トゥルーブルーロジック(2)

 雑貨屋店主オグデン・ブランモートは鉄道の駅まで馬車で行き、郵便物や仕入れ品を受け取るついでに、旅客の送迎もした。


 昼にモントリオールを発った汽車は夕刻過ぎにトロント・ユニオン駅に着く。

 そこからオンタリオ北土鉄道に乗り換え、大小の湖を縫って辿り着く小さな駅からバーナビー一家の住まいまでは、さらに数マイルの距離があった。


 馬車の音を聞きつけてレオニーは外へ出た。

 あたりは暗く、ランプの光を小雪がよぎった。

 最後の数歩を慎重に歩かせたオグデンは、襟巻きから白い息を吐いた。

「いや揺れた揺れた。そろそろ積もってくれんとなあ」

 歯切れよいフランス語で言いながら御者台を降り、車体の下をのぞく。カチカチに凍った泥道は振動で車軸を痛めつけるのだ。

「馬橇のほうが旦那さまもお楽でさあねえ」

 今度は英語で言った。幌の内から呼気が上がり、毛皮と毛布にくるまった塊が身動きする。足元に焼石が置かれてほかほかの座席は、立ち上がるのに決意が要るのだ。

 克己心をあっためるにはしばらくかかりそうで、旅行鞄を引き下ろしたオグデンはそのまま玄関へ向かった。

 レオニーは急いで立ちふさがった。

「こっちへもらうわ!」

 そして早く仕事を済ませて帰ってほしい。レオニーが鞄の取っ手をつかむと、男ひとりの荷物はそう大ごとではないからオグデンも旅行鞄はメイドに任せ、乗客の世話に戻った。

 馬車の灯火は進行方向を照らすだけなので、レオニーは庭の段差にランプを置いた。鞄を両手で持ち上げる。重い。

「ううっ」

 荷台で旦那さまが声を上げた。ひざ掛けを剥がされたのがこたえたようだ。レオニーはのしのしと歩きながら、顔にかかる雪片をふっと吹き飛ばした。

「……のんきに迎えなんか頼んで」

 はるばる駅から歩いて来いとは言わないが、今夜この家に二人きりになることが必ず人に知られるようなやり方は、女にとって迷惑だ。これが妻帯者であれば頼まなくても男のほうで策を講じてくれるのに、独り身のデレクはそのへんいかにも気楽に考えているに違いない。こちらのことも気楽な女と思ってやがんだコンチクショウ、とレオニーは鞄を揺すり上げ、馬車をにらんだ。そのまま力が抜けて、鞄を置いてしまう。

 支えられながらよちよちとステップを降りて来るのは、父親のほうの「旦那さま」だった。



「大丈夫かね? わっしがしばらくお側におろうか?」

 玄関ホールにランプを置いたオグデンは、バーナビー卿のために英語で、レオニーのためにフランス語で言った。

「あのあと何度も電話があってな。あんたがちゃんとお父上の御用を足せるかどうか、心配しておられんだよ。雑音がひどいんだかで、あまり要領を得んかったが」

 レオニーは答えられずに肩をすくめた。電話への妙な恨みは忘れて自宅に電話を引いておれば、手違いの説明も難なくできたのだ。一番近い農家を呼び出したところで「うちのメイドは若さまご帰還とばかりいそいそ支度をしてるだろうけど、帰るのは年寄りのほうになったって、伝言頼める?」なんて、いくらお気楽デレクでも言えることじゃない。

 英訳を聞いて卿も肩をすくめた。こちらは確固たる仕草だ。

「心配無用と言ってくれたろうね? レオニーはすべて心得とるよ」

 すいと腕を広げる。小さいブラシを構えていたレオニーは手早く旦那さまの雪を払った。言葉が通じないからこそ手順は大方決めてある。

 オグデンは尚くれぐれも、くれぐれもとレオニーに念を押して帰っていった。ブランモートという名はボルドーの古いシャトー、ブラーヌ・ムートンの転訛だよと教えられて以来、田舎の雑貨屋店主はすっかりこの一家に心酔していた。

 生粋の英国系移民であるオグデンは、いきなりフランスのブドウ園が出てきてぽかんとしたものだが、移住前の祖先は英国の港に荷揚げされるボルドーワインの仲介業に関わっていたはずだと畳みかけられると、「確かにうちゃずっと港のもんだったそうです」と言って目を丸くした。

 ――君の祖先はブラーヌ・ムートンを主に扱う商人で、そのうち商品そのままの名で呼ばれるようになったんじゃないのかな。シャトー・ブラーヌ・ムートンはかの富豪ロスチャイルドが所有して、今ではムートン・ロートシルトと名を変えたがね。

 有名人の名もさらりと混ぜて田舎者をうっとりさせる弁舌は、あとから興奮気味のフランス語訳を聞かされたレオニーにとって、ますます詐欺師に似ていた。

 最後は身軽な移住者となったつましい雑貨商がブランモートだ。港に“関わりがある”程度なら、どうとでも当てはまる言い方があった。ちょうど二人きりで一夜を過ごすという提案を、どうとでも解釈できるように。

 ともあれ今夜の相手は長老のほうだった。レオニーはブラシを置き、靴をぬぐう以外解釈の余地がない粗織りのマットを出した。ご老体がぐいぐいと踏んで泥雪をぬぐう。コートは脱がずスタスタと進む足元を、レオニーはランプで照らしてやった。

 言葉に頼らないからこそ、手順をこなせば御用は足りた。おかげで言葉遊びに悩まされずには済むのだが、これから何が起こるのか、見当もつかないというのも事実だった。

「あの、ご子息、帰る話」

 レオニーは仕草で電話を耳に当て、ハンドルを回した。

 片手がふさがっているので手つきがごっちゃになる。

「デレクな、うんうん」

 バーナビー卿は頭の横で指をくるくる回した。それでは「脳たりん」の意味だ。

「あのお調子男ならコンパートメントから蹴り出してやったよ。汽車はもう動き出しとったが何とか着地したようだ。おとうさーんとか叫んどるのが妙な感じに遠くなって、ドップラー効果やらの証明実験があんな風かね」

 卿はいつものくぐもった早口のままくつくつと笑っている。レオニーはひと言も分からない、と首を振った。

「あんたと話がしたくてね」

 レオニーは灯りで台所のほうを示した。簡単な食事と湯のために、台所でストーブが燃えている。しかしバーナビー卿は廊下をスタスタと折れ、暗い書斎に入ってしまった。

 卿はキャビネットの前でランプを待っていた。冷え切った書斎の暖炉を今から点けろということかとレオニーがげんなりしていると、卿は用箋の束をつかみ出し、カルンと万年筆のキャップが鳴って、ランプを寄せたレオニーは息を飲んだ。紙の上にのびやかな筆致で現れたのは、フランス語の文章だった。

『読めるか、マドモアゼル?』

 書く手の下で雪片が溶けたのか、青いインクがぼんやりとにじんでいく。レオニーは何となく慌ててしまい、英仏の肯定を交互に言ってはうなずいた。

 卿は嬉しげに拳を口にあて、かじかむ指先を暖めた。

「発音がどうも駄目でね、会話は全く使えんのだが、ロマン派にしびれた若い頃にはフランス詩もたくさん読んだ。綴りは怪しいし、文法も破格だが……」

 ぶる、と肩をすくめ、またペンを走らせる。

『さながら氷室、とく火のそばへ』

 居間へ出て行く背中にレオニーは英語で「台所!」と叫び、紙を束ねて後を追った。

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