ムーンライトマーマレード

シガレットビタースノー（１）

　しばらくして、私はまたマーマレードの小包を受け取った。あれから六年経っていた。

　バーナビー家は盗難届けを取り下げたが、ストームクラウドにまつわる噂はいつまでもついて回った。学校の友だちの何人かはそっと離れていった。

　パパはバーナビーにイミテーションを叩き返したけどそれはママを喜ばすためで、裁判は起こさなかった。二年ほど経ったある日、バーナビーによる競馬の不正が発覚した。デレクが窓口になって八百長を仲介していたのだ。子爵令息の裏の顔をあばいたのはパパだった。

　厩舎やら賭け屋やらに探偵をありったけ送り込み、個人でそういう調査をすることは、“内部情報を得ようとした”としてパパ自身が糾弾されかねない行為だ。そのへんの執念はマーマレード奪取に燃えたかつての私と同じ血を感じる。

　パパは「生涯競馬には関わらないし、賭けもしない」という誓約と引き換えに、調査結果をジョッキークラブに公開した。

　バーナビー家は競馬の世界からも社交界からも追放され、カナダへ移っていった。デレクが収集していた東洋の美術品は、たくさんいた使用人への一時金やかさんだツケの支払いに化けた。

　ストームクラウドの恨みは大勝利に終わった。しかしお品の悪いアナグマ退治は上流社会で評判が悪かった。パパは郊外にゆったりした地所を買い、皆をつれて引っ込んだ。

　ロンドンの屋敷は処分され、社交界からのお誘いは絶えたから、お嬢さま学校ですることもなくなっていた私は、庶民の子らしく職業技術の地方カレッジに通った。

　手書きのお茶のお誘いではない、タイプ打ちのビジネスレターを書く技術はほどなく身に付き、私は都会で自活してみたいと言ってみた。パパの知り合いに小さな貿易会社をしている人があり、今はそこで秘書をしている。重役の個人秘書といった優雅なものではなくフロア全体の雑用係みたいなものだ。毎日目が回るほど忙しい。

　そして、マーマレードだ。

　今度は小包にメモが入っていた。テムズ河畔の公園の名に添えて

「毎日夕方から待つ」

　とだけあった。

　夕方っていつだ。夏のあいだはベンチで日光浴もできるあの公園は確かに近いけれど、この季節終業時間となればもう真っ暗になる。

　私は破ってしまった包み紙をつぎ合わせた。

　小包はオフィスあてに来た。遅配を考えに入れ、早め早めに動いてしまう秘書の習性は今や私も知るところだ。となれば昨日の終業後だって待っていたかもしれない。いたのかもしれない。ほんの通りひとつ向こうに、彼が。

　仕事は手につかなかった。月明かりのダンス、マーマレード、あれから甘いだけのは嫌いになった。

　記憶の中の顔はなぜか月光を浴びてもつるりとしていて、今思えば平べったすぎる気がする。きっと目もまん丸すぎる。大人になってみれば、何だこんな人かと思うものだ。会った途端にがっかりした顔をしてやろうか。

　いつもの倍の速さでタイプを打ち、倍の打ち損じを作って紙を引き抜きながら、はたと手をとめた。

　コンチクショウ、私はもう会いに行くと決めているんだ。

　堤防はフェリー発着の桟橋が近く、日が落ちてからも人通りがある。歩道をそれて公園に入ると、照明の数はぐっと減った。

　ぴしりと冷え込んだ公園に入ると、ぼやけたガス灯の下のベンチから、小柄な人影が立ち上がった。

「クレアさま？」

　私はずんずん近づいた。少しも変わらない優しい顔が、わっと白い息をついた。

「ああ、見違えた……」

「どうしてここにいるのよ」

「それは、そう書いたし」

　くるりとした目がさらにきょとんとする。

「オフィスの住所を知ってるんだから、当然あのへんの通りで張ってると思うじゃないの」

　吹きっさらしのベンチであてもなく待つより、私が公園に向かうか帰宅するか、まず確認するはずと踏んだのだ。

「往来で名前を呼んだのよ。三度も」

「そりゃ…………」

「猫かやんちゃな甥か、とにかくはぐれた相手を探してカッカきてる女って目で、人が見たわ」

　昔のように呼ばれたり盛大に吹き出されたりしているうちに、妙に落ち着いていた。食ってかかっても昨日のケンカの続きみたいだ。

「こんなところへぽけっと座ってるなんて」

「ごめん」

「私が警官をいっぱい連れてきたらどうしてた？」

「それでもよかった」

「どういう意味よ」

「ずっと国外にいて」

「だから何」

　チョンチョン入る合いの手を堰き止めるように、ピーターが近づいた。

「思い切って入国してみれば、僕は何の手配もされてなかった。お屋敷に行ったら、近所のひとはご一家の引っ越し先だけじゃなく、君の勤め先まで教えてくれた」

　ピーターの声がささやくようになる。

「どうして警察に言わなかったの？　侵入者はちょっと前に辞めた、あの秘書だって」

「何よ、人にばかり押し付けて」

　しんとした中で囁き合うのはおかしい気がして、歩き出した。足音を立てれば普通の声でしゃべれる。

「何だっていうの。捕まってもよかったとか、警察に言うとか」

「クレア」

　ピーターはすぐ後ろをついてくる。

「まず旦那さまにお目にかかるべきだったけど、君に会いたかったんだ」

　言ってほしかったことをまとめて言われ、私はますます靴音を蹴立てた。彼には私の言ってほしいことが分かるんだ。従姉妹のミセス・オルグレンも様子がいいとお墨つきの、この優しげな泥棒には。

「クレア、待って」

　呼び方や、言い方だけじゃない。急に顔を近づけたり抱きしめたり、そうやって換気用の小窓のことやなんかを聞き出した。

　何ともちょろいものだったろう。