ムーンライトマーマレード

ウォーターフォールハネムーン（２）

　改めて回線を申し込み、ピーターはもらった番号を次々当たった。

「じゃあそれで。メルシー」

　トロント観光の各種予約を済ませて通話を終えると、扉の外ではピーター・アリンガム夫人が待ちかまえていた。

　クレアは鼻にかけるように「メルシー」と言った。

「どうしてフランス語？　カナダも英語が通じるでしょう」

　ピーターは「モンデュー（神よ）」と額に手を当てた。

「こっちの連中のしゃべり方、君は我慢できる？　ありゃもう英語じゃないよ」

「植民地ってそういうものだわ」

「ご用心、マダム。元植民地（アメリカ）と現自治領（カナダ）の境界地にいるんだ、色々デリケートだよ」

　クレアははしゃいだ抑揚には調子を合わせなかった。

「きっとあなたのフランス語だっておかしいわよ」

「割と通じたけどね。おしゃべり好きの案内係だったな。どっさり情報を仕入れたよ。婚家の愚痴まで聞かされたが」

　ピーターはそう言ってメモを広げ、クレアは並んで歩きながら目だけでのぞいた。

「ああいう電話オペレーターって信用ならないわよ。自分の身内がやってる店にお客を誘導する人もいるって」

「じゃ、この中にさっきの人の亭主がいるのかな」

　ピーターは上から順に読み上げた。

「劇場、美術館、キネトスコープ、動物公園、ナイアガラ水力発電の富豪ってこたないだろうけど」

　クレアが首をかしげる。

「劇場？」

「歌なし踊りなし、古式ゆかしいストレートプレイだそうだ。キネトスコープもいいね。シネマトグラフと違ってドタバタ芸人なんか出ないから、落ち着いて見られる」

「そうじゃなくて。フランス語の案内係はやっぱりフランス語の公演を紹介してくれたんじゃない？」

「よく分かったね。きっと勉強になるよ」

　クレアは「うへえ」と顔をしかめた。

「私に分かるのは“勘定書きをお願い”だけなのに」

「飯屋のシーンがあれば勘定書きの出番もあるさ。それまでは僕が同時通訳してやる」

「お芝居のあいだじゅうひそひそしゃべって、周りから顰蹙を買うの？」

「それこそ新婚夫婦の醍醐味じゃないかな」

「したり顔で聞かせてる解説が間違ってて、笑われるといいわ」

「僕のフランス語は名門校の文法教師によるお墨付きだぜ」

「ええ、その節は立派な及第点をありがとう」

「ケチな作文の宿題で、お嬢さまに赤点取らせるわけにゃいきません」

「おかげで勉強する習慣が身につかなかったんだわ。宿題請負人がいなくなった十年生からは、もう壊滅的」

「そりゃ悪かった」

「書かれたものを読み下すのは得意になりました。そういうわけでこれ、シェークスピアよ」

　クレアはある一行をトンと指した。ピーターが聞いたまま書き取った公演名は、訳せば「じゃじゃ馬ならし」となる。

「あれ、ほんとだ」

「筋を知ってればフランス語でも楽しめるだろうってことかしら。英国人訛りを見抜かれてたようね」

「うーん、確かに色々見抜かれたよ。人間観察が鋭いっていうのかな。きっと僕らにぴったりな観光コースのはずなんだ、これ」

「そうかしら」

　クレアはひらりとメモを取り上げた。

「新大陸の美術館ねえ。私たちにとっては目新しくないものばかりなんじゃない？　皆こっちから買い付けられていったわけでしょう」

　クレアは自分を指して「こっち」と言った。旧世界の代表のような仕草は階級意識そのもので、ピーターはこっそり苦笑した。

　こんな風だから、下々に混じって食い扶持を稼ぐ身の上になっても、どこか世間に溶け込めずにいたのだ。離れていた年月について話すとき、クレアは誰も寄せ付けず一途に待っていたような言い方を好んだが、ピーターは「庶民のほうで付き合いづれーと思ってたんだぜ」と言いたくてウズウズすることがあった。当人は育ちを鼻にかける気などさらさらなく、いたって庶民的なつもりなのだ。

「動物公園には何がいるの？」

「鹿とか」

「田舎の荘園で鹿狩りを見たわ。とっても可哀想だった。あれを思い出すなんて嫌よ」

「ずいぶんやさぐれてるな」

　ピーターはクレアの手からメモを取り返し、代わりに自分の手を滑り込ませた。

「こんなすみっこに放っておいて悪かったよ。あれ、ええと」

　ピーターはきょろきょろとあたりを見回した。クレアは片手をつないだまま、テーブルに散らかした案内冊子を集めている。

「荷物ならポーターに頼んだわよ。ホテルの名前を伝えれば届けてくれるわ。カナダに越境することになるけど構わないって。急に引き移るんですもの、何か落ち度があったのかってすごく気にしてた」

「気を回させるのが悪いから、こうして別のホテルまで電話を使いに来たんじゃないか。あっちのポーターをこっちまで呼んだの？　荷物を運ばせるために？」

「それってポーターの仕事でしょう」

　クレアが口をとがらせ、ピーターは口論の気配から急いで身を引いた。

「だってクレア、トロントへ移るのは気が進まなかったんじゃ」

「別にいいわよ。そんなに行きたいなら。なあに、どうやってトロントを売り込もうか考えてたのに、出鼻をくじかれた？」

　ピーターは難癖を付けられた名所メモを悲しげに振った。

「クレア。怒ってるの、面白がってるの」

「ほんとのことを聞きたいだけよ」

「言ってるだろう。もう君に隠し事なんてない」

「じゃ、どうして急にナイアガラは退屈なんて言い出したの？　デトロイトへ行こうとかトロントがいいとか。パパに新婚旅行をプレゼントされたのがやっぱり気に入らないんでしょう」

「そんなんじゃない」

「いいの。私だってやめてよと思ったわ。自動車産業の調査なんて作り話までして。あなたにどれだけお金がないと思ってるのかしら」

　どうもおかしい、とピーターは妻を見つめた。話しても話しても食い違うときの、張りつめた感じがない。試しに顎の下に指先を添えると、クレアはされるままに顔の向きを変えた。

「あ、これか。お見通しよの顔」

「なあに？」

「本当に本当のことを言うとだね、クレア。あのホテルに知り合いがいた」

　クレアはハッとして身を引いた。

「あなたが会いたくない知り合いっていうとつまり……」

「そう。しばらく働いて、すぐ辞めた家の人」

「あなたに宿題をやらせた子供とか？」

「いや、そこんちの女中頭。おっと、いかがわしいことは何もなかった」

　つないだ手は結局引き抜かれ、ピーターは電話越しの金言を思い出した。

　嘘つくコツは真実を混ぜること。

「たっぷり誤解はさせたかな」

「……可哀想、その人」

　ピーターは深くうなずき、その通りという肯定を「別の話を始めます」という勢いに替えた。

「今はもうそんなに可哀想じゃないんじゃないかな。裕福そうなお相手と旅を楽しんでたよ。このままナイアガラのハネムーンコースを巡ってたんじゃ、どこへ行っても鉢合わせしそうなくらい」

「で、カナダへ逃げたいわけね」

　クレアはツンと鼻先を上げた。

「何を盗んだの？」

「現金を少し。いや、僕にとってはたっぷり。いや誰にとっても大金だけど」

　付け足すたび、長身のクレアに仰角が増す。

「帳簿には付けないで引き出しに隠しておく類の金だよ。警察も呼ばれなかったはずなんだ」

「だから誰も困ってないとでもいうの？　その彼女に聞いてみたらどう。泥棒があった後ってみんなが疑われるのよ。おおっぴらにできないお金だからこそ、雇い人はとことん絞り上げられたでしょうね。警察より陰湿な取調べがあったんじゃないかしら」

　返す言葉もないピーターは苦しげに何かの身振りをし、言いたいだけ言ったクレアは「モンデュー（神よ）？」と首をかしげた。ふざけてよろしいという許可が出て、ピーターは合掌した手を小さく振った。

「神に許しを請うべきかな」

「私、会って来るわ」

「誰に」

　歩く方向からでなくとも件の女中頭を指していることは明白で、ピーターは合掌のまま追いかけた。

「悪いよ。新婚旅行の邪魔だろ。古い知り合いの男の話なんか、君、今されたい？」

　理屈が効いて、クレアはそっぽを向いたまま足を止めた。

「僕が説教するのもおかしいけど……」

「元泥棒と結婚するってどういうことか、ママはさんざん警告してくれたのに、こういうことは予想してなかったわ」

　クレアが決然と向き直る。

「どんな予想をしてた？　予想とは違った……？」

「分かってもらえるかどうか分からないけど。私、あなたを許すのがとても好き」

　吐き捨てるように言ってから、クレアはのんびり歩き出した。

　ピーターはクレアの肘を取った。手は振り払われなかった。

「……ええ、許します。あなたがどんな悪党でも。頭を垂れて許しを請うのなら。みんな私を手に入れるためだったのだから」

　言いそうな殺し文句は言ってやったとばかり、クレアが喉を鳴らす。ピーターは苦笑しながら、事実を、事実のすべてを、事実それのみを、とこっそり宣誓してから供述を始めた。

「クレア、トロントへ移ってくれるかい？　カナダは移民の住み分けがはっきりしてるんだ。トロントみたいな英国人社会なら、フランス系ホテルに泊まれば知り合いに会う危険は少ない……」

「アメリカに、長居したくないの？」

　クレアの胸が上下し、呼吸が深くなった。久しく忘れていたある感覚がよみがえり、ピーターは「いける」と思った。

「以前、アメリカでは色々あってね。少し難しい宝石を現金化するときに」

　腕を振り払われた。

「クレアッ」

「逃げるわよ。全速力でオンタリオ湖へ。エリー湖の制海を失ったイギリス軍みたいに。1813年。まあ、一世紀と一年前よ」

　せかせか歩くクレアは熱心に歴史案内をめくっている。耳と襟足がほんのり赤く、すげえ嬉しそうだなあと思いながら、ピーターは「あの野郎」と呟いた。

「この濡れ衣はまあ、肩代わりしといてやるさ」

「なあに？」

「平和が一番だってこと」

「平和ですって？」

　クレアは米英戦争史の上から目だけのぞかせた。

「誰かを真人間に立ち返らせるのって大変なスリルよ。じゃじゃ馬ならしの夫って、こんな気分じゃないかしら」

　観劇はシェークスピア談義で盛り上がること請け合いだ。

「よし」

　ピーターはひらひらとメモを振った。

「案内係お勧めコースによれば、その次はロイヤルオンタリオ博物館の美術コレクション。闇市場価格の見積もりでもお聞かせしようか」

「やめてよ」

　ロイヤルオンタリオで美術ガイドを申し込むと、すっかり真人間に立ち返った元じゃじゃ馬が現れて、思いがけない再会に感じ入り、「実は」「ずっと良心が痛んでいた」「ダイヤは初めからイミテーションで」と告白を始め、夢心地の旅行に水をぶっかけてくる運命を、二人はまだ知らない。

（ウォーターフォールハネムーン　　おわり）

※お付き合いありがとうございました。近況ノートに「ジャンルについてなど」としてあとがきを置いています。