シルバースプーンレイク（２）
「あなた、あなた」
ハタハタと便箋が振られ、卿は視線を戻した。
「うん」
「デレクにはこのこと、黙っていてやりましょうね」
「あの子はあのお嬢さんを気に入っていたからなあ」
「さて誰だろう？ 僕に内緒でニュースになっている美人っていうと」
からかうような声がして夫妻が振り返ると、居間の両引き戸のあいだから息子の顔がのぞいた。
「お帰りデレク」
「玄関の音が聞こえなかったわ」
「おかげで密談の尻尾をつかんだってわけですよ」
デレクは気楽な様子で入ってきて、両親の前にぬっと立った。
「さあ白状して。以前僕を袖にした人が富豪のじいさんでも捕まえましたか？」
「あら、いいえデレク」
夫人は息子と手紙とをどぎまぎと見比べた。
「モウブリーさんのところのクレアさんですよ。富豪じゃなくて普通の勤め人と婚約なさったの」
「ああ」
デレクは父親そっくりの顔でぽかんとし、後ろ手に肘置きを探って腰かけた。
「勤め人？」
「イタリアから来た会計士ですって」
「そうですか」
デレクはニッと笑顔を作り、身を乗り出した。
「ダンスで足がからまったのを覚えていますよ。ふたりしてすっ転んだ」
「あらあら」
「慌てましたよ。彼女まだひょろっとした子供で。あの年頃は必要以上に触れられるのを嫌がりますからね。間一髪でよけましたが」
「危ないところ」
「お前はとっさの判断に長けとる」
「妖精みたいにふわりと飛んでって、すとんと尻もちをついた。かわいらしかったなあ」
この話題が息子にとって狼狽するような奇襲でないと確認した夫婦は、のびのびとおしゃべりに戻った。
「あんなことがなければ、クレアさんはうちへ来てくれていたでしょうにね」
「モウブリー氏があんなに競馬の公正さにこだわる人だったとはなあ」
「あなた、私が言っているのはストームクラウドの騒動のことですよ」
「そっちが先だったかな」
どちらも記憶に残るほどの出来事ではないという態度は、痛手に言及するためのお決まりの手順だ。
「人物に余裕がない感じで、付き合って面白い男ではなかったなあ」
「ルールを守ることが何より大切なんですよ。実業界の方にとっては」
夫人が優しく指を振り、心の狭い発言をたしなめる。
「紳士同士ならお互い分かり合えますけどね、最近はいろんな階級のかたが競馬を楽しむようになったでしょう。ちゃんとした決まりを作って、守らないと」
「おやおや、立派に新時代に適応しとるじゃないか」
デレクは両親の遠回りな負け惜しみにしばらく聞き入っていたが、急にうつむいて笑った。
「不思議だな。今日、クレアさんの消息を聞くなんて」
「あら、なあに？」
デレクは長い足を組み、背もたれに肘をついた。
「今日、ゴルフ場でたまたま話をした男なんですがね。その人の知り合いにモントリオールのホテル王だとかいう御仁がいて、なんでも最近かなり大きな青ダイヤを購入したとか」
「ほう、そりゃまさか……」
デレクの瞳がくるりと動く。
「大きさといい、こうして新しく市場に出てくるやりかたといい、僕にはストームクラウドのような気がしてならないんです」
「きっとそうよ」
「思いがけんことだ」
「手放した家宝がこんな近くに現れるなんて」
「もう別の形にカットされとるだろうなあ」
そう言って、卿はまた窓の外に目を奪われている。
デレクはひとつ景気よく手を叩いた。
「どうです、皆してモントリオールに行ってみませんか？ ホテルに泊まって今日会った男の名前を出せば、見せてもらえるって話ですよ。自慢の逸品らしいから」
「素敵じゃないの。カットは違っても色合いは変わっていないでしょう」
「うん、それはいい」
軽く同意したままぼんやりしている父親を、デレクは憐れむ気持ちで見た。
また、湖水地方の思い出を重ねているな。
ため息を飲み込み、同じように窓の外を眺める。スプーンみたいな湖をめぐる木立はすべて、天へ向かって突き立てたような針葉樹だ。
のんきな丘陵、低く枝差し伸べる広葉樹。なつかしいウィンダーミアとはちっとも似ていないと、デレクは思った。
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