ムーンライトマーマレード

トゥルーブルーロジック（３）

　不在の令息と雇い人の人目はばかる友情について、ツギハギの詩文調を誇張表現で遠巻きにすると、バーナビー卿の大らかな書き文字では用箋二枚かかった。

『乙女よ、そなたがちょっと怒ってることを我は知る』

　卿は熱々のキッシュを頬張った。調理台が即席の食卓に整えられており、空いたところに用箋が並べられている。

『虚しや、愚息の手前勝手なおぼしめし』

　青インクでのびのびと綴られた文面には、いっぱいに添削が施されていた。

『そなたの身持ち堅きを愚息は恨み、むつみあわんと謀っては』

　むつみあう、に『？』が付けられ、『親しむ、つがいとして寝る』など、語義説明は潤色をかなぐり捨てていく。

　卿はやれやれと首を振った。

「古めかしすぎて通じんのかと思ったら、こりゃずいぶんと綴りが間違っていたのだな」

　レオニーの字で「もしかしてこのこと？」と正しい綴りが示された横には、その都度辞書で確かめた卿による大きな『ウィ！』が踊った。

「返事はうなずけばいいんだ。筆談になると何でも書いてしまうわい」

　くくっとのどで笑ってから、またぱくりと食べた。

　レオニーは新しい紙を置いた。ディナーナイフの位置にある万年筆を取る。

　卿は読書鏡の具合を直し、身を乗り出した。

『間違いが起こる前に、警告にいらしたのですね』

　うむ、うむ、と目を合わせてうなずき、卿は『ウィ！』を書かずに済ませた。レオニーは続けて書いた。

『奥さまもご承知ですか』

　卿はフォークを置き、ペンを求めた。書く。

『余に全権を委ねると、奥が申した』

　さらに続けかけた一文を、卿はぐるぐる塗りつぶした。レオニーは「私の番」と割り込み、強引に紙を抜き取った。

　塗りつぶされた一行に目を凝らす。先に書かれた字の部分だけ、インクの染み込みが遅い。数秒濡れ残って消えた文字列は、『この種の処置はいつも』と読めた。手切れ金とともにメイドを厄介払いするのは、バーナビー家の当主にとって慣れぬ仕事ではないらしい。

　順番を譲られた以上何か書かねばならないので、レオニーは思い浮かんだ名前を書いた。女たらし、常習の詐欺師など、あれこれの呪詛的形容は敬称と一緒に飛ばして。

『デレクは？』

『あのぼんくらには何も言わせぬ』

　ぼんくらという語についてしばらく協議があり、卿は決定稿にくっきりと下線を入れた。

　レオニーはこくりとうなずいた。経験に照らしてこういう場合、「お前が誘ったんでしょう」だのじめついたことを喚きたてられるのが普通だ。ぼんくら男をこき下ろす仕事は任せておいていいようだし、唐突な含み笑いを除けばバーナビー卿はまだしも気持ちのよい交渉相手と言えた。例えばぼんくら男本人よりは。

　――自分は雇い人とこそこそするような人種じゃないと思っていたのにな。

　照れくさげに言ってのけた厚顔を、今なら引っぱたいてやるのに。レオニーは食卓の下でエプロンを引き絞った。

　バーナビー卿がまた書いている。

『かんばせの色より推して、手切れ金の相談なりやと怪しみいること明らか』

　もちろんそのつもりでいた。違うんですかとも言えず、レオニーは紙を見つめて続きを待った。

『余はかかる侮辱を浴びせるものに非ず。そなた未だひとつの不品行もなし』

　そういえば、『身持ち堅き』などとおだてられて油断した。ことがあったればこそ、男の側に金を要求できるのだ。先手を封じられている。間が抜けて見えるが、この父親は息子より油断がならないのかもしれない。

　レオニーはペンを要求した。

　デレクがどう言い繕っているにせよ、男のほうがしらばっくれるのはよくあること。

　ペン先を迷わせ、キャップをコロコロもてあそぶ。デレクとは以前から不品行を共にしている？　もらうと約束していた金額がある……？

『お疑いでないと分かりほっとしました。喜んで仰せに従います』

　従順に出てみた。次の職場への紹介状をもらうなら、「素行に問題なし」と書き添えてあるほうがずっといい。

『一週間の猶予でいいですか？』

『何の一週間？』

『次のメイドが見つかるまで』

『不要である。以後、住み込みは雇わぬ』

　レオニーは深くうなずいた。それでぼんくら息子の手癖が落ち着くかどうかはさておき、村から誰かに来てもらうなら、通いが適当だろう。手紙を読むだのカーテンのひだを直すだののたび呼びつけるには少々不便な距離にはなるが、オグデンの女房なら主婦仲間に呼びかけて代わりの者を見つけてくれるかもしれない。案外すぐに。

『それは結構ですが、私のほうの支度が間に合わないのです。お暇をいただくのはそちらの都合ですから……』

　小説みたいな点々でほのめかすとかえって浅ましい感じになるが、何の不品行もなしに叩き出されるメイドなら、相応の手当てを要求していいはずだ。どうだ。とばかりレオニーは用箋を突き出した。バーナビー卿がそわそわと辞書をめくる。『お暇』に二重線が引かれたので、レオニーは『出て行く、お別れ、さよなら』とズラズラ書いた。

　横から読んだ卿は「ノウノウノウ」と声をあげた。ペンをもぎ取る。

『出て行く、否、否。そなたを捕まえておくのが余の仕事である』

　レオニーは指で『捕まえる』に下線を引いた。警察を連想してドキリとした内心を押し隠し、さっぱり分からないと身振りで尋ねる。まだ何も盗んではいないのだからおどおどしないほうがいい。インクが乾いておらず、こすったあとがフワとかすんだ。

　卿はペンを取り、『逃げる防ぐ、去る止める』など断片を並べた。了解かと目で尋ねられ、レオニーはうーんと考え込んだ。語の意味が正しいとなればいよいよ不安だ。

『そなたは去ってはならぬ。あれに仕事を任せては誰を引き止めることもかなわぬ能力のなさ』

「ええ？　どれが誰？」

　レオニーは語を指さしては手の平を上向けた。どこかの詩句から引っぱってきたらしい表現は性も時制変化も揃っておらず、代名詞の正体を類推できないのだ。そして冠詞の変化だけがやたら正しい。基本をやったあたりで文法は投げたのだろう。

　にもかかわらず複文を諦めないのは、遅い語学習得者に特有のプライドだ。片言の単項文では威厳が損なわれると思っている。卿がつっかえつっかえ書くあいだ、レオニーは待った。

『常から愚息の自称する、抗いがたき魅力なるものに、余は信をおかず』

　だから、その愚息がヘタに魅力を発揮する前にメイドのほうを追っ払ってしまえと飛んでいらしたのでしょ。レオニーは『愚息』『メイド』『お暇』と指さした。そこらじゅうインクの指跡で汚れるばかりだ。

『余の手文庫並びに奥の宝石箱を監査ののち、そなたが当家を見限る心積もりであったこと、よく理解している』

　レオニーは青い指を立てたまま凍りついた。卿はせっせと書いている。

『そなたの知らぬことがある。王立銀行の貸し金庫にダイヤモンドあり、我らにとって日々の暮らしのよすがなり』

　あ、モントリオールの銀行か、とレオニーは思い、道理で家の中にはなんにもないと納得がいった。ダイヤの話は知らないことになっていたと無表情をとりつくろうが、初めてダイヤと耳にした驚きは表現すべきかと思い直す、そのあいだも、卿はもどかしげにペンで空中をかき回していた。表現がここまで出かかっているというより、変に頭が回るせいで付け足したい情報が増え、要点を見失っていくタイプらしい。普段の不明瞭な早口は思いつくことを片端から言葉にしているせいだろう。

『宝石を担保に借金は叶わず。ある事件をもって当家の信用落ちたり。こそこそした売却にて食いつなぐ』

『何のお話でしょう』

『雑貨商への払いも可能なかぎり引き伸ばし』

『さっきの、手文庫を監査って何？』

『かかる財布事情を知りてなお仕えてくれるメイドなど、とてもおらぬと奥も余も諦めはついて』

『遠まわしな嫌味なの、それとも警察を呼ぶって脅し？』

『鉛筆は見づらい。インクにて頼む』

　卿が書いているそばから、レオニーは鉛筆書きで割り込んでいた。台所のチビた鉛筆は脇に転がし、万年筆をもぎ取る。鉛筆書きの数行を、レオニーはそっくり写した。

　バーナビー卿は小首をかしげて読み、ペンを取った。

『ケンカ腰は何ゆえか？　そなたのヒゲにクリームはあるか？』

「……はい？」

　レオニーはどうぞとペンを押しやった。

『失礼。ヒゲとは猫のヒゲである』

　ペンが来て、レオニーは突っ返した。

『出典は、壷のクリームを舐めた犯人についての風刺詩』

　どう？　と卿の目が訪ねるが、レオニーは首を振り続ける。

『つまりヒゲにクリームをつけた猫と言ってそなたを咎めるつもりはないのだから、案ずるなとの意である』

　レオニーの動きがゆっくりと止まるあいだ、バーナビー卿は気をよくしてまた書いた。

『そなたを盗人と断ずるに足る証なし』

「これ……結局泥棒呼ばわりよね！」

　かん高い声を、卿はあたふたと制した。

「構わんのだ。盗られて困るものを置かなければいいだけの話で、雇い人に囲まれて暮らす者なら慣れっこなんだというのが分からんかな」

　早口で嘆きながら、卿は乱れた文字で書いた。

『メイドとはあちこち探り回るものなり』

　いかがと差し出された一文を、レオニーは呆れて眺めた。

「これじゃトドメだわ」

　旅行中、レオニーが洗濯屋の手伝いにやらされたのも合点がいく。ひとりきりのメイドに暖房を使われては不経済だというのは建て前で、本音は留守を預けるほど彼女を信用していないのだ。

「嗅ぎ回られても知らん顔を通してたなんて、恐れ入ったわね」

　意思の疎通のためでなく、レオニーは盛大なひとり言としてしゃべった。書く前に言葉にすることで、頭を整理できた。万一にも卿が理解することのないよう蓮っ葉な俗語にするのが小気味いい。

「で、あたしをどうしたいの。手ぶらで出てけっての、給料下げろっての。これだけは言わせてもらうけど」

　レオニーは紙をまっすぐにし、音読しながら書いた。

「私は、何も、盗んでません」

　知っている、もしくは委細構わぬという仕草で卿は片手を払ったが、急に目つきをキラリとさせ、ペンを催促してきた。

『盗難物がひとつある。愚息の理性なり』

『もとから見当たりませんでしたよ』

　卿はオオーとはしゃいで喝采し、レオニーは白々とため息を吐いた。

「何なのよ、機転合戦？　上手なこと言ったらお菓子がもらえるの？」

「ボンボン？　キャンディの？」

　書いたとおりの発音であるbonbonは活字としてのみフランス語に親しんだバーナビー卿にも聞き取れた。しかし前後の脈絡が分からない。

『甘味を使うとんちに思い当たらぬ』

　謎解きをぜひという顔で卿が紙を押して寄こし、レオニーはペンを受け取った。

「あのね……いつ、本題、に、入る、わけ」

　毒づく呼吸で押し書いたのは、フランス語会話の初歩例文だ。

『ご　用　は　何　で　し　ょ　う』

　卿は「なあんだつまらない」とペンを取り、さらさら書いた。

『無論のこと結婚の申し込みなり』