断章『蛇女の大仕事』
言葉を話し、数をかぞえ、掟を作り、それに縛られる生物。
この世界において、それらは獣人という。
ましら族。猿が進化したもの。人間と自ら称するもの。
よつあし族。四つ足の獣が進化したもの。大地を駆けるもの。
おおとり族。翼持つ獣が進化したもの。空を跳ね飛ぶもの。
くちなわ族。世界そのものを創造し、維持する蛇の一族。
海を泳ぎ、地を這い、やがて空へと屹立するもの。
◇ ◇ ◇
ゲブラー=ジゼルは、山林の地面に這ったまま、ため息をついていた。
夕暮れ時。現在、彼女の隣にいるのは、ベルゼルクル熊祖国の末裔、よつあし族のオニグマである。マルセルでは、ない。
もう一度ため息をついて、高所から、下の裾野を観察した。
天幕を張り、野営の準備をする九靫と根業矢の混成部隊が、眼下をたむろしている。
あれらは、武装した不良民間人が多数を占めており、哨戒行動もお粗末なものだった。しきりに士官が怒鳴っている。
今をときめく九靫。初代宰相にしてその後、落ちぶれた根業矢。それぞれの私兵の間で軋轢が生じており、奴らは何をしても噛み合わなかった。おかげで、ゲブラー=ジゼルとオニグマは、一戦もせず、弓手司との領境まで逃げてこられたのだが。
さて、どうしたものか。弓手司領へ逃げることを考えていたが、追っ手を引き離さないままでは、軍事衝突が起きるだろう。弓手司は、九靫と根業矢との戦線を小康状態で保っているのだ。三元老の一角が落ちることは避けたい。
そこまで考えて、ゲブラー=ジゼルは苦笑した。
〈あれと知り合っただけで、策略家気取りするとは、なあ〉
隣のオニグマを一瞥する。
熊女は巨体を縮め、気配をうまく殺しているが、それだけだ。戦闘と野外生活以外、頼りにならない。
〈ここは、私が采配しなくては〉
嘆息しても仕方がないのだが、それでも三度めのため息をつく。
ゲブラー=ジゼルは、外見こそ人間そのものだが、その実、くちなわ族と呼ばれる、蛇の獣人だった。それも黒色のメス。すなわち、玄女である。
玄女は、この世界の創り出した最初の存在で、ありきたりの言葉で表現するならば黒蛇の女神だ。ゲブラー=ジゼルは、その女神の複製品である。
原始の女神を模した存在として生まれ、養母からゲブラーというかわいげのない名で育てられた彼女は、いくつかの使命を魂にすり込まれていた。
世界のかけら、島国すべてをひとつに接合する実力者を見つけること。
その偉業を為すだけの武力、知力、精神力を持った者を、性別問わずに夫とし、聖婚を経て、上帝にすること。
夫がひとつにした大陸を、神の国とすること。
しかし、女神の複製、世界の歯車といえど、ゲブラー=ジゼル個人の趣味や嗜好は、ある――つまり、
〈せっかく私好みの少年を見つけたのに、なんで今、隣にいるのが熊女!〉
一目惚れした相手と別行動をとらなくては、ならないことが、ゲブラー=ジゼルのやる気を減退させていた。
〈……あいつ、本気で私に協力する気が、あるのか!?〉
無意識に歯をきしませる。
怒りの矛先は目の前のオニグマから、昔のギルベルドへと移った。
――ギルベルドと名乗る男と出会ったのは、とある島国が、敵国との対戦を間近に控えていたときだ。
その国の王将は、自分勝手な男だった。自分の命が最優先。親衛隊の数を増やす代わり、看護兵や軍医を激減させ、さらには野戦病院の設置を禁じた。
腹をたてたゲブラー=ジゼルが、参謀本部に怒鳴り込んだところで、亢龍軍師とやらに出会ったのだ。
これは大物だという直感にしたがい、全力で口説いたが、性急な行為が祟ったのか。眼鏡の奥の青い目は、汚物を見るそれに変化した。侮蔑の目に恐怖して、自分は玄女だからと暴露したのが腐れ縁の始まりである。
その際、彼は約束してくれたのだ。
『俺は、この世界から戦を根絶したい。そのために軍師や占術師を名乗って、各地で弟子をとり、こうして王将のそばに居座りもする。きみの夫になることは全力で拒否するが、代わりの夫を見つける手伝いは、しよう。きみが、有能な夫を見つけることが、俺の望みにつながるからね。
玄女ゲブラー。いや、ジゼルさん。きみ、俺と協力関係を築く気は、あるかい?』
「ジゼル。今の、聞こえたか」
オニグマの小声に、ゲブラー=ジゼルは我に返った。
「あ? ああ、いや。私は、おまえほど聴力が、よくない。なんだって?」
「まーるぅ……マルセル、の。身代わり、たてる、って。聞こえた」
「なんだと」
あわてて私兵軍隊の様子をうかがう。
下の野営地では、士官らしき男が三人、喧々がくがくと言い合いをしている。しかし、ここからでは、内容は聞き取れなかった。
奥の手を使うしかない。ゲブラー=ジゼルは強く目を閉じ、そして開く――この世すべての最小物質である、絲を見る目に切り替える。
〈絲。遠耳〉
念じると、間もなく、男たちの会話が脳内に直接、届いた。
もう一方に差し向けた小隊ひとつが全滅した。牢屋敷から、マルセルを強奪した集団が、三元老のもとへたどり着けば、六元老側の正義は消滅するだろう。ならば、偽マルセルの首を掲げて、奴らの反意を殺ぐべきだ、と。
「どういう、意味?」
オニグマが小首をかしげた。
「人間は噂話に弱いということだ。マルセルが死んだという話が伝播しきった後で、こっちが本物のマルセルです、と実物をだしても、今度は後者が偽物だろうという疑惑が出てくる。三元老とその領民の戦闘意欲を喪失させる狙いだろう」
「んー?」
「つまり、後出しのじゃんけん、だよ。あちらは、とにかく先手を打とうという考えだな。巧遅拙速」
「んんん? まーるぅ、本物、まちがいない。なのに? 後出し、だめ?」
「そう、後出しは多分だめなんだ。人間は最初に伝播した噂に弱いからな」
「……どうする?」
「先に奴らの手を潰す。と、ギルなら判断すると思う。とりあえず指示をあおごう。連絡をとってくる。オニグマ、引き続き、あいつらの動きを見張ってくれ」
こくこく、と熊女は素直にうなずいた。
中腰のまま、少しオニグマから距離をとると、服の下にあった首飾りを引っ張り出す。
霊宝道具・つがい伝輪。ふたつでひとつの霊宝道具は、音声通信が可能な道具だ。
つがい伝輪にむかって、もしもし私だが、と呼びかければ、すぐに、ちょうどよかったと返ってきた。
「相談したい案件がある」
『こちらもだ。でも、先に、そちらからどうぞ』
偽マルセルの処刑について話すと、予想どおりの答えが返ってきた。
彼のほうからは、農民の一揆の扇動をすること、北部および北西部の元老とその跡取りを首都まで引きずりだすよう指示された。
「待て。それは全部、私たちでやるのか。手が足らないぞ」
『内通者に話はつけている。それに、きみ、変身すれば、川を上ってこられるだろう』
「それは最終手段じゃないか。簡単に言ってくれるよな」
『他に手があるなら、その方法でやればいいだろう。健闘を祈る』
がちゃりと伝輪は切られた。
「……玄女といっても、私だって万能じゃあ、ないぞ……まったく」
懐中に首飾りを落としつつ、ぶつぶつとぼやく。
監視を頼んだはずのオニグマが、にじり寄ってきた。気のせいか、表情が、こわばって見える。太い指が、野営地を指し示した。
「あれ。どうする」
目をやれば、金髪の少年兵が一人、地面に押しつけられ、手足をばたつかせているところだった。槍の穂先が、彼の左胸に狙いをつけている。
「とめる! 他は殺してもかまわん、行くぞ!」
ゲブラー=ジゼルは駆け、斜面を半ば滑り落ちた。
あとにオニグマが続く。
女ふたりの乱入に見張りが気づき、すぐさま銅鑼を叩き鳴らした。
「総員、」
士官の一人が、声を張り上げた瞬間、彼のこめかみに棍棒が叩き込まれた。
「ふうぅっ、ふーっ……」
血の色を見、匂いを嗅いだオニグマの目つきが変わる。
朴訥な黒い目が、殺意と狂気を帯びた。
「ぐあっ、がああっ」
咆哮し、オニグマは棍棒を振り回して、男たちを次々吹き飛ばしてゆく。
ある者は脳漿をまき散らし、ある者は体腔から直接、内臓を噴いた。
ただ一人、オニグマの攻撃を避けて、彼女の懐中に飛び込んだ勇者もいたが、勇敢な行動はそこで終わり。
熊女は大きく口を開き、勇者の首に噛みつく。ごり、ぼきりと噛み砕かれ骨の音。漏れる喉笛。
そのままオニグマは、自身の頭を大きく振り、男を地面に放り捨てた。肉塊は、もう動かない。
熊に似たよつあし族の獣人、ベルゼルクル熊祖国の末裔は平時、口下手で物静かに見えるが、戦時は印象が反転する。敵とみなしたものを殺すことに、ためらいがまったくない。
狂戦士と化した熊女から逃げ出す面々、その前に今度は蛇女が立ちふさがる。
「……表だって戦うなと、禁止されてはいるんだがね。最近は人畜無害な女に、殴りかかってくる奴が多くてな。禁術がどうとか言っていられないんだよ」
芝居じみた仕草で、首を左右にゆっくり振り、肩をすくめてみせる。
「まあ、ここから逃げ出されて、私たちの動向を他に報告されるのも困るので」
一度、目を閉じ、また開く。瞳孔を円から、糸に変形させる。
右目と左目、糸が二本になる。絲になる。
絲は玄女と上帝、二柱の神の矮小な複製。この世すべては、神の絲で編まれた模様に過ぎない。
ゲブラー=ジゼルの願いを拒むものは、自然界に極わずかだ。たとえば、人間が鉱物と火を混ぜ合わせ、新たに創り出した金属など。
〈絲。氷礫、〉
周囲の気温を下げ、水分をかき集め、それらを無数の氷の刃とし、宙に浮かべる蛇女。
ただ人の目には、なんの脈絡もなく、突如として氷で出来た短剣が現れたように見えるだろう。
「……逝け」
ゲブラー=ジゼルの命令と同時に、氷の短剣が四方八方、飛んで行く。
背後に熊女、前方に蛇女。
彼ら私兵隊に退路は、ない。棍棒で撲殺されるか、短剣で刺殺されるかの二択。一方的な虐殺が始まった。
――へぐ、と断末魔をあげて、最後の一人が地に倒れる。男の胸には大穴があき、頭蓋骨は半壊している。
「ぐうぅ………………う? うー?」
最後の一人が斃れると、オニグマは突然まばたきをして、小首をかしげた。狂気はきれいにぬぐい去られて、純朴そうな目に戻る。
彼女は無造作に口元の血をぬぐい、歯牙に引っかかっていた腱と軟骨を吐き捨て、こちらに訊ねる。
「……敵、いない。戦い、終わった?」
「ああ。もう暴れなくていいぞ」
ゲブラー=ジゼルもまた、瞳孔を糸から円に戻した。
血なまぐさい死体の山のなか、先の少年兵を探す。うまく気を失っていれば、よいのだが。もし、そうでないのなら、さて、どうしたものか。
血肉かきわけ、一番小さなかたまりを探り当てる。
幸か不幸か、金髪の、マルセルに似た少年には息があった。ひゅー、ひゅーとうなっている。両目に血糊が貼りついて、視線はさだかでない。乱闘の余波を受けたのか、彼の横腹には槍の穂先が一部めり込んでいる。
中腰のまま、彼を抱き起こして、もう一度、顔を観察した。
間もなく死ぬだろう。そう直感した。そう、このまま、なんの手当もせねば、間もなく。
「ジゼル、これ、殺すのか?」
オニグマが、率直に問いかけてきた。
ゲブラー=ジゼルは、少年の顔に見入った。
マルセルの代わりに、首を落とされるはずだった少年。まだ幼い。手足は、枝のよう。髪は金色。
「……ああ、もう! 私は、こういうのに弱いんだよ!」
指のささくれを一気に剥がす。むくりとふくれ、あふれた血の一滴を、彼の口のなかに落とす。
運が良ければ。黒くちなわの血がなじむ逸材なら、回復する。
しかし、そうでなければ――
がく、がくがく、と少年の手足が大げさに痙攣し始めた。
その反応に、ゲブラー=ジゼルは舌打ちをして、少年から手を離す。
地面に落ちて、跳ねる四肢。
「――だめだな」
吐き捨てた瞬間、少年はかっと両目を見開いた。
突然、少年の眼球は、眼窩から飛び出した。同時に視神経が引きずりだされる。それは、大きな頭を持つ、蛇のように、そこらをのたうちまわった。
恐れ知らずのオニグマも、その光景に、身をすくめている。
目の蛇、としか形容できない不気味な物体は、口らしき亀裂を開き、本体である少年の肉を貪った。本体を食い尽くしても、まだ空腹なのか、今度は左右たがいを食らい合っている。
目の蛇が、共食いする光景は、おぞましいものだった。あれだけの容積のものを食らってなお、その大きさは変わらない。間もなく、たがいに食い尽くして、マルセルの身代わりとなるはずだった少年は、この世から消滅してしまった。
――黒くちなわが自ら分け与えた血肉は、口にした者の肉体を頑健にする。ときに不老長寿に変質させ、死者を蘇生する可能性すら、ある。しかし、
〈私の血は、毒だ。強すぎる薬は、毒でしかない。常人には強すぎる劇薬だと、わかっていたことだが〉
彼が、マルセルに似ていたから。ただ、それだけで、血をあたえてみた。
そして、死んだ。
「……他に手はなかった、やれるだけのことは、やった。それだけだ。オニグマ、行こう。ここは、死体しかない」
「……ん」
オニグマが二之旗本の人間がするように、両手をあわせ、かつて少年兵がいたあたりを拝む。
そして、先に歩き出していたゲブラー=ジゼルの背後をのっそりとついていった。
――やがて日が落ちた。
夜風が強く吹き、野営地のどこぞにあった火をあおって、大きくする。
火の進む先に死体の山があった。人間の脂、燐物質を舐めて、火は大きくなり、自然と火葬が、なされた。
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