トゥルーブルーロジック(10)

「名案だ、賛成だ、断然それだ」

 卿は跳ねまわる書体で『ウィ! ウィ!』と書いた。レオニーは紙を引き寄せた。

『通訳はしてもらうけど、洒落も格言も一切なしよ。あたしたちにしゃべらせて』

「もちろんだ。最後は本人同士だ」

『メイドと所帯を持つのがよほど嫌なら、プライドなんか捨てて令嬢に養ってもらうがいいわ。あたしは素敵なお妾さんになって、ダイヤをもらうから』

「そうしよう、そうしよう」

 レオニーはやれやれと肘を付いた。卿は終始小鼻をぷくぷくさせていて、表情はどう見ても「いいぞ、バーナビーのやり方を心得てきたな」と言っている。

 対等ぶった取り引きなど、ほんの言葉遊びにすぎないのだ。

『我ら夫婦が最後の保険、ダイヤは決して渡さぬぞ。そなたには必ず主婦へと身を落としてもらう』

『奥さんになってメイドを雇って、あらやだ、その娘が家の隅っこで誰かとこそこそし始めたらどうしよう?』

『年増を雇うべし。このだだっ広い家は引き払うゆえ、近代設備整うトロントなれば住み込みメイドの仕事量にもあらず、通いで間に合おう。そなた女主人として年かさの雇い人を使えるか。元メイドと侮らることなかれ』

「待って待って。引っ越しは本当なの冗談なの、どっち」

 レオニーは用箋をさかのぼった。卿の長文は絶好調で文意はますます明瞭だが、どの単語にも裏の含みがあるような気がしてくる。

「本気と冗談はどうやって見分けるの。見分けるつもりなんてそもそもないの」

 口の中で呟くばかりのレオニーに、卿はペンを押しつけた。

「書いてくれねば分からんよ」

「伝わってるのかどうかも分からないのに……何を言えばいいの」

 バーナビーたちの軽口が密かな失意を核にしていることは、レオニーにも分かった。そこにあると認めたくもない劣等意識をおふざけにまぶしてこね、パンだねみたいに膨らましてしまうのだ。やりすぎれば足元を見失うが、冗談と本気の境を忘れることにはそれなりの利点があった。心に秘めたどんな夢想も、冗談のふりなら口にできる。

『黒幕のお指図には従いますけどね』

 レオニーは精一杯軽口らしくペンを走らせた。

『デレクにも彼なりの計画があったかもしれないのよ。そしてそっちのほうがずっと素敵な提案だったかもしれないわ。あなたが台無しにしたんだから、そこ忘れないでよね』

「素敵な提案?」

「言うところのハッピーエンディングってやつよ」

「二人が微笑むと愛が空中にあふれ、永遠に幸せに暮らしましたとさ……? 請け合おう。そんなものはない」

「あら」

 卿は大文字を巻きヒゲで飾り、のびやかに書いた。

『あのぼんくらは分かっていない。家庭の雇い人と家庭で睦みあうかぎり、それは支配関係である』

 そうだ。夜中にデレクが忍んで来れば拒まなかったかもしれない。時機を見て結婚をねだれば叶ったかもしれない。しかしどんなに純愛らしく振舞ったところで、立場の弱さから言いなりになったという、冷たいものを抱えていくことにはなるだろう。始めをかけ違ったばっかりに。

「また弱気か。しゃんとせい、しゃんと」

 急き立てられて、レオニーはのろのろとペンを取った。

『私たちに、どうすべきだとおっしゃるの』

『おっしゃることは何もない。余計な茶々は控えると決めた』

 レオニーは空気が抜けるように笑った。

「それは明日、メンツが揃ってからでいいわ。今のうちにたんとうまいことおっしゃいな」

「ではどうすべきでないかだけ、言わせてもらうとしよう」

「あーあ、また大文字をくるくる巻いちゃって」

 頭を寄せてのぞきこむ紙の上に、文字が躍った。

『入り口を間違うと、上席には案内されない』

「晩餐に招待されたら玄関を訪ねるもんだ。知り合いだからって庭のポーチからぶらぶら入るのはルールに反する。分かるかね?」

 レオニーは瞬きして首を振った。

「子爵ご夫妻のご到着と称号を読み上げさせてやるんだよ。交友を世間に知らせる手順さ」

 人を介して行儀よく知り合う男女のように、二人を引き合わせようというのだ。

「貴族の知り合いを自慢したいってなら分かるけど……あたしなんかとの交友をお知らせしたって世間は喜びますかね」

「また混ぜっ返しとるな。人がうまいこと言うと、切り返さずにおれんのかねこの娘は……」

 無理して上席につかなくたって、食事ができればそれでいい。そもそも上席って何だ。具体的に。庶民より上だと威張ること、銀行で金を借りられること?

 修辞をいじり回すのにも疲れ、レオニーは用箋を押しやった。

 まだまだやる気の卿がペンを取った。

『異論あらば。いかようにも受けて立つ』

「うまいことの言い合いじゃ負けますわ」

 諧謔、反語、韜晦、あらゆる弁舌に通じていても、愛の言葉など死んだって言わない人たちだろう。軽口にときおり感情の切れ端を見出せたら、それで満足すべきなのだろう。欲を言っては切りがないのだ。レオニーは武器を取らず、卿がまた書いた。

『余の仕事はこれまで。そなたらを、きちんと入り口に立たせた』

「そうね」

『そなたの仕事はあっちで煮立っているが』

 ストーブでぶじぶじいう音に気づき、レオニーは慌てて立った。チーズが激しく沸き立った大皿を火からはずす。

 卿は最後のひとかけを口に放り込み、難しい顔でペンを取った。

『家計の逼迫、そなたにも責任の一端あり。安手の芋・豆など工夫し整えるよきコックなれど、気でも違ったかというほどにバターを使う。クリームも』

「何ですって」

 レオニーはつかんだナイフをチラつかせた。

「英国人に言われたくないわね。お代わり?」

 卿はこくんとうなずき、大皿の端っこを指さした。レオニーはよく焼けてカリカリになったところを切り分けた。

「これがべらぼうに旨いからかなわん」

 さくりとフォークを入れた卿はにんまりしていて、これは書いてもらわなくても分かった。レオニーはふと、バターやクリームへの非難は軽口の前段だったと腑に落ちた。

 もぐもぐする人と視線を交わせば、即興劇の片棒を担がされた気分だ。昔、早口で冗談ずきの雇い主につい道を誤ったメイドがいたというのも、分かる気がした。

「奥さまは大変だったろうな」

 若いレオニーにはそれ以上想像がつかず、思い浮かべる人物像はもう少し背が高く、もう少しはっきりしゃべるバーナビーの姿になって、湖の小道を歩いていた。

 台所に立ったレオニーが「なんにもない」と騒いだ日のことだ。これっぽっちじゃ小さいスフレがやっとだと二日分を使い切ってみせた「小さいスフレ」が、しみったれの当主をして食費枠の増額に踏み切らせた。レオニーは若さまと連れ立って出かけ、村の商店を巡った。

 配達量の倍加を交渉しようにも、すでに商売人たちの好意は限界まで活用され尽くしているとのことだったが、雑貨屋オグデンは新聞に写真が載った王侯絡みの小話に引き込まれているうちに、卵売りは家畜病の新薬に関する講義を受けているうちに、搾乳小屋のかみさんはバター鍋にへたり込んで大笑いさせられているうちに、たまったツケのことはもうしばらく忘れていようと、口を揃えて請け合うことになった。

 ひとつ交渉を終えるごとに、デレクは今のやり取りのどこがどう工夫になっているか、いちいちレオニーに説明した。身振りが頼りの片言ではジョークの構造が過不足なく伝わることなどただの一度もなかったが、買い物を終えて戻ってからも、レオニーはぷうっと吹き出す笑いの発作を引きずった。子供の頃から見慣れた手口がこうも有効かと若さまが自信を深めたのも無理はない。

「どうぞ」

 卿がパパンと丸椅子を叩いた。ぼんやり立っているレオニーが同席を遠慮しているように見えたらしい。

「ヨアグレイス(閣下)」

 レオニーはちょんと片足を引いてから座った。

 卿は眉をぴくりとさせてナイフを取り、客人にするようにキッシュを切り分けた。

「その呼びかけは、子爵位には不適当なんだがね。あんたらにはどうでもいいことだろうが」

 深々とため息して、自分にも小さいひと切れを切る。

「村の衆にも大雑把で構わんとは言っとるが、オグデンなぞたまにヨアハイネス(陛下)だの言いおるし、敬意として受け入れはするが、馬鹿にされとるんでないかと時々」

『あたし、嘘つかれるんでなきゃいいわ。嘘だけはご免よ』

 レオニーは決然と書き、重要署名のように末尾を払った。「むん」とうなずいて、卿は下段に続けた。

『バーナビーは嘘はつかない。誤解を訂正せずにおくことはあるが』

「そこが問題なんだってば。何がほんとか分かんないじゃない。やめやめ!」

 書いては読みの往復がまた始まりそうで、レオニーは威嚇するようにフォークを自分の皿に突き立てた。

「うんざりよ。こっちは腹ペコなの」

「そうだ。食おう食おう」

 卿はそう言って万年筆のキャップを締め、なぜか大皿のキッシュにぐさりと立てた。

 呆気にとられているレオニーに、卿はここからここまでと指で示した。

「ペンのとこまで食うあいだは休戦」

「ベリーグッド、マイロード」

 かしこまりましたという召使いの定型句を、座ったままのレオニーは小腰もかがめず言ったので、卿がへえと頭を垂れるとすっかり立場が入れ替わり、「機転を褒めてつかわす」みたいな響きになった。

 レオニーは天井を仰いだ。

「もうやだ、何でも駄洒落にされる……」

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