断章『終の盾の少年』

 少年の名は、スヴェン。氏族の名は、終(つい)の盾(たて)。

 終の盾は、このヨルムンガンド帝国のなかでは皇帝家に次ぐ古い氏族であり、皇帝一族の護衛と宮殿警護のみを務め、あらゆる政治特権を放棄した一族でもある。


〈いよいよ、出仕か〉


 スヴェンは、なんの勲章もない、まっさらの軍服に手を擦りつけ、手汗を拭った。

 庭に家紋入りの馬車が回され、扉が開く。

 たっぷりの髭と勲章を身につけた父親が、先に乗り込んだ。


「坊ちゃん、行ってらっしゃい」

「階段で、こけるなよ?」

「陛下、殿下の御前で、しでかさぬよう。いいですね、スヴェン」


 見送る一族の群れから、一歩進み出た母が、きちりとスヴェンの襟を正してくれた。


「あなたは今日から、ヨルムンガンド帝国、唯一無二の皇太子殿下、その護衛にして、あにやとなります。命に代えても、使命をまっとうなさい。それが終の盾の務め」

「…はい。行って参ります、母上」


 黒羅紗と、金糸刺繍の礼装軍服は動きづらいことこの上ない。

 それでも勲章じゃらじゃらの父親に比べれば、まだ軽いのだろう。

 連日続いた曇天も、今朝には晴れ、青く澄んでいる。

 一族郎党が見守るなか、終の盾のしるしをつけた馬車へ乗りこむ。

 練習用の木刀とは、こしらえも重さもちがう軍刀に足をとられ、蹴つまづきかけたが、先に乗っていた父が腕をのばして、ささえてくれる。


「出してくれ」


 スヴェンが座席に座ると、父が御者に命じた。

 かっかっか、と。馬が地面を蹴り、客車が振動する。

 今日は非公式ではあるが、スヴェンにとって、人生初の登城の日だ。

 そして、皇帝家待望の嫡男、マルセル王子が誕生して三ヶ月ほどになる。

 しめった手のひらを、くりかえし下穿きに擦りつける。

 汗は陽気のせいではない。首都圏の気候は、いわゆる亜寒帯湿潤で、実際に春めいてくるのは四月下旬から五月下旬。


「いいか、スヴェン」


 隣の父が口を開いたので、そちらを見た。

 ひげを剃ったばかりの父のあごは、青々としている。


「マルセル様は、唯一無二の皇子。兄のように、友のように仕えて欲しいと両陛下のお言葉はいただいたが、甘えてはいかんぞ。線引きは、きちんとするように。終の盾の名をおとしめる真似をしてはならん」


 この三ヶ月、毎日くりかえされた言いつけにうなずき、スヴェンは視線を外にやった。向かう先の城を見つめる。

 白亜の城だ。その名も白宮殿という。

 ハラル始祖帝より二千年弱、この国の王将である皇帝と、その一族が住んでいる。

 スヴェンの家系、終の盾は、始祖帝ハラルの時代から、皇帝家とともにあった。屋号の字面どおり、皇帝のもっとも近くで、その心身を守る。

 終の盾スヴェンは、約百人から構成される一族郎党中、最年少の男児ゆえ、三ヶ月前に誕生した皇子と縁づけられていた。


「本当に、私でよかったのでしょうか? 兄上たちのほうが、剣技も座学も優れています」

「そうだ、おまえが唯一勝るのは、年齢だけ。しかし、それこそが決め手だった」

「年齢が、決め手、ですか」

「語弊あるか。まだ十二のおまえと二十を越えた兄たちとでは、単純に考えて、どちらが先に寿命つきる? どちらが長くマルセル様に仕えていける?」


 単純に考えたなら、自分だ。平均寿命六十歳の文化圏にあって、一番上の兄は、残り三十五年の命。自分ならば、あと四十八年の猶予がある。もっとも、それは平均値の話なのだが。


「マルセル様の盾となれ、スヴェン。子孫は、おまえのきょうだいが遺す。おまえは、マルセル様のことを考えて生きるのだ」

「はい!」


 なんの疑問もなく、スヴェンは強くうなずいた。そもそも他の生き方など知らない。

 城が近づき、その巨大な影が、馬車をおおった。

 門前で、車輪の回転が止まる。

 門番に誰何され、御者が答えると、門の扉は開かれた。

 帯剣した門番が車内をあらため、二人の存在に気づくと鼻先にしわをよせ、敬礼する。


「終の盾ヴェイン様、ご子息のスヴェン様でしょうか?」


 年上の男に様づけされ、スヴェンは戸惑いながら、うなずいてみせた。


「こちらからは、徒歩でお願いします」


 うながされて、馬車を降りた。

 門番とのすれ違いざま、犬どもが、という言葉がかすかに聞こえた。思わず周囲に目を配ったが、犬の一匹も見当たらず、はてと首をかしげる。

 スヴェンらを降ろした馬車が、他の門番に誘導され、遠ざかってゆく。

 建物のなかに入ると、案内役は門番から初老の文官に代わった。


「おや、私の息子めと同い年のようだ」


 文官が目を細めた。


「ご立派ですな。うちのは、まだ幼くて」

「ほう。何人めですか?」

「やっと、一人ですよ。少々甘やかしました」


 そう言って、彼は胸元から無骨な、木製の首飾りを取り出した。


「しかし、私に似て手先は器用です」


 首から下げる物にしては、妙に大きいような気もしたが、スヴェンは黙っていた。


「それは先が楽しみですな」

「ええ、まったく。では参りましょうか」


 世間話の後は広く、ゆるやかな階段や絨毯を踏みながら、奥へ奥へと移動する。

 迷路のような造りの城内、目印となるだろう調度品を横目に見つつ、父と文官の背を追った。巡回中の長兄、次兄と出くわしたが、二人は親しさを見せることなく目礼してきただけだ。

 まもなく、ある扉の前で、二人の足が止まる。いよいよと心臓を高鳴らせ、小走りに距離を縮める。

 深呼吸を三度しろ、と言われて、その通りにした。深呼吸の間、めずらしく父が自分の手を握ってくれる。

 そして、自ら手を離した。この肉厚で無骨な手を頼りにすることは、この先二度とないだろう。たった今から、この手は、皇子とつなぐためにある。


「行けるか?」

「はい!」


 やりとりを見守っていた文官が叩扉した。


「終の盾ヴェイン、その三男スヴェン。参上しました」


 入りなさい、と扉の向こうから許可が出た。

 文官は横に移動して、父に入室をうながした。


「失礼いたします」

「やあ、待っていたよ」


 やわらかい声とともに、四十過ぎの男が、ゆりかごのそばから立ちあがる。

 隣にいた女が、かるく目礼をして、またゆりかごのなかに視線を落とした。


「皇帝陛下、皇后陛下。拝顔の栄に――」


 膝を折った父とスヴェンに向かって、男は手を振った。


「いい。立って。他の元老は、いないのだから」


 父が立ったので、スヴェンもそれにならった。すすめられた長椅子に、並んで腰かける。


「きみに産着を贈ったのは、十二年前だったね」


 上座の皇帝ニコルに話しかけられ、スヴェンは震える声で、はいと返事した。


「その節は、ありがたくも御下賜を――」

「じつは憶えてないだろうに。父上の教育かな」

「はっ……あ、ああ、いえ、……そのう」


 しどろもどろになっていると、父が渋面を作り、皇帝は声をあげて笑った。

 笑うと、さらにお若く見える方だとスヴェンは思った。


「奥方が、二之旗本(にのはたもと)に里下がりしているのに気づかず、終の盾の屋敷に送りつけてしまったなあ」

「すぐに妻の郷里に届けましたので」

「うん。産後というのに、かえって気をつかわせてしまった。早馬で、あちらから礼状が届いたよ。それでやっと間違いに気づいた」


 どうも間が抜けているな、と皇帝は頭をかいている。

 父や兄から聞いていたが、ニコル皇帝は、本当に気さくで優しげな貴人だった。


「終の盾の献身には、ありがたくも、すまなくも思う。ヴェイガーには特に迷惑をかけた。彼は、変わりないかな?」

「一族郎党の学術指南役として、後進の育成に励んでおります。陛下が、気に病まれることは、ございません」

「あいかわらず独りかな。誰か、いいひとは?」

「陛下に人生をささげると決めた男です。一度決めたなら、死んでもくつがえしません」

「……うん」


 顔をくもらせ、皇帝はスヴェンを見た。


「彼が、私のところへ来たのと、同じぐらいだろうか。顔もよく似ている」


 これから楽しいことがたくさん待っているだろうにと哀れまれてしまった。

 しかし、スヴェンの代わりに、父が口を開く。


「これも、生まれついての終の盾にございます」

「……あの盾を、こちらに納める気はないというんだね?」

「ハラル帝の時代より、我が家に伝わります霊宝(れいほう)です。あれだけはお譲りすることはできません」

「そうか。……そうだね。たがいに先祖代々続いてきたものを、今さら私ごときが奪うわけにもいかないか」

「近頃は不埒な噂も、ちらほらと、」


 やがて皇帝と父の会話についていけず、大人たちのなかで沈黙していると、皇妃マデリンに手招きされた。

 父に目をむけると、許可が出たので、スヴェンはゆりかごに近づく。


「さあ、マルセル。にいやのスヴェンですよ」


 皇妃が、スヴェンの手をとり、皇子のそれに近づけた。

 皇子は、こちらの指をつかみ、じっと見つめてくる。

 その瞬間、スヴェンの胸は詰まり、ぼたぼたと涙が頬を落ちていった。

 この方は私がお守りするのだ、と。他の誰でもなく、自分自身が強く命じている。

 歯を食いしばって、嗚咽をこらえていると、肩に手をおかれた。見れば、ばあやとしてつかえている、祖母が隣にいる。

「おばあさま……すみません、男子が人前で泣くなどと」

「自然のことです。先代も、そうでしたよ」

 皇妃マデリンは、ばあやから受け取った哺乳瓶を、皇子に含ませている。

 その光景を見るだけで、スヴェンの目は、安堵の涙があふれて止まらなかった。

「始祖帝のハラル様から、およそ二千年。終の盾は、代々、皇帝陛下のそばにありました。その歴史を、おまえの魂は理解しているのです」

「――ばあやー、ばあや!」

 まもなく続き間の扉が、ばーんと開かれた。

「もう、ばあや! またマルセルのところにいる!」

 同じ年頃の少女が飛び込んできたかと思えば、スヴェンに目をやって、彼女は見る間に顔を赤くした。

「あら、ごめんなさい。どこの元老のご子息かしら」

 同年齢ということは、皇帝家の長女、一の姫オリンだろう。

 スヴェンはすばやく涙をぬぐい、彼女にむかって、膝をついた。

「私は、終の盾の末子スヴェンともうします」

「終の盾……。では、ばあやの?」

「不祥の孫にございます」

「正式な任命は、まだ先になりますが。弟君にお仕えいたします。祖母ともども、よろしくお願いいたします」

 礼儀として、彼女の手をとり、手の甲に唇を押しつけた。

 オリンの顔は、ますます赤くなる。

「あー、まっかっか!」

「あー、まっかっか!」

 オリンの背後、その両わきから、童女がふたり、顔を突きだした。

「つんとおすまし、どこいった?」

「リンねえ、そのこがすきなのー?」

「タム! マリ! からかうのは、やめてちょうだい!」

 とまどうオリンの様子を見かねて、スヴェンは小さな姫二人の手をとった。

「タムリン皇女、マーリン皇女。私は、どなたとも結婚しませんよ。生涯、マルセル皇子に尽くすと決めておりますから」

「……え?」

「え?」

 妹姫二人にからかわれている姉姫に助け船を出したつもりだったのだが、本人はひどく傷ついたような顔をした。

「あの、オリン皇女、」

「ええ、ええ! そうよね! あなたは終の盾だもの! 絶対に公私混同したりしない、皇帝家の番犬なんだから!」

 早口にまくしたてたオリン皇女は、だんだんと大きく足音をたてて、立ち去ってしまった。

「おにいちゃんは、いぬ?」

「わんこ? わんこなの?」

 双子の皇女たちが、スヴェンの周囲をぐるぐると走りながら、訊ねてくる。

「いえ、私は、よつあし族では、ありません。普通の人間で、」

 彼女らに答えながら、ふと気がついた。他人の目には、忠実な番犬のように見えるのだ、と。気づいて、馬車の降車時に吐き捨てられたのは、これかと思う。

 ――この国には、元老家系と呼ばれる、有力な一族が十あり、そのうちのひとつが終の盾だ。しかし、領地をたまわる他の九家とちがい、終の盾は昔から首都住まいである。

 つとめは、もっぱら皇帝家の護衛や私生活の世話のみで、政治には関与しない。降嫁する皇女を妻に迎えたこともない。ただ、皇帝のそばに在るだけの、番犬である。

「まあ、へそを曲げてしまわれた」

「あの子も十二歳ですもの。男の子に興味を持つ時期よ」

 皇妃が苦笑した。母親の腕のなかで、皇子は、盛大なげっぷをしている。

「スヴェン、ゆるしてあげてね。オリンはまじめな分、ちょっと気むずかしいの」

「お謝りになることは、ございません。このスヴェンが、すべていけないのです。どうか、おゆるしください」

「こちらこそ」

 背後で、父の咳払いが響いた。

 振り返ると、ニコル皇帝と父が席を立っている。もう退室の時だと気づかされた。

「皇子……マルセル様。正式におつかえする日を、スヴェンは、お待ちしております」

 皇子が、その青い目で、スヴェンに返事を返しているような気がした。

 その目にむかって、一礼する。

「ばいばーい」

「ばいばーい」

 祖母の両わきにしがみついている双子が、手を振ってきたので、小さく振り返してみせる。

 父が退室の口上を述べ、歩き出したので、その背を追った。

 先と同じ文官が扉を開閉して、父と自分を城外へと導いた。

 導かれるままに外へ出ると、今度は厩舎の間近だった。

 馬の世話をする御者の後ろ姿が見える。

 父子の姿に気づいた御者は、すぐに客車をつなぎ始めた。

「世話になった。失礼する」

 父が、文官に声をかけ、客車に乗りこむ。

 スヴェンも座席に腰かけ、深く息を吐いた。そこでようやく背中がこり固まっていることに気づく。

「いいぞ。出してくれ」

 父の命じる声と同時に、がたがたと客車が振動をはじめた。

「――緊張したか」

「はい」

「そうか」

 大きな手が、スヴェンの頭髪をかき混ぜる。

「七日後、四月には登庁だ。以降、公には親子でなく、上官と部下、おなじ終の盾の男としてあつかう。よいな?」

「はい!」

 ちから強く返事をして、スヴェンは目を閉じた。

〈やがては、陛下のようにお優しいお姿になられるだろうか。しかし、皇帝に……王にして将軍となられるのならば、もっと筋肉をつけたほうが、よいように思うが〉

 まぶたの裏で、未来を思い描くだけで、胸が熱くなる。

〈私の皇子は、臣民に優しく、公平で、けれども戦場に立てば鬼神のごとき強さで、敵兵をなぎ払うような。けれども、残虐というわけでもなく〉

 矛盾したことを平気でいう自分に、スヴェンは気づいてなかった。

 楽しい妄想は雪玉のようにふくれてゆく。成人後の皇子と馬を並べ、戦場を駆ける様は、実に痛快だった。

〈そうだ、武器は何をお持たせしよう! 見目を考慮して、剣はもちろんのこと……ああ、でも、斧もよいなあ。キンタロウのように、かるがる戦斧を振るえば、自軍を鼓舞し、敵を震え上がらせることだろう…〉

「楽しそうだな、スヴェン」

「はいっ!」

 鼻息荒く答えると、父が苦笑した。

「よつあし族のように、尾があれば、きっと千切れんばかりだろうな」

 よつあし族と聞いて、ふと幼児期のことを思い出した。

「……ベルゼルクルのよつあし族は、尾がなかったような、」

「ジャンババットか」

 かつて客人として、終の盾の屋敷に住んでいた少年の名をあげ、父は首を振った。

「ベルゼルクルは、熊を祖先とする獣人だ。尾がないのでなく、ただ短いので、目立たない。……おまえは、よくキンタロウごっこを、彼にせがんでいたな」

 熊の獣人が滞在していたのは、スヴェンが六歳の時、その一年間だけだった。

 当時ジャンババットの年齢を訊いたことはなかったが、およそ十二歳前後であったように記憶している。次代族長と期待されての留学で、スヴェンの遊び相手すら懸命につとめてくれていた。

「ベルゼルクル熊(くま)祖(そ)国(こく)は、ハラル帝が最初に降(くだ)し、完全接合させた島国だ。臣民としての歴史は、終の盾より浅いが、他の九元老よりは、ずっと長い。定住を拒否しなけれは、元老家系として数えられていただろうが」

「山野を好む性格でしたね。一カ所に定住すると山野が荒れるから、定期的に転々としている……」

「そうだ。スヴェン、心得ておけ。我らが盾なら、彼らは矛だ。軍事にて、ベルゼルクルを軽視する者がいたら、それは信用ならぬ者だ」

 会話するうち、馬車は速度を落とし、我が家の庭に進入する。

「お帰りなさいませ、棟梁!」

「お帰り、三の若。どうだったね?」

 庭の隅で、武術訓練をしていた男たちが、駆け寄ってきた。

「問題ない。人見知りされるようなこともなかった」

「よかったですねえ、三の若」

「めでたいことだ」

 皇子との顔合わせが無事すんだことを、口々に祝福される。

 いつも無骨な父が誇らしげに胸をはっている。皇子と自分の未来は、この先、ずっと明るく、華やかなものになるのだろうと思われた。

「お帰りなさいませ、棟梁」

 玄関先で、母に一礼される。

「そのお顔ですと、スヴェンは、あにやとして合格ということでしょうか」

「ああ。ひさしぶりに産着騒動も話題に上ったぞ」

「まあ、なんてこと」

 含み笑いする母の肩をかるく叩き、父がこちらに向き直った。

「フエ、いいか。……スヴェン、これを」

 父が、玄関広間に飾られた盾を手にした。

 小さな手甲の盾(ランタンシールド)。武器を収める細工の他、側面には光を通すための孔が開いている。

「終の盾の、由来となった霊宝だ。我らは、二生(にしよう)の盾と呼んでいる。記憶しているか?」

「はい。その昔、旅の魔法使いから授けられた盾。ハラル帝をお守りするために頂戴した物だと」

 霊宝道具、二生の盾。始祖帝ハラルの血をひく皇帝の死を、一度だけ回避できるもの。その奇跡は、終の盾の一族の肉と引き替えとなる。

「世には、霊宝武具と、霊宝道具がありますが、盾なのに道具に分類されるのですね」

「実戦における盾としての機能は、ないからだろう。――霊宝武具は、戦に役立つもの、必殺のもの、使用者に呪詛をもたらすもの。霊宝道具は、便利なもの、呪詛のない、あるいは軽度のものと分かれるそうだが。我々は学者ではない。分類など、些細なことだ」

「はい。我々は、皇帝家の方々をお守りできれば、それでよいのですから」

「これは六年前、病にお倒れになったニコル様の崩御を防いだ。しかし、一代につき、二度目は、ない。つまり、次に霊宝の奇跡が顕れるのは、次代のマルセル様。その代価は、おまえが支払うことになる」

「はい」

「さあ、おまえは、どこの肉を霊宝に売り払う?」

「………………」

「よく考えよ。腕一本なら、おまえは剣を持てなくなる。脚一本なら、おまえは走れなくなる」

「私は、生涯マルセル様だけに、おつかえします。妻子は不要と考えます。おそらく、神につかえる僧のようなものなのです。ですから、」

 あとは父が酌んでくれた。二生の盾をスヴェンの腕にくくりつけ、革帯をしめる。そして、父は口を開いた。

「終の盾のスヴェンは、ハラルの九十九番目の息子、マルセルの一度目の死を防ぐ――続けよ、」

「終の盾のスヴェンは、ハラルの九十九番目の息子、マルセルの一度目の死を防ぐ、」

 誓約を先制する間に、手甲が震え、盾の側面の孔から、赤い光が放射された。

「――天より、神の国落ちきたりて、その欠片、我を押し潰さぬ限り、我が誓約、破らるる事なし!」

 血色の光が、スヴェンの視界を塗りつぶした。

 思わず目を閉じる。体の内側に、何かが這うような気配があった。脳を直接、つかまれ、ぐらぐら揺さぶられるような感覚に襲われる。

『代替わりしたか、ハラルの番犬』

 男の声が、スヴェンの耳に、あるいは脳に響く。青年なのか、老人なのか、わからなかった。

 何者かの姿が見えた。しかし、長い黒髪が邪魔で、顔かたちがはっきりしない。

 今、血色の空間にあるのは、スヴェンとその人、二人だけである。

『――俺の絶望を、希望に変えるのは、ハラルの息子たちなのか』

「あなた様は……始祖帝ハラルと我々に、盾をあたえた魔法使いどの、でしょうか?」

『うん。……いろいろ試したが、きみたちが一番よくやっているな。他は、あまり機能していない。まったく皮肉なことだよ。うんざりだ』

 彼が何を言っているのか、スヴェンにはよくわからなかった。

「……盾の魔法使いどの。どうかマルセル様をお守りください。私の代償は、」

『もちろん聞き届ける。が、きみ、それで本当にいいのか?』

「何か問題がありますか?」

『子犬が自ら、宦官になるようなもの』

「腕も、脚も、目も、耳も。ひとつ欠ければ、武人として、護衛としての能力が一段、落ちることでしょう。それだけは避けたいのです。ならば、」

 魔法使いは、肩をすくめるような仕草をした。

『子々孫々、こうも理不尽な呪詛を受け入れてしまうほど、ご立派な王将続きであったか。はたまた盲信しているだけなのか。まあ、そのうち見極めさせてもらおう』

 唐突に、魔法使いの気配は去った。

 血色の空間は、いつもの見慣れた玄関広間に戻っている。

 鼠(そ)蹊(けい)部(ぶ)に一瞬、痛みを感じ、膝をついたが、その痛みはすぐに治まった。

「誓約は受け入れられたか?」

「はい。魔法使いの幻覚を見たようです」

 父は声をかけてくれたが、手は貸してこなかった。

 スヴェンは独りで立ちあがった。

「……不思議な御仁でした。とらえどころがないというか」

「おまえの大叔父どのに、話を聞くといい。ニコル様の代償は、彼が払ったのだからな」

「はい、父う――棟梁、お先に失礼します」

 スヴェンは、少し他人行儀に、頭を下げた。一度、自室に戻って、着替えをすませると、次に大叔父の部屋を訪ねた。

 隻腕の男が一人、書棚の前に立っている。

「……なにか、お手伝いしましょうか?」

「おお、スヴェンか。ならば、茶を煎れてくれんかね。ちょうど湯が沸いた」

 祖父の一番下の弟、大叔父は、数冊の本を台車に載せている。隻腕のため、細々とした物の運搬に、台車は欠かせないのだ。

 火鉢の上で、鉄瓶が鳴り、蒸気を噴いている。いそいで火鉢から鉄瓶を下ろし、急須に湯をそそいだ。

「どうぞ。お気をつけを」

「うん。……ああ、これは合格だ。皇帝家の皆様もお喜びになられるだろう」

 ほうっとため息をついて、大叔父は、茶器をスヴェンに返した。

 火事対策と同時、茶器のすすぎにも利用する水桶に茶器を沈めていると、大叔父に呼ばれた。

 長椅子に座った彼は、来い来いと手招きしている。

 おとなしく彼の隣に座ると、大叔父が親しげに肩を抱いてきた。

「白宮殿は、あいかわらずか。妙なことは、ないかね?」

「初めての登城でしたから、以前がどんなかは、わかりかねますが、」

 ふと、犬、という語が思い出された。

「――門番さんとオリン姫、あとは盾の魔法使いに犬と言われました」

 大叔父が唾を吹き出した。あっはっはと笑って、こちらの背を叩く。

「番犬だの、忠犬だの、猛犬だのと好き勝手なことだ。まさか、気にしているわけではないだろう?」

「とても納得しました」

「よろしい。それが終の盾だ。犬畜生、大変けっこう。人ほど裏切ることも無し」

 二生の盾の代償で、隻腕になった大叔父は、六年前に護衛武官を退任している。が、大叔父は、スヴェンにとって模範とする男の一人だ。

「皇子殿下にお目にかかって、あらためて思いました。私は、あの方の一番の臣でありたいと」

「その意気だ。それさえあれば、礼儀作法も、宮廷舞踊も恐るるに足らず」

「はい。特に、礼儀作法は、いちからやり直しかと思います。私が、もっとしっかりしていたら、オリン様に恥をかかせずに、すみましたのに」

「なんの話だ?」

 訊ねられたので、宮殿内での出来事を話すと、苦笑されてしまった。

「それは女心というやつだな」

「おんな、ごころ? そんなもの、教科書に、ありましたか?」

「スヴェンの顔は、ひげ親父でなく、この大叔父似だからなあ……。女官は敵に回すなよ。あれは時に、百万の兵より手強いぞ」

「何を。私の剣が、細腕に劣るというのですか!?」

「そういう意味で、なくてだな……。スヴェンは、もっと修辞学を学べよ。そのまま、まっすぐでは言質とられて、首をしめられるぞ」

「………………」

「さあ、そのふくれつらを直せ。ここに、ちょうど修辞学の本がある。初登庁の日まで、百度は読み返せ。おまえは、皇子のよき兄になりたいのだろう?」

 唯一の取り柄である剣の腕、それを疑われた気分のスヴェンは、大叔父の挑発に、じりじりしつつも、本を手にとった。


 その夜のことだった。

 夜半、騎馬一騎が庭先に飛び込んできた。――白宮殿につめていた次兄だった。

「両陛下、弑逆、」

 一族郎党が集まった庭。兄は口から血泡を吹きつつ、父の腕のなかで息絶え絶えに告げた。

「旗じるしは、根(ね)業(ごう)矢(や)で……ヤ…バン…が陛下を……皇子たちが、……」

 兄の言葉に背筋が凍った。顔から、頭から、血がすうっとひく。

「皇子は! 皇子は、どうなさったか?」

「皇子を人質に、……掌握して、」

「皇子は、ご無事ですか? 兄上、答えて!」

「無事だ……が……終の盾が弑逆した、と、追捕の、命が、」

 幾度も血を吐き、話を中断させる兄を、もどかしく思った。

 やがて大きな血泡を作ったかと思うと、次兄は事切れる。満身創痍の姿を見るに、本当は、家にたどり着く前に命が尽きていたのではないかと思わされた。

「――フエ、あとは頼む」

「…はい」

 息子を看取った夫婦が、うなずき合った。

 父は、死体を地面に寝かせ、立ちあがった。集まった一族郎党を見回す。

「聞いたか、みな! 理解したか、みな! 恐れ多くも、皇帝陛下を手にかけ、皇子をとらえた挙げ句、終の盾が罪人よとほざく馬鹿がおる!」

 男たちが力強くうなずき、足を踏み鳴らした。

「頭が代わるは世の道理、血筋なぞあてにならぬと、よそ者は言う。だが、我々は始祖帝ハラルとその子孫の盾である。終の盾である」

 そろって足が踏み鳴らされ、夜の闇にたいまつの火が大きく揺れた。

「我らの主人は誰だ!?」

 父の大音声に、ハラルと叫ぶ。

「終の盾の持ち主は誰だ!?」

 男も女も、老人も、みなハラルと叫ぶ。

「よく言った! これより皇子殿下、皇女殿下を奪還し、始祖帝ハラルの敵を滅する。男ども、戦支度をして、我に続け! 女ども、男と今生に、別れを告げよ!」

 号令一下。終の盾の一族郎党は、すばやく動き出した。

 スヴェンも、父に続かんと、武具をとりに、自室へ駆け戻る。

「――スヴェン」

 自室の前の廊下で、母に捕まった。

「おまえには、別の用意をしてもらいます。剣と砥石、それから野良着、下着をふたつずつ持って、裏庭に来なさい」

 奇妙な言いつけに目を丸くしたが、緊急時だ。何も考えず、指定された物品をつかむとすぐに裏庭に飛び出す。

 裏庭では、着物の裾を尻からげにした母が、塀を蹴り飛ばしていた。

 今春、あわてて補修したばかりの部分に穴をあけ、子供ひとりがどうにか通れるほどまで壊している。

「――スヴェン、衣類は?」

「はい、ここに」

 母は、それを地面にほうると、靴裏の泥をすりつけた。踏みにじった野良着を手にすると、それを袋のなかに押し込んでいる。

 用意された大小の袋には、二生の盾の他、竹製の水筒や、干し肉が入っていた。

 そして野良着のもうひとつをスヴェンに戻し、これに着替えるようにと母は言う。

 言われるまま、服を交換して、粗末な帯に鞘をつるした。

「スヴェン。首都から、二之旗本の元老領は、どちらの方角か?」

「東です。母上」

「そう。東へ徒歩七日。では私の父、おまえの祖父、二之旗本の元老の名は?」

「おじいさまの名は、ヒュウガ、です」

 荷物の詰まった袋を背負わされながら、つづく奇妙な問答に困惑していると、母はますます奇妙なことを言い出した。

「なかに二之旗本ヒュウガ宛の手紙があります。終の盾には、ベンという名の下働きがおり、三日前の日付で解雇されたので、そののちの雇用を頼みたいという内容です」

「母上!?」

「奥様とお言い、ベン!」

 意図を理解した瞬間、頭を殴られたような衝撃に襲われた。

「しっぽを巻いて、逃げろと言うんですか? 馬鹿にして!」

「ただの保険です、ベン」

「やめてください、私も戦う!」

「使用人風情が口答えか、おこがましい!」

 鬼気迫る母の姿に、思わず口が閉じる。

「うまくいけば、何もない。二之旗本へ行って、ただ戻ってくれば、よいこと」

「皇帝家の一大事に、どうして……母上は、私の心まで、踏みにじるのですか」

「終の盾は、ここで死力を尽くします。――でも、皇子をお救いする前に、おまえが死んでしまったら、誰があの方の命と二生の盾をお守りするの?」

「………………」

「ベン――スヴェン。根業矢の、ヤンバンジ元老の名で、追捕令が出ているということは、彼奴らめ、終の盾を一人残らず殺して、おのが罪をかぶせるつもりでしょう。今夜のこと、一元老のみのはかりごとではないと見る」

「ですが、」

「ねえ、スヴェン。もしも……もし、終の盾が全滅した時、誰が真実を、真相を殿下に、お話しするの?」

「………あ…あぁ……」

「死して汚名をかぶせられるなど、まっぴらごめんです。それが棟梁と一族郎党の総意」

 反論を飲み込み、母の言葉を胸に刻む。

「絶対に……皇子をお救いください。逆賊を討ち滅ぼしてください。それまでヒュウガ様のお屋敷で、お待ちしております……奥さま」

「奥さま!」

 下働きの少年が、駆け寄ってきた。なぜかスヴェンの服を着ている。

「棟梁のお見送りを。みなさま、出ます」

「ベン、はやく行きなさい。あのひとが人目をひいている間に」

 父を見送ることも拒否された。

 母は、すばやく表門へと駆けていく。

「三の若。どうか、お元気で」

 ひとつ年上の下男が、スヴェンを強く抱きしめる。

「みなさまには家族ともども、お世話になりました。ここで終の盾の一族に加えていただけること、俺は光栄に思います。……さあ、行ってください。お元気で」

 彼は、足下の泥を手にとり、スヴェンの頬にすりつけた。そして、彼もまたスヴェンを置いていく。

 ――塀の穴を抜けて、スヴェンは一人、屋敷から逃げ出した。

 深夜というのに、町中には人があふれ、大騒ぎだった。

 情報は錯綜しており、人々の口は無責任なものだった。いちいちに反論し、訂正したい気分になる。

「しつけが悪けりゃ、飼い犬だって、手を噛むさ」

 酒瓶を抱えた男がしたり顔で、げらげら笑っている。

 殴り殺してやろうかと、思わず拳を握った時だった。

「おい、終の盾だ!」

「馬まで戦装束じゃあないか」

「町中でおっぱじめるつもりかい、冗談じゃねえや」

 たいまつや角灯に照らされて、ひるがえる終の盾の旗が見えた。

 馬と人があふれて、道はさらに混雑した。

 この騒ぎなら、おそらく首都を囲む外壁に配備された警備兵も、白宮殿への応援に行っているだろうか。

 一騎当千とまではいかないが、一人で十人を相手にする訓練を一族郎党は受けている。次兄が斃れたということは数に圧倒されたということであり、つまり反逆者たちは相当数の私兵を鎮圧に差し向けたということ。混乱を収め、事態の収拾をはかるには、さらに人手がいるだろう。

 事態趨勢がどちらに転ぼうと、首都を出る時期は今しかないと、スヴェンは判断した。

 石畳を蹴る。

 首都は広いが、体力自慢のスヴェンは、ひたすら駆けた。

 郊外の農地に通じる門、その詰め所には巨漢がひとり立っていた。

「ぼうずーなあにがあったー?」

 生来ののんき者なのか、男は、にやにやと笑いながら訊ねてくる。

「え? 知らないんですか?」

「隊長はーおまえはここに立っとけーって言っただけだあー」

「……根業矢の元老が、皇帝陛下を殺しちゃったんだ。だから終の盾が、そいつをやっつけにいったんだよ」

 せいいっぱい平易な言葉で訴えると、そら大変だー、と巨漢は町中へと駆けてゆく。

 彼がおおらかな人間で助かった。細かく、ねちねちとした、門番が天職の男相手なら、手間暇かかったことだろう。

 ――最初の分かれ道まで早足で進み、一度だけ首都の、白宮殿のほうを仰ぎ見る。

 そして二度と振り返らなかった。ひたすら東へ進む。


 一日、二日と歩き、その道中で野盗に襲われたが、スヴェンは危なげなく全員を斬り伏せた。人生初の殺人だが、なんの感傷もない。死体の持ち物をあさり、金品を得て、そのまま歩き続ける。

 三日、四日と時は過ぎる。

 街道を通ったが、宿場町は不自然にならない程度に利用した。素性を訊かれれば、ただベンと名乗り、家族が死んだので遠縁を頼るのだと答えた。

 その際、耳に入った噂によると、終の盾の男は一人残らず戦死し、女や老人は火のついた屋敷にこもって焼死。骸は今も野ざらしのまま。

 彼らの無実を信じた者が、骨を拾って弔おうとしたが、反逆罪とやらで逮捕され、裁判もなく絞首刑になったそうだ。

 マルセル皇子と、オリン、タムリン、マーリンの三皇女は、根業矢の元老に保護という名目で監禁された。また摂政として、根業矢は中央を掌握し、官吏官僚を動かし始めたという。

 五日目――スヴェンは疲れ果てていた。

 人々が口から垂れ流す噂は、気力を減退させていく。ここから先は野宿のみにしようと決めた。疲れはとれないが、気が削れない分だけ、ましだろう。

 街道を立派な馬が二頭、駆けていくのを見た。騎乗者は、腰に駅鈴を下げている。公式の通達を受け持つ早馬だ。

 六日目。

 街道を少しはずれて獣道を歩いていると、木々の合間を、四つ足で走る集団に出くわした。

「首都から来たか? 人間、名を名乗れ!」

 よく見れば、獣人の群れだった。

 熊の耳や尾をはやし、毛皮に身を包んだ半裸の男たちが、スヴェンをにらんで、取り囲む。

「ハラルの息子ニコルが殺されたと聞いたぞ」

「人間が殺したと聞いたぞ」

「人間、おまえは敵か、味方か」

 獣じみた男たちは、怒りに目を赤く燃やし、責め立てる。

 限界、だった。

「う……ぅ……っ……うあああああっ!」

 はりつめていた気が、ぶっつりと切れた。怒りと絶望と疲労を声に出し、泣きわめく。

 これから、どうしていいのか、わからない。

 耳に入ってくる情報は、おぞましいことばかり。

 家族は死に絶え、主君は朝敵の手に落ちている。

 祖父のもとへ落ち延びたとして、その後は?

 たまらず、その場に座り込んで、わあわあ泣いていると、熊男のなかでも特に背が高く、がっしりした者が進み出た。

「おまえ、スヴェンか」

 名を呼ばれて、さらに泣いた。

 はっきり指名手配でも、されたのか。終の盾への侮辱と汚名は、どこまで伝播しているのだろうか――

「待て、落ち着け、泣くな、俺だ、ジャンババットだ」

 太い腕が差し出され、スヴェンを立たせた。

「終の盾スヴェン、憶えてないか? 六年前だ、背に乗せてやっただろう?」

 ごわごわとした手が、顔を撫で、涙と鼻水をぬぐう。

 目の前の熊男は、人間でいえば二十代半ばの見目だ。

 留学当時、十二歳前後に見えたジャンババットの、外見と年齢が合わない。

 鼻をぐずつかせながら、疑いの目で見上げると、熊男はかるく肩をすくめた。

「獣人は、人間より成長がはやく、命みじかい。それだけだ。それよりも、」

 熊男もまた、疑いのまなざしを返した。

「駅鈴を持った官吏が、方々にふれ回っている。終の盾が、皇帝を殺したと、」

「嘘です!」

 スヴェンは、熊男の言葉を、即座に断ち切った。

「終の盾に、そのような真似は、できません! たとえ天地がひっくり返っても!」

「…だろうな」

 スヴェンの断言を聞いて、ジヤンババットはすぐに眼光を和らげた。

「――終の盾の三番目が、こう言っている。終の盾は、ハラルの息子ニコルを殺してはいない、と」

 他の熊男たちは顔を見合わせた。

「では、誰が殺した? 誰だ!」

「終の盾の子。ニコルとマデリンを殺したのは、どいつだ!」

「根業矢の元老ヤンバンジと、次兄が」

「ねごーや?」

「北方の元老か。――みな、首都への進軍は一時中止する。これは根が深い」

「しかし、ニコルは殺された!」

「どの噂でも、ニコルの子マルセルは生きている」

「だが、ニコルは殺された!」

「ニコルの死を守って、マルセルの生を犠牲にする気か?」

「このまま引き下がれと?」

「では今すぐ、どうしても首都へ行くというなら、まず俺を斃(たお)して、族長となれ。それがベルゼルクルの道理だ」

 反論は、ぴたりとやんだ。意見はするが、力関係は明白なようだ。彼が、群れのまとめ役である。

「すまない、スヴェン。おまえ、これからどうするつもりだ」

 彼らベルゼルクルは信じてよい相手だと、スヴェンは口を開いた。

「二之旗本のおじいさまのもとへ。母が、そこで待てと」

「二之旗本か……。昔はいろいろあったが、今は気安い関係だ。俺でよければ、この先つきあうぞ」

 それより、と。ジャンババットは、こちらの顔をのぞき込んだ。

「ひどい顔色だ。来い、我らのあなぐらで一晩休んでいけ」


 その日は、そのまま山中にあるベルゼルクルのすみかに泊まらせてもらうことになった。山腹にあいた複数の横穴のうち、一番大きなものに入らせてもらう。

 獣じみた赤子が、よちよちと、スヴェンの膝に這い上がってきた。

 成体のベルゼルクルは巨漢になるようだが、赤子のうちは、両手ですくえる程に小さい。まるで、ぬいぐるみのようだ。

 スヴェンよりもずっと大柄な母親が、三対の乳首をそれぞれの子に含ませている。

「それは今年の六番目だ。名はオニグマ。マルセルとは同い年だな」

「そうですか……。でも、この子もすぐに大きくなってしまうんですね」

 みっともなく泣きわめいたことが恥ずかしく、彼から目をそらすようにうつむき、子守に集中する。

 高い高いと持ち上げれば、オニグマは短い手足をばたつかせた。

「……オニグマは、おまえが気に入ったようだ」

 熊の父親が目を細める。

 子供になつかれれば、やはり嬉しいが、それでも、この子が皇子であればと思う。

 オニグマは長らく、スヴェンにまとわりつき、他の赤子が丸くなって眠り始めた頃に、ようやく母親のもとへ這っていった。

 子守の手がすいたので、木の実や蜂蜜を口にしていると、肩に分厚い毛皮がかけられた。

「俺の祖父のものだ。使え。夜は寒い。人間に貸すのは、特別だ」

 古い熊の毛皮は大きく、スヴェン一人包んでも、まだ余りある。

「ありがとうございます。ジャンババットどの」

「かしこまらんでいい。俺とおまえの生きた年月は、同じ十二年だ」

「あんまり立派なので、同い年に思えません」

「その背に乗って、おまえはキンタロウごっことやらをやらかしたんだがな。興奮のあまり、俺の背で小便をたれ流した」

「それは……なんと、お詫びすれば……もうしわけありません」

「だから、かしこまらんでいい」

「……ごめんなさい」

 昔の粗相をほじくり返されると、頬が熱くてしかたがない。

 ――夜も更けたので、毛皮にくるまり、目を閉じていると、オニグマが懐中にもぐり込んできた。

 寝返りをうって、潰してしまわないかと心配になる。

〈皇子は、どうしていらっしゃるだろう……〉

 静かな夜は、そればかり考える。

 他国では、王将――国家元首がころころと代わることも多いが、この国は違う。

 内乱がなかったわけではないが、それは元老同士の派閥争いや、新しく迎え入れた他国民の暴動によるものが、ほとんど。

 悪政がなかったわけではないが、代々の皇帝は元老や官吏官僚らと話し合い、最後には善きほうへ導いている。

 ハラルを始祖とする皇帝を革(あらた)めて、得る益が、スヴェンには思い当たらない。

 反逆者には、反逆者なりの正義があるのかも知れない。

 だが、終の盾の一族であるスヴェンにとって、正義は皇帝――マルセル皇子にしかない。

〈……眠らなくては〉

 オニグマを母親の胸に戻し、ふたたび横になって、目を閉じる。

〈終の盾は、私だけだ。最後の一人たる私が、疲労ごときで斃れてしまうわけには、いかない〉


 翌朝。気が緩んだのか、熱を出した。

 ジャンババットの子供たちに何かあってはいけないと、別の横穴に移って休んでいると、外の気配が慌ただしくなった。

 りん、りん、りん、と。鉄の鈴が鳴り、いばりくさった人声が響く。

 封鎖したはずの首都から、逃げ出した子供がいる。

 皇帝を守る霊宝、二生の盾の行方が知れない。

 そのようなことを熊の獣人に、居丈高に話している。

「ねごーやなんぞ、知らん。俺たちに命令できるのは、ハラルの息子だけだ。マルセル自らがここに来るなら、話を聞こう」

 役人の声は、不機嫌そうなそれにさえぎられた。

「そもそも、その鈴の音が、気に食わん。俺たちをベルゼルクルと知っての無礼か。二度目はない。失せろ」

 威嚇のうなり声と、逃げ出す足音を聞いて、スヴェンは全身から力を抜いた。

 体は熱く、耳が遠い。

 微熱にまどろんでいると、横穴に誰かが身をかがめて入ってきた。毛むくじゃらの手が、ひたいを撫でる。

「聞いたな? 根業矢の手先がうろついている。おまえは、もっと休め。間をおいてから、二之旗本まで送ろう」


 結局、熱がひいたのは三日後だった。

「鈴の音は、しない。行くぞ」

 今度は小熊の毛皮を頭からかぶせられ、ジヤンババットの引率で、二之旗本領へ到着した。

 十一年ぶりに訪れたこの地は、すでに春で、薄紅色の花弁が風に舞っている。

 人々は、木と竹と紙でできた家屋に住み、首都では、ほとんど見かけない形の服を着ている。

「熊祖の旦那、買いつけかね?」

 店先で、水をまいていた男が、ジャンババットに声をかけてきた。

 くまそ、というのは、ベルゼルクルのことを指す言葉らしい。

「あっちの薬酒問屋が、おとつい、蜂蜜を出したそうですよ」

「今日は、ヒュウガに用だ」

「そちらは息子さん?」

「友人だ」

「へえ」

 男はうなずき、それ以上の詮索はしてこなかった。

 毛皮ごしに視線を感じたが、不愉快になるほどではない。

「好奇心旺盛だが、野暮は嫌う。そういう連中だ」

 ジャンババットの言葉に、スヴェンはうなずく。

 風に吹かれて歩くうち、散る花の名前を思い出した。

「さくら……桜でしたね、この花」

 母フエが好きだった花。咲いても、散っても美しいから好きだと言っていた。いずれ死ぬなら、潔いほうがよいのだと。

 桜吹雪を眺めながら、石垣を越え、小高い丘の上にある屋敷の前に立った。

 長棒を抱えた門番が、こちらを一目見るなり、頭を下げる。

「熊祖どの、本日は――」

「ヒュウガは、いるか」

「……そちらは?」

「ヒュウガが今、一番会いたいと思っている者だ」

 うながされ、母からの手紙を門番に差し出す。

「フエ、さま……すぐ、すぐに! そのまま、お待ちを」

 門番二人のうち一人が、足早にくぐり戸を抜けていった。

 まもなく大きな門扉が開かれる。

 屋敷に入って靴を脱ぎ、毛皮をあずけて、長い廊下を歩いた。

 奥へ奥へと進むうち、おぼろげな記憶がよみがえる。

 庭先の砂利や石灯籠、池や松林……。自分はたしかにここで生まれ、一年ほど住んでいた。

「スヴェンか、」

 引き戸の向こうへ声をかける前に、その戸が開いた。

 敷居を挟んで、矍(かく)鑠(しやく)たる老人が立っている。

「ご無沙汰しております、おじいさま、」

「生きていたか! そうか、生きていたか!」

 母方の祖父ヒュウガは、こちらの両肩に手をおいたまま、ジャンババットを見上げた。

「熊祖どのが?」

「いや。スヴェンひとりで、ここまでやってきた。俺は途中で会って、手助けしただけだ」

「そうか。一人で、ここまで……」

 ねぎらうように肩腕をさすり、なかへ招く祖父。

 座布団の上、三人そろって、あぐらをかく。

 祖父に乞われて、スヴェンは経緯を話した。

 祖父がいちいちうなずいてくれる。

「フエは終の盾として、まっとうしたか。そうか。あれは昔から、まっすぐ、そのままであったな」

 しばらく沈思していたヒュウガは、深くため息をついた。

「ニコル様の崩御とあって、元老は、五月の一日までに全員上京せよとの通達があったのだ。――たかが百年たらず、ろくに戦えもしなかった根業矢めが、二之旗本のわしを呼びつけよって!」

 祖父は手にしていた扇を、脇息にたたきつける。

「……行くのか?」

「行かんさ、と言いたい所だが、皇子殿下、いや、マルセル陛下の身が、根業矢の手にある以上は」

 話題が話題だけに、スヴェンは祖父ににじり寄った。

「私も連れて行ってください」

「何を馬鹿な。フエが守った孫息子を、」

「母上は、子を思って、逃がしたのではありません。マルセル様の盾を一枚、残したのです」

「………………」

「………………」

「……顔は終の盾だが、目はフエだな。どちらも言い出したら、退かぬ。それが二倍だぞ」

 にらみ合いの結果、祖父は頭を振り、肩をすくめた。

「時間はある。情報次第だ。ひとまず保留にしよう」

「では、スヴェンは置いていく。俺は帰る」

「孫が世話になった。今日は泊まるといい」

「しかし、俺は、何もしていない」

「いや、借りは返す。それが二之旗本だ。酌んでくれ」

「では一晩、世話になる」

 祖父が二度、手を打ち鳴らす。

「熊祖どのがお泊まりだ。閨の準備を。鮭とばと蜂蜜も、たんまりな」

「あい、お館さま」

 引き戸の向こうにいたらしい、女がすかさず返事した。

 立ち去る足音を聞きながら、さてスヴェンと祖父は、母の手紙を開いて床に置く。

「わしは口が堅く、素性たしかな者しか身近におかぬが、かといって気を抜いてはいない。状況を鑑みるに、フエの書きつけ通り、今しばらくは孫としてあつかわぬ」

「終の盾にも下男はおりましたが、座学や修行に差し支えない程度の家事、雑務も少しはできます」

 皇帝の一族のそばにあって、つかえるのが終の盾。

 不自由な戦場でも、皇帝につくすため、野営準備から獣肉のさばき方、食用植物の見分け方、簡単な応急処置方法も大叔父から、たたき込まれている。

「そうだな。薪割りや風呂の炊き方は知っているか? その手伝いをさせる。それ以外の時間は、剣道場に通え。終の盾と型はちがうが、それも勉強になるだろう」

「ありがとうございます、お館さま」

「孫に……。なにやら妙な具合だな。しかし、たがいに慣れるしかない」

 祖父は嘆息した。息を吐くと同時、体が一回り小さく縮んだように見えた。


 下男として勤める日々が始まった。

 すっかりオニグマになつかれてしまい、ジャンババットが頻繁に子連れでやって来るので、手のかかる子守に雑務にと忙しい毎日だ。

 また母方の伯父リョウの娘たちは小柄なくせ、武術をたしなむ者もいて、薙刀相手に竹刀を振るう日もあった。女相手に戦ったことがなかったので、ひどく気を遣う羽目になり、気疲れから従姉より先にへばりもした。

 おかげで鬱々とした時間は減り、少しずつ気力を取り戻している。

 やがて四月も半ばを過ぎ、上京する日がやって来た。

 同行するなら坊主頭にしてみせろというので、迷うことなく剃髪すると、祖父はもう何も言わなかった。

 僧侶の着る袈裟なるものをまとい、笠をかぶり、仕込み杖の錫杖を手に歩く。少し前に、祖父の乗った牛車がのろのろと動いている。この速度なら、歩く程度だ、おいて行かれることもない。

 騎士相当の存在である武士七人が騎乗した状態で、前後を固めている。

 他に、身の回りの世話をする女官が二人ついてきた。

 牛車と馬と徒歩の旅は順調だったが、首都が近づくにつれ、空に暗雲がたちこめ、治安は悪くなってゆく。

 目的地に到着して、スヴェンは唖然とした。

 美しく整っていた首都は一ヶ月で、廃墟と化していた。

 民家の多くが崩れ、焼け焦げ、人々は無気力に路上に横たわっている。

 街壁の上には根業矢の旗が立てられ、その下には絞首死体がぶら下がっている。

 死体のひとつに何やら見覚えがあった。あれは白宮殿で、案内をしてくれた文官だ。首には縄の他、大きな木彫り細工の首飾りがついている。

 甲高い悲鳴をあげて、一行の前を半裸の女が駆け抜けた。それを複数の男たちが追う。そろいの軍服を着て、根業矢麾下であることを示す腕章をつけている。

「斬れ、斬り捨てろ!」

 御簾を上げて、ヒュウガが飛び出し、武士に命じた。

「かまわん、そやつら全員たたっ斬れ! わしの命ぞ!」

 まもなく男たちは息絶えたが、野次馬のひとりも来ない。

「……馬鹿が天下をとるから、こうなる」

 祖父は静かに嘆いた。女官二人が脅えるので、それをなだめている。

 死体の山をよけ、牛車は先へ進む。

 ようやく見つけた宿は建物こそ無傷だが、女将は疲れきった顔をしていた。金銭でなく、食料や日用品を宿泊費代わりに欲しいという。

 口の重い女将をなだめすかし、また武装をといた武士たちが町中で情報をかき集める。

 根業矢の元老らが、富の平均分配や、私的財産罪とやらを叫んで、首都の民から、ありとあらゆるものを強制供出させたそうだ。そして戻ってきた金品は、百分の一たらず。

 根業矢のやり方を少しでも批判すれば、私兵に捕縛され、男はなます切りか絞首刑。女は嬲りものになる。

 逃げだそうにも出入りの制限が厳しく、人間を害獣に見立てた狩りすら行われる。

 また落雷による火事、雹害がたびたび起きて、街は瓦礫の山になっていった。これは殺されたニコル帝のたたりだという。

 そして――

「皇帝家に伝わる宝物を外国に売り飛ばしただと?」

 武士からの報告に、祖父は顔色を変え、宿の机を叩いた。

「すべてか? 我々が献上した霊宝や調度品もか?」

「宝物を売りさばき、諸外国からの対戦を回避しているとか、皇帝が公費で収集したものを民に還元しているだとか、」

「白宮殿にある物は、代々の元老が献上したものだ! 我らの忠心、それを売り飛ばしたのか!」

「お館さま、お声が――」

「そも霊宝武具を外国に売り飛ばす奴があるか! 街ひとつ、一昼夜で滅ぼす兵器が、いずれ我々に対して使われるのだぞ!」

 ヒュウガは吠えた。

「我々が皇帝家に従うのは、あの方々が危険な霊宝武具を管理し、世に流出させない管理者でもあったからだ! その守護者であるべき元老が……あの売国奴ども! 絶対にゆるさん」

 とうとう椅子を蹴り、祖父は立ちあがった。

「ベン、首都には詳しいな? おまえに武士二人つける。今すぐ馬を一頭、買い取れ。体重のかるい者の馬には、女官も乗せろ。牛と車は、代金がわりにここへ置いていく」

 次々に指示を飛ばして祖父は、荷物のなかにあった鎧をまとい、鉢金をひたいにつけた。太刀を佩き、弓を張り、えびらを取る。

「わしらの祖先は、根業矢に降(くだ)ったのではない! 皇帝に降ったのだ! 今日にも、それを思い出させてやる!」

 力強い言葉を聞きながら、スヴェンは護衛の武士とともに街へ出かけた。

 ――スヴェンは馬の調達がてら、終の盾の屋敷、その焼け跡を見てしまった。

 瓦礫から飛び出してきた小犬が、ごちそうとばかりに人骨をかみ砕いている。

「っ……くそっ!」

 ついにスヴェンは吐き捨て、仕込み杖に手をかける。

「……にーちゃん、待って」

 折れた門柱に寄りかかっていた子供が、とことこと近寄り、スヴェンに声をかけてきた。

「これ、あげる。だから、わんこ、いじめないで」

 薄汚れた小さな壺を差し出され、スヴェンは口をへの字に曲げる。

「かーちゃんがね、ここに、にーちゃんとおなじくらいの、にーちゃんがきたら、つぼ、あげなさいって」

「え?」

「盾のおほね、ひろって、とーちゃん、殺されたの」

「……きみ、もしかして」

「盾のにーちゃんの代わりなの、うちのにーちゃん。でも盾のひと、みんな、いいひとだからって、かーちゃんも、とーちゃんも、にーちゃんも、」

 声をひそめ、子供は熱心に訴えた。

「あのね。まえ、あたしが風邪ひいたら、盾のおくさま、おくすりとおかし、くれたの。あたし生きてるの、盾のおくさまの、おかげなの」

「母上が……」

「盾のにーちゃん。悪いひと、やっつけてね。おーじさまと、おひめさま、たすけてね」

「ありがとう……。……きみ、これから、どうするつもりですか? もし身寄りがないのなら、」

「あたし、どこにも行かないよ」

 子供は、人骨を食らう犬のそばにうずくまり、その頭を撫でた。

「かーちゃんもね、悪いひとにつかまったの。もどってくるまで、あたし、どこにも行かない」

「しかし、こんなところでは、」

「悪いひとにつかまったら、男はしばりくびだけど、女はごーかん終わったら、かえしてもらえるんだって。だから、かえってくるまで、あたし、待つんだ」

 スヴェンの招きは、きっぱりと断られた。

 その場から、しばらく動けなかった。子供の依怙地さが、うらやましくも思えた。

 護衛の武士にうながされ、ようやく背を向ける。骨壺を抱き、足を無理やり動かす。

 やせ馬をひいた武士もまた心苦しそうだった。

「……たった一ヶ月で……」

 二千年もの栄華を誇った首都は、もう見る影もない。

 空は曇天で、分厚い雲は日の光をさえぎっている。

「――ス……ベン」

 とぼとぼと宿に戻ると、すべての準備を終えたらしい祖父に声をかけられた。

「おやかた、さま」

 どうにも視線が上がらない。祖父の顔を見るのが難しい。

「……馬は?」

「いいのが、なくて。申しわけございません」

「おまえが一番、体重がかるい。今は、それを使え。途中の街に、良いのがいれば、換えるのだ」

「お館さまは、」

 いらん、と祖父は答える。

「娘は、先に死んだ。親のわしより早くな。今さら何を出し惜しみするか。――おまえたち、絶対に振り返るな。この小僧を無事に二之旗本へ戻し、リョウを次の元老とせよ」


 老いた鎧武者が、若い武士一人を連れて、目抜き通りを行く。

 スヴェンは馬上で、その背を見つめた。

 白宮殿の城門高く。皇帝家の旗より上の位置に、根業矢の旗がひるがえっている。

 老人は、武士に火矢を用意させ、それを自分の弓で飛ばした。

 ひとつ。火矢は易々と根業矢の旗を燃やし始める。

 ふたつ。続けて放たれた矢は、旗竿を真っ二つにし、根業矢の旗を切り離した。

 みっつ。かぶら矢で、さらに根業矢の旗をはじき飛ばし、地に落とす。

「これが、わしら二之旗本の答えだ! 根業矢ごときが、皇帝陛下よりも上に立とうというのなら、今この時より、二之旗本は造反する!」

 どこから出たかと思うほどの大音声で、ヒュウガは宣言した。

「皇帝の威を借るならば、それなりの治世をせいよ! 根業矢ぁ!」

「――お館さまの背、目に焼きつけましたな? さあ、駆けますよ」

 たいまつの火を消して、こちらへ戻ってきた武士が、スヴェンの馬首を返させる。

「しかし、」

「御身を以て、二之旗本の民を鼓舞するとのことです」

 つまり命を捨てての足止めということだ。あの時、母や下男がしてくれたように。

〈またか! また逃げ出すのか、私は! 大事なものを置き去りに、ここから、また!〉

「――盾の若、ご免つかまつる!」

 他の武士が、迷うスヴェンの馬を蹴った。

 やせ馬は驚き、疾走する。

「……おじいさま!」

 最後に一度、ヒュウガを祖父と呼んだ。耳に届かなくても、これが最後だ、最後に呼んでおきたかった。

 白昼堂々の造反宣告に、怠惰な根業矢の私兵も無視できなかったようだ。

 背後に剣戟、怒声が響く。

 悪路を抜け、首都脱出をはかる。

 視界のはし、見覚えのある子供の姿があった。

 子供は血を流して息絶えており、死肉を狙う鴉どもを、あの犬が追い払っている。

〈野犬でさえ、恩を感じて、ああしているというのに……私は……〉

 町中の騒ぎに、門扉は閉じられようとしていたが、武士たちが槍と弓矢で門番を突き殺した。

「この門、しばらく閉じぬぞ! 志あるなら、自ら二之旗本に駆けて参れ! 我ら、根業矢に反する者ぞ!」

 しんがりの武者が馬を止め、うつろな人々に呼びかける。

 証とばかりに矢を放ち、外壁上の根業矢の旗を射貫く。


 ――この後、馬を使い潰して日数を縮め、一行は二之旗本領へ帰還した。

 事の顛末を報告すると、伯父のリョウは静かにうなずいた。予感していた、覚悟していたという。

 まもなく二之旗本の元老リョウは、皇帝、皇后両陛下を殺害したのは根業矢であり、これに対抗し、交戦するとの檄文を発した。

 隣接する元老領、弓手司(ゆんでつかさ)および馬(ま)鞍(くら)戸(ど)が、二之旗本の動きに同調。

 根業矢に与した他の元老は、その内部で発生した利権争いにより足並みが揃わず、二之旗本、弓手司、馬鞍戸の三元老の反乱を鎮めることは出来なかった。

 そして、ヨルムンガンドという国は、十二年の内戦状態に突入したのである。

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