シルバースプーンレイク(1)

「ううん、これはダメね」

 そう言って、バーナビー領の第七代バーナビー子爵ティモシー・ピンショー・バーナビー卿夫人レディ・ミリアム・バーナビーは、便箋を放り出した。

 癖のある女文字はとことん入り組んで読みにくい。さっきから近づけたり離したりあれこれ工夫していたのだがとうとう音をあげ、眼鏡もクッションに投げた。

「レオニー! レオニー!」

 呼び続けていると、居間の戸口にぶすっとした顔の女が現れた。肘まで袖をまくりあげ、手は粉だらけだ。

「粉をこねていたの。悪かったわね。ちょっとつづりを読んでちょうだい。つ、づ、り」

 レオニーは女主人にずかずかと近づき、アルファベットを読み上げた。

「ありがとう、これで意味が通った。おさがり、メルシー」

「なあ、お前」

 子爵も自分の読書鏡をはずし、トロント・ニュースの日曜版を置いた。

「やっぱり募集広告だけでメイドを雇ったりするんじゃなかったなあ。フランス語しか話せないメイドを雇ってしまうなんて」

 夫人も頭を振る。

「てっきりフランス語“も”話せる、だと思ってしまったのよねえ。安いお給金なのになんて素晴らしいと感激したものよ」

「アルファベットすらフランス語で言われたんじゃ、手紙を読んでもらうのだってひと苦労じゃないか」

 抑揚は大きくとも本気で憤慨しているのではなく、これは夫妻の気に入りの軽口なのだった。

「こういう手配をデレクに任せっきりな私たちも悪いわね。年寄りのガートルードの代わりを急いで探したから、うっかり面接もなしに雇ってしまったと、あの子もすまながっていたわ」

「誰の助けもない土地だ。多少のうっかりは仕方ないさ」

「私たちもしっかりしないと」

「そうやってつづりを思い浮かべるのは、ずいぶん頭の訓練に良いそうだよ」

「だといいけれど。新聞のクロスワードならご助力しましょ」

「アルファベットは英語で言ってもらって構わんよ」

 軽口の句読点として、夫人はクッションをぱふんと叩いた。

「奥さん情報局からは、面白いニュースがあったかね」

 夫人はそうそうと便箋を上げた。

「モウブリーさんのお嬢さんが婚約なさったそうよ」

「ほう」

 相づちのまま卿はぽかんとしていたが、やがて傍らのロンドン・タイムズをガサガサとめくった。

「それらしい社交欄には気付かんかったが」

「週遅れだからまだ載らないのかしら。この手紙がカナダに着くのとどちらが早いの?」

 夫人はひとりで問いかけながら便箋を入れ替えた。

「こっちに日付があった。もうひと月も前のことですって」

「新聞発表はせんかったのだなあ」

「そりゃあ、あちらはあのこと以来社交界からは引いてらっしゃるし、お相手も普通の勤め人だそうですからね。かわいそうに」

「利発そうなよい子だったが」

「あなた、クレアさんはもう二十一ですよ」

「もうそんなになるか」

 居心地のよい居間の窓から、子爵は好ましげに外をながめた。灰色の森は影をたたえ、スプーンのような細長い湖がスラリと凍りついている。

 いつも夫婦で話すことだが、小さな湖が点在するトロント郊外のこの村は、かつて彼らの邸宅があったイングランド湖水地方の風景に、少しだけ似ていた。

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