トゥルーブルーロジック(12)

 翌日一番の汽車で、バーナビー母子が戻った。


 前日と同様送迎の馬車を駆ったオグデンは、あっという間に仕事が済んで大助かりだと言って帰っていった。メイドから若さまから老夫婦まで、競って荷物おろしを手伝ったのだ。

 トランクが積まれた玄関ホールで、レオニーは引き合わせを待つ令嬢のようにさがった。

 バーナビー卿が紹介の口火を切った。

「ひとつだけ条件があるそうだ。お前に自分のフルネームを言ってほしいと、そう言っとる」

「分かりました」

 デレクは二つの洗礼名と輝かしき家名に、爵位継承者としての称号を載せた正式の名乗りを、心を込めて唱えた。

 ひらけゴマの呪文に城門は開かず、レオニーはデレクを突き飛ばした。

「本名教えなさいって言ってんの、嘘つき!」

「レオニー?」

「馬鹿にして。三文小説にしたって野暮な設定よ、落ちぶれた子爵さまだなんて……」

 レオニーは振りほどこうともがいたが、デレクは細い手首を離さなかった。

 節のしっかりした長い指が青インクで汚れている。空白の頭でデレクは「あ、こりゃいいサムシング・ブルー」と呟き、違う違うと首を振り、当面の急務にかかった。

「お父さん、筆談の紙を全部見せて! 彼女に何て言ったんですか!」



 居間のソファーに青インクの書類がぶちまけられた。

「ここだ」

 バーナビー卿が文面を叩く。

「お前をまともな勤め人にするということで、愉快にまとまったはずなんだが」

「全然通じてませんよ。愉快どころかすごく怒ってる」

 ひそひそ話から顔を上げる。お茶のワゴンを従えたレオニーはきりりと親子をにらんでおり、デレクはフランス語で言ってみた。

「僕を嘘つきって呼んだね?」

「イエス、マイロード」

 レオニーは挑戦的に頭をそびやかした。

「やらかして地元にいられなくなった流れ者が、大層なニセの身分を吹聴してる。新世界にはそういうのが掃いて捨てるほどおりますわ」

「新世界が何? もっとゆっくりしゃべってくれないか」

「はん、新世界。わしらどこかでそんな話をしたぞ」

 新世界、新世界と用箋を漁る。デレクも覗いて眉をしかめた。

「暗号だなこりゃ。どうしてこんなに細切れなんです」

「よく使う単語を省略していくうちにこうなった」

「だから誤解が起こるんですよ。レオニー、新世界がどうしたんだ?」

 レオニーはむっつりと茶器を置いた。

「新世界。知り合いのいない土地。何だって騙り放題なのよ。独身か既婚かなんて序の口。いかがわしい劇場街にご自分は何の用事があったのか、はっきり言えない寮長先生の弱みに付け込んで、浮気相手を女優の卵に仕立ててみせたりするの。決して太らない食事を作れるなんて売り込んだりね。そんで看板女優さまがヘソを曲げりゃ、途端に保身に走るんだわ!」

 デレクはまぶしい目で額の髪をかき上げた。

「レオニー、手掛かりをくれ……」

「怒っとるんだ。相当な」

 メイドを囲む男たちを遠目に、子爵夫人は女主人然と座っていた。

 ワゴンを引き寄せ、ティーポットを取ってカップに注ぐ。

 出てきたただのお湯にぎょっとしてから、慌てず騒がず茶葉を探しに台所へ向かった。

「見つけた、これだこれだ」

 卿がほらと用箋を突き出し、デレクは押し返した。

「こんな暗号分かりませんよ。読むのは得意じゃないし」

 卿は読書鏡をずり上げて仏文の断片を追った。

「新世界の貴族仲間にゃ気をつけろという話をしたんだ。皆同類に飢えているから、ひとたび称号持ちが街にいるとなれば、疫病病みのデマみたいにパッと広まる。気取った奴らが『花嫁さんのフィニッシングスクール(※良家の子女が教育の仕上げをする)はどちら』なんて言ってくるだろうが、あんたこらえてくれるかねと訊ねたら、にんまり笑って心得たと、いい具合の湯たんぽを入れてくれて」

「寝かしつけられたんですよ。ふざけた軽口と思ったんだな」

 デレクはレオニーに向き直った。

「嘘ってこれかい?」

 デレクが紙を差し出すと、レオニーはある単語に指を置いた。デレクはふにゃふにゃして眠そうな父親の筆跡に目をすがめた。

「しょう……称号……持ち。レオニー、こいつは嘘でも冗談でもない。誓って本当の本気だ」

 天に向かって立てたデレクの指を見つめ、レオニーは「だって」と息を吐いた。

「普通信じないわよ。宮殿に専用の席があるなんて言われても」

「ウェストミンスターだよ」

 デレクは雑な窓拭きのようにばたばたと両手を振った。

「バッキンガムじゃない。ウェストミンスター宮殿。英国議会の議事堂なんだ。今となっては登院もできない名ばかりの貴族院議員だけど、議席を持ってる。ウェストミンスターのほうだよ」

 あまり連呼するので、「ウェストミンスターのほう」を付け足すのが通常の笑いどころなのだと、レオニーにも分かった。

「王さまになれるって話は?」

「本当だ。母さんより上位の継承権保持者を、二百人から始末すればの話」

「殺しは好かないわね。王冠に血は付き物でしょうけど」

 そう言って現れた卿夫人は、布巾で丁寧に包んだポットを抱えている。

「冷めました、すみません」

 レオニーが英語で言うと、夫人は優しくまばたきした。

「ついでにちょっと濃くしたのよ。みんな疲れたでしょうから」

「もらいましょう、お母さん」

 デレクがポットを受け取り、母親を座らせる。

「もう少し蒸らしとこう。それでと……、フルネームが条件なんて言ったのはどうして?」

 レオニーはカップを並べながらため息を吐いた。

「ほんとの正体を教えてくれたら、どんなでっち上げにも付き合おうって決めたのよ。お貴族さまとか上流人士とか、都会で張りたい見栄もあるのかなって」

「共犯覚悟か。ありがたい。その三文小説ばりの設定が僕らの正体だったわけだけど、それはどう」

「分からないことだらけよ。冗談口じゃないほんとのとこを、その都度言ってもらえれば何とか……」

「レオニー、黒い瞳のお嬢さん、ベッドに誘って断られてから、君に夢中だ。どうか僕を憐れと思って、一緒になってくれないか」

 レオニーは後ずさっているうちにソファーに当たり、倒れるように座った。

「そんな……、ズラズラ並べられたって知らないわよ!」

「だが僕の片言じゃどうも大づかみになるから。ひとまず手当たり次第」

「人もいるのにそんなこと言えちゃうなんて、どっかおかしいんじゃない?」

「人って、彼らフランス語は分からないよ……え?」

 デレクはぎくりとして見回した。両親ともに、壁や窓に気を取られた風を装っている。レオニーはうつむいてクッションにすがった。

「あなたの英語くさい発音なら、理解してらっしゃるってば……。新世界がどうとか、王位継承権とか、あなたを通すと会話がつながったでしょ」

「ああ、うん、そっか」

 デレクはよろよろと背を向け、ティーワゴンに覆いかぶさった。

 一方夫人は落ち着き払っていた。散らばった用箋を集め、顔も上げられないレオニーに差し出す。

「私も読めないのよ。一生懸命話し合ってくれたのね。こんなにたくさん」

 ゆっくり話す夫人の英語は大方伝わり、レオニーは紙束を受け取った。

「偉そうなことを言っています、この女。恥ずかしい」

 使える範囲の英語ではとても気持ちに追いつかず、母国語による罵りが混じった。

「何さまのつもりかしら。文句のつけようがないじゃないの。無理じいする男じゃなくて、ちゃんと結婚させようって親がいて」

 レオニーは勢いよくめくった。

「……結婚が解決になりますか。何つっぱってんの。……とてもつとまりません。んなこた分かってるわよ。……嘘つかれるのはご免。自分はどうよ、ひとつも嘘をつかずにきた?」

 夫人は困惑して夫を見た。バーナビー卿は片手を振った。

「好きにしゃべらせてやるといい。ああやって頭を整理しとるんだ」

「どなたがややこしくしたんでしたっけ?」

 なじる語調を察し、レオニーは英語の語彙をかき集めた。

「あー、ふざけた大ボラのほうが、ずっと素敵です。言ったそばから人は警戒できるもの。小さい嘘はかえって罪が大きいわ。どっかで歯車がきしみ始めても、軸受けがぶっ壊れるまで誰も気づけないでしょう。そんな道理も分からずに、何かあるたびうまい言い訳に逃げたのは寸劇作家じゃない、あたしの罪」

 途中からはフランス語しか出なくなって諦め、レオニーはインクに汚れた紙束を抱き締めた。

 さかのぼれば、夢に向かってしのぎを削る娘たちの神聖な劇場を、勝手な都合で利用した。猫ずきの尼僧には環境の犠牲者のようにふるまい、交換手の女たちには一途な恋に破れたように同情を買った。上手にふりだけ真似ることで、真面目に生きている人をコケにしたのだ。

「あのときは物陰で嫌なことされたんじゃなく、なんか素敵なロマンスだったって思い込みたいばっかりにね。モントリオールに出てきた途端に間違いだって分かったけど。そこで素直に負けを認めりゃよかったの。結婚してることくらい分かってたわなんて世慣れたふりしたのよ。馬鹿みたいに街まで追っかけてきたなんて、言えないもおん」

 しゃくりあげる顔をぬぐいながら、夫人は息子を一瞥した。

「どうなの、ひと言ぐらい分からない?」

 デレクはお手上げと両手を見せた。

「早口ですし、馴染みのない用法ばかりで。こっちの俗語かな。ミュージックホールの口上係がこんな感じでしゃべりますね」

「お前が付き合っとったのは古典専門の女優だからなあ」

「そう。だから僕のフランス語は片言のくせにやけにお堅い。それ今言うことですか」

 卿は確かにと鼻をこすった。

「誰の語彙も標準ではないんだ。まともな通訳なしにはとても無理だぞ。そうだデレク、村から筆談じゃないやつを連れといで」

「そうね」

 夫人も身を乗り出す。

「あなたも行きなさい、レオニー。デレクがオグデンと口裏を合わせないよう、見張ってなくちゃならないでしょう」

 レオニーはぽかんと一家を見比べた。

「あたし別にそこまで疑ってませんから……」

「お行きなさい」

 それは密室でないどこか屋外で、二人でいっぺん話し合えという意味だった。

 いつまでたっても村への道を折れないデレクと湖畔をぐるぐる歩くうち、レオニーも暗号を理解した。


「黒幕がたの言うことったら……」

 夫人に借りたカシミヤのショールを掻い込み、レオニーが白い息を吐くと、デレクがちらりと振り向いた。

「レオニー?」

 ポケットから何かを出しかけていたデレクは、凍った泥につまづいた。

「うわあ! うわあ!」

「大げさね、ひねったくらいで」

 レオニーは飛びついてデレクの長身を支えたが、デレクは足をひきずる様子もなく元気に駆けた。

「落ちた! 落ちた!」

 両手を突き出しながら、レオニーもろとも氷上へ下りる。

「デレク、何を落としたの?」

「最後のひとつなのに! 十年は暮らせる……、全く見失った、遠くへ転がったかな、小さい割れ目に落ちたかも……」

 すっかり取り乱したデレクはしきりに湖面を窺ったが、誰かが湖畔をやってくると、しゃんと立って顔を決めた。

「やあ。ちっとも雪にならないねえ」

「スケートかね、バーナビーさま。ここのは悪い氷ですだよ」

「うん、緩んだり凍ったりを繰り返したんだな。表面がガタガタだ」

「くぼ地の大池にしなせえ。鏡みたいにきれいに張ったもんで、若い衆は皆あっちへ行きますわい」

「共同回線情報だね。親切にありがとう」

「……わけを話して手伝ってもらえばいいのに」

 結局、短い冬の日が傾くまで氷の上を這い回ってから、デレクはダイヤの粒を落としたのだと白状した。

「何の装具もない裸石だから、氷と見分けがつかないようだ……」

 うなだれているデレクの耳を、レオニーは両手で覆った。寒さでせわしなく足踏みする。

「ダイヤモンド、あたしにくれるつもりだったの?」

「や、違う。ごめん……この程度の蓄えはあるっていう、安心材料かな。まるでもぐり賭博の見せ金だ」

「言い得て妙ね。情緒はないけど」

 デレクは蒼白で笑い、顔の両側のレオニーの手に自分の手を重ねた。力を込めて、震えを抑える。

「情緒は大事にしとけという教訓だな。たて爪台座でも付けてりゃ、どこへ落としたって見つけられた」

「それか、氷がもう少し滑らかだったらよかったわ。鏡みたいに均一ならきっと」

「スケートに繰り出した若い衆が、どこまでも蹴って行ったろうね」

 引きつけたように笑いながら、凍える手をさすり合った。この非常時、必死の軽口に付き合うということは、バーナビーの伝統を受け入れたってことになりますよ、なりますねと、言語以前のやり取りが往復し、デレクはショールでレオニーをしっかり包んだ。

「年寄り二人には内緒にしといてくれないか。頼みのダイヤがもうないなんて、心臓が止まってしまう」

「それだっていつかあっさり見抜かれちゃうんじゃない?」

「自力で看破させてやるといくぶん蘇生が早いんだ」

 レオニーはかくんと仰向いた。空が広い。

「やれやれ、難しいお芝居ね」

「演劇解釈としては古典的だよ。役者と客は虚偽を挟んで共犯関係にある」

「この場合どっちがお客?」

「えーと金を払うほう? いや、ひとまずは総員すっからかんだが」

 かすれた声が冬空に響いた。降る気もない薄い雲が、だんだらのオレンジに染まっている。

「夕焼けは羊飼いの喜び」

 デレクが呟き、レオニーは首をかしげた。

「牛飼いじゃなくて?」

「どちらでも。翌日晴れるって意味の諺だよ。羊飼いも牛飼いも、明日は働けってことさ!」

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