な気温変化に襲われた。霊宮はひんやりと薄暗いのだが、地表は炙ったように熱い。
途中で神官と分かれ、自室に続く回廊をひとり歩く。
九十日と雨が降らないため、熱風に白い砂が舞い踊っている。噴水を囲う石壁は、とうの昔にひび割れ、崩れた。
王宮であっても、人影はない。ひたすら熱いだけの日中に、政務ができるわけもなく、官吏官僚すら自室でぐったり横たわるだけ。
「――そなたも日陰で休め。この暑さだ、暗殺を企む者もいまい」
自室のまえ、槍を持った番兵に声をかける。
「ついでに、ラシャブ将軍を呼んできておくれ」
番兵は、かすれ声ではいと答え、槍を引きずって立ち去る。
籐編みの椅子に座り、ぼんやり壁掛けや絨毯のほつれを眺めていると、待ち人がやって来た。
「セベク王。ラシャブ、参りました」
「おお。日中にすまぬことをした」
一礼して、長身痩躯の中年男が入ってくる。彼は、自分の姉の婿にあたる身内だ。
セベクは、彼に籐椅子に座ることをすすめる。息せき切ってやって来た彼をねぎらおうと、扇子で扇いでやりながら、
「まず国内をと思ったのだが、やはり、そなたの進言通り、他国から水を奪うしかなさそうだ」
「霊宮は、なんと?」
「百を以て、万を生かすと」
ラシャブ将軍は咳き込み、胸を叩いた。
「政庁で把握しているだけで、国民およそ百万人。雑に考えて、一万を殺せと」
「そこまで必要なのか。まるでわからぬ。いくらでも水を湧かすのが、霊宮と思ったが」
「人ならざる者です。人間には、わかりません」
籠に入った葡萄を一粒手にして、セベクはそれを飲み込んだ。
乾燥に強く、白砂の大地に育つ植物だが、まずかった。
「将軍よ。今現在、使える兵は、どれほどか」
「全土かき集めて、奴隷軍人三千。昔からの武官が四千」
「およそ七千か。戦をするにも、なんと心許ない」
「対戦国を選べば、勝機はありましょう」
ラシャブは椅子から腰をあげ、壁際に重ねられた絨毯の山から、一枚それを引き出す。
絨毯の絵柄は、他国の地図だった。まじないの意味があり、これの上に座ることは、その国と戦う意思を示す。
「ヨルムンガンド帝国です。およそ百年前の地図絨毯ですが、現状とさほど変わらないでしょう」
セベクは眉をひそめた。
「余は自国を貶めぬ。が、他国を見くびりもせぬ。こんな巨象を相手に、瀕死の駱駝が勝てると思うか」
「ヨルムンガンドは、ここ十数年の内乱で、国力が落ちています」
「あれとは、我が父が不戦条約を結んだはずだ」
およそ十二年まえに、ヨルムンガンドの船がやって来て、姉とふたり、こっそり見物に行ったことを思い出す。
当時、ヨルムンガンドの摂政だった者相手に、父王は不戦条約を締結した。国宝級の財宝ばかりか、霊宝武具を献上された見返りだ。
「先日、保護した亡命者の話によれば、幼帝マルセルは、首都に戻ったようです。不戦の条件のひとつは『マルセル・ヨルムンガンドを僻地に封じる間』でした。ならば、」
「わからぬ。王将を僻地に封じるならば、いっそ殺してしまえばよかろう」
「生かさず殺さず、首都から遠ざけ秘することで、宣戦布告を受け取らず。あらゆる罪科は幼帝に被せるが、うまみは自分たちで享受しようというところでしょう」
「幼帝マルセルとやらも、哀れなことだ。まだ十二、十三の子供だろう」
セベクはふと、手にしていた折りたたみ式の扇子を見る。これもヨルムンガンドから贈られた宝物だった。二之旗本とかいう土地の名工の作らしい。
「これも、元は幼帝に捧げられた物であろうな。王将はその背にすべてを背負うからこそ、最上の嗜好品と食物を得るが。……まあ、かように酷薄な臣民なぞ、余は守る気にもならぬ。もし、かの国と我が国とが戦うのであれば、霊宮の贄は、」
「いかがなさいましたか?」
「ああ、なるほど、霊宮め。そういうことか! あれは、余に戦えという意味か。して、他国の民を贄に捧げよと」
「……ヨルムンガンドは、国の大半が寒冷な土地。その周縁は、緑にあふれているとか。もしも、雪の土地を得たならば、我が国には雪解け水が多く流れ込むことでしょう」
「雪か。この生涯で一度だけ、見た事があるぞ。ああ、欲しいな」
セベクは、とうとう、地図絨毯に足を乗せ、そこにあぐらをかいた。
ラシャブが膝を叩く。
「ご決断なされましたか」
「しかし、寡兵は如何ともしがたいぞ、将軍。この気候では、練兵もうまくいかぬだろう。――そなた、我が国の所有する霊宝武具を把握しておるか」
ラシャブが地図絨毯を立ち、棚のひとつから目録の巻紙を取り出した。
「……これは。この霊宝は、兵に憑かせますか?」
問われて、王は首を振った。
「余は、しょせん血筋だけの王。実は凡夫よ。自ら霊宝武具を振るうことでしか、王としての価値を示せぬ」
「そのような、」
「ふむ。ときに将軍、我が姉と姪は、健やかに暮らしておるか」
「……はい。西岸の、海辺の別宅に下がらせておりますが」
ならば良しとセベクはうなずき、目録の一行を扇子の先で示した。
「陛下、これはいけません!」
「我が身かわいさに、臣民を贄にささげる王など、誰が慕うか」
「………………」
「幼帝を哀れに思うが、手は抜かん。余が、子供一人ひねり潰せばよいこと。戦後、国は我が姪に任せるよう、手配する。霊宮アペプめが、また贄を欲したなら、次はヨルムンガンド人を井戸に放り込め。――義兄どの、あとは、よろしく頼む」
「しかし、それでは、」
「良いではないか。のちに我が偉業を記念する石碑を建てよ。『かつて、臣民に、水と木陰を贈った凡夫あり』など、どうか? 五十年後には名所になるかもしれんぞ」
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