トゥルーブルーロジック(11)

 静かな台所。

 ストーブでは石炭がカンカン熾り、ようやく食事にありついたレオニーが黙々と食べるかたわらで、バーナビー卿は万年筆からチーズをぬぐっていた。

「落ちない……」

 灯りに向けてペンをかざす。つやつやした黒いキャップには、キッシュの厚みがくっきりうつっていた。

「銀磨きでもダメでした? ツヤ出し剤も?」

 レオニーはたくさんある磨き粉を指さした。卿はどれにも首を振り、キャップのクリップ部を愛おしげになでた。

 優美な銀のクリップは細部までピカピカになっている。狭い隙間にフォーク磨きピックが活躍したのだ。しかし軸材の黒いエボナイトは熱で変質しており、がんこな曇りが居座っていた。

「ああ……」

「脂ですしね」

「はうあ……」

「食べ物でふざけるからですよ」

 レオニーは小気味がよくてむしゃむしゃ食べた。

「人をギョッとさせてばかりいるといつかひどい目に遭うって教訓でしょうよ」

「反省せんといかんなあ」

 卿は染み浮かしの缶を裏返し、未練たらしく効能書きを眺めている。文房具の手入れに関する文言はどこにもなかった。溶けたチーズに気をつけろという注意書きも。

「以前はああいう大振りがウケたんだ。どんな晩餐でも、あんな煮立った食べ物は出んかったし」

 言い訳らしい抑揚に、レオニーは軽く頭を振ってみせた。

「冗談口からはそろそろ足を洗ったらどうです」

「庶民の中へ入るなら、改めるべきだなあ」

 何となく通じる呼吸があり、顔を見合わせる。

「その場限りの道化口上なんて、寸劇役者に任せとくもんですよ……」

「誰も本気で笑っとったわけじゃない。宴会が締まりゃいいんでな……」

 慎重に語感を読み合ったあと、やはり互いに肩をすくめた。

 レオニーはフォークで次のひと口を削った。

「大ボラにもほどがあると思うわ。たどれば王位だって請求できるとか、宮殿に専用の席があるとか」

「皆退屈しとったんだ。だるい宴会か、人生にな。道化を買って出る有志ボランティアは歓迎されたもんさ」

 卿は背中を丸め、まだ小布でペンをこすっている。

「ここらの衆は爵位称号に疎くて、もひとつ手ごたえに乏しいが……。そもそも厭世や気鬱に縁がないのだろう。羨ましいことだよ」

 呟きながら卿がキャップをはずし、いざいざと軸側にはめたので、レオニーは山から新しい紙を引き抜いた。

 卿は白紙を断った。じりじりと持ち手をずらし、書く仕草をいくつか試している。レオニーも真似て、フォークをペンのように持ってみた。

「持ち方工夫すれば手で隠せやしないかって? 無理ですよ。お尻にはめたキャップのそのまた端だもの」

 最後は二人とも魔法の杖をつまんで振るようになった。卿はしょんぼりとキャップを戻した。

「何かに似てると思ったらこの感じ、猫だわ」

 笑い出しそうになりながら、レオニーは大口で頬張った。

「普段分かるのはお腹の空き具合とかだけなのに、このバケツがギラギラしてやなんだなとか、細かいことがパッと分かるときがあるのよね」

 独白のまま、皿に目を落とす。

「本当は旦那さま、都会ぐらしに戻りたいんでしょ。デレクが独身でなくなれば、縁組屋の興味も惹かないし、過去のナニヤラもそっとしといてもらえるし?」

 数え上げながらちらりと見ると、卿はストーブで足の裏をあぶっている。

「旧家の若さまがさ、僻地でハウスメイドとややこしいことになっちゃって、結婚だけは何とか格好つけたけど、体裁の悪い妻を社交界には連れ出せないでいる。なーんて顔でおさまってればいいんですものね。庶民的集合住宅ならおあつらえ」

「どうだろう、他のところも加熱してしまうのは。ひとつ思い切って」

「何です?」

「全体が曇っとりゃ目立たんのじゃないかな。も一度キッシュをグツグツやってくれ。あ、もうだいぶ食っとるな……」

 大皿の残りに気落ちしている様子が分かり、レオニーは目をぱちくりさせた。

「まだ食べます? すごいおじいさんね」

 ナイフの先で、これぐらい、と尋ねる。卿が手できっぱりと制し、レオニーはありゃりゃと首をすくめた。

「悪口は通じるわ……。いいからお食べなさいな、ほらチーズは除けて、おいものとこだけでも?」

「結構だ。万年筆のチーズ巻き。そこまでやるとアホらしい気がしてきた」

「すねなくてもいいじゃない。誰だって貪欲の罪には陥りがちなものよ。母さんのレシピだもの」

 救護院の厨房でスープの大鍋に君臨していたレオニーの母親は、バターもクリームもたっぷりと使った。コックの家族は厨房で食事を取ることが許されていたので、まず自分たちの分を大鉢に取り、残りを行列の混み具合によって薄めるのが、レオニーの仕事だった。

 ある冬、鍋にドブドブと塩水を足しているレオニーの後ろで、誰かが「あっ」と言った。男は司教区が慈善公演のために雇った役者連中のひとりで、施し用の食事では腹から声が出ないと文句をつけに来たのだった。

 じゅうじゅう焼けているかたまり肉を男が物欲しげに見るので、レオニーは自分たちの鉢をそっくり渡した。寄付金を落としてくれる来賓用の特別料理をやるわけにはいかなかった。スープは仕事に対する正当な取り分のつもりではいたが、男がほのめかすとおり、院長さまにお伺いを立てればそれはやはり貧しい人から掠め取る行為であるかもしれない。そのへんあえて曖昧にしているのを分かった上での、ていのいい脅迫だった。

 ところが男は急に気を変えた。

「俺も同じことするんじゃ世話ねえな。貪欲の罪からは清く身を保つとしよう」

 そう言って片目をつぶり、何も取らずに引き下がった。

 レオニーは下働きの仲間と通廊の端から劇を観た。七つの大罪を巡るどの場面にも男は登場しなかった。流血なし、決闘なしの教訓劇に同僚たちはすぐに飽き、皆について引き上げかけたレオニーを、誰かが幔幕の陰に引っ張り込んだ。

 唇に指を立てた男は主催者の意に沿わないセリフを直す寸劇作家で、幕が上がればずっと暇なのだった。レオニーは「劇に出ない人が食事に一番文句を言ってたわけ?」とからかった。

 見事にやり込められたとか、そういう機転は女優向きだとか、気分のよくなる言葉はすべてフランス語で話され、レオニーはよく理解したが、慈善公演には使えないタイプの踊り子の妻が、街で男を待っていることまでは分からなかった。

 高慢の罪も色欲の罪も、最後は大いなる叡智にしりぞけられ、神を讃えて芝居は終わった。ぺこぺことお辞儀をしながら口上係は「いずれまた!」と言ったがそれはただの常套句で、「いずれまた……」と後朝の常套句を囁いた男からも連絡はなかった。

 次の興行のあてはなく、彼らはまとまった一座でさえなかった。司教区の予算内で雇える役者が、そのつど斡旋されるだけなのだ。

 レオニーは教会のつてを頼ってモントリオールに出た。料理人は食いはぐれがないと信じている母親は、寄宿学校の厨房なら申し分ないと有難がった。子供はよく食べるから余分のお代わりを作って作りすぎということはないのだ。食べ残しは無論、料理人の取り分である。

 生まれて初めて乗ったフェリーがモントリオール島に着岸してすぐ、レオニーは生まれて初めて電話帳を調べた。ある劇場で作家契約をしているとだけ男は言った。都会では猫も杓子も電話帳に番号を載せているという噂どおり、劇場は切符売り場、楽屋呼び出し、支配人の個人オフィスまで、ズラリと番号を並べていた。レオニーは楽屋呼び出しで名前を告げた。

 長いこと待たされて本人は捕まらず、「折り返しかけ直させるとのことです」という常套句で、回線が切られかけた。

「でもその電話、あたしは駅で待たなきゃいけないの? うちに電話なんかないわ、救護院へかけるって意味?」

 電話に慣れないレオニーが細かなことまで述べたてると、向こうで誰かがため息を吐き、「この男、絶対結婚してるわ」と言った。数人の物憂げな相づちが同意した。交換手には何でもお見通しなのだった。超過勤務でヘッドセットの口元を押さえ忘れるほかは。

 交換手は時代の花形であったが、給料ぶんだけこき使われる。昔ながらの下女奉公は楽をしようと思えばやりようがあった。厨房で働き始めるとレオニーはまだまだ下っ端で、生徒たちの時間割に合わせて洗い物を終えることだけ考えておればよく、こっそり猫にエサをやる息抜きもでき、とはいえたびたび抜け出して男と会っているとなると、尼僧院付きの寄宿学校としては叱責で済ますわけにいかなかった。

 あえなく感化院送り、とまではいかずに済んだ。うろついていた界隈はいかがわしいながら一応劇場街、相手の男もケベック演劇協会に登録し、慈善公演を手がけたこともある作家だということで、たぶらかされて道ならぬ関係に陥ったのではなく、ただの女優志望でおさまりがついた。夢見がちな女優の卵らしく劇場で下働きの仕事をもらい、レオニーは寄宿学校を出た。

 派手なレビューとやかましい寸劇が売りの劇場街で、野心いっぱいの女たちと部屋を分け合って暮らすなら、本気で勝負を挑むか下女扱いを受け入れるかのどちらかになる。レオニーは女たちの身の回りの世話を引き受け、ヒラヒラした衣装をアイロンで溶かしたりストッキングを破ったりして、あっという間に追い出された。丈夫なリネンのシーツなら一度に何十枚でも洗ってきたが、安物の人絹や機械編みのレースは扱いが面倒だった。

 得意はやはり台所仕事と割り切ったレオニーは、一座を仕切る看板女優の自邸で料理女の口にありついた。後から分かったことだが、レオニーをと名指ししたその女優は太り気味なのを気にしていて、あんな食事じゃ誰も太れないという救護院がらみの冗談を真に受けただけだった。レオニーはまだ作家の男と会っていて、セリフ欲しさに作家と寝るような行為は看板女優の逆鱗に触れた。

 故郷までのフェリー代を借りるしかないと、レオニーは寄宿学校へ戻った。猫好きの尼僧に相談したところが、元職業婦人の彼女であっても手元に現金はなくて、せめて代わりにと昔の同僚を紹介された。

 レオニーは交換手の女たちの共同部屋に転がり込んだ。電話局はいつでも求人があるといって誘われたが、身元保証のあてがなかった。個人の秘密を扱う職務上、電話会社は尼さん並みの入信誓約を求めるようになっていた。尼僧院を追い出された経歴の持ち主はお呼びでなかった。

 レオニーは新聞広告を頼りに働き口を探した。日の出の勢いの新事業である電話局は営業努力の真っ最中で、加入調査に土地の新聞を参考にしていた。電話局に山ほどある新聞を、同居人たちが持ち帰ってくれた。仏版英版、モントリオールの他にオタワ、トロントなど広範囲の求人を見られるのはよかったが、いかんせん情報が古く、条件のいいものはとうに人が決まっていて、身元照会がいらない仕事となると怪しげなものも多かった。

 決めあぐねていると納戸の隅も居心地がよくなってくる。堅いマットレスの真ん中を譲れば猫が一緒に寝てくれて、不安な夜もほかほかとまるで湯たんぽを抱くように……

「湯たんぽ!」

 レオニーは飛び上がってストーブの後ろに駆けた。

 フタを締め忘れていた陶器の湯たんぽはとうに冷めていて、バーナビー卿も物憂げに「あー」と言った。

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