シルバースプーンレイク(5)

 居間を出たデレクはうきうきと階段を上がりかけ、見るともなしに下をのぞいた。ホールのつきあたり、台所に続く扉が開いている。足音をしのばせて壁づたいに戻り――細いすきまに顔を寄せた。

「レオニー」

 室内からかすかな叫び声が返った。

 デレクはすきまから長身を滑り込ませ、後ろ手に扉を閉めた。


「マドモアゼル、仕事熱心だね」

 粉の山はさっき見たときとあまり変わっていない。レオニーはもじもじとデレクを見上げた。

「僕は怒っているよ」

 レオニーの顔を不安がよぎった。片言の英語とフランス語を混ぜつつ、採用を決める面接のときから二人の会話は割と成立している。

 デレクはくるりと背を向けた。レオニーが短く声をあげる。

「白いかい?」

「白い」

「やっぱり。君の手?」

「そう、粉の手」

 レオニーは粉だらけの両腕をあげて笑った。デレクは情熱的な抱擁を楽しく思い出し、それはそれとして耳に手を当てた。

「君は、いい耳?」

 レオニーはたちまち笑顔をこわばらせた。うつむくと濃いブルネットがひとすじほつれ、呼吸にふわりと舞う。

「何が……聞こえた?」

 いろんなことをしゃべった。青ダイヤ、イミテーション、保険金詐欺―――。レオニーの睫毛(まつげ)が震え、デレクは待った。

「旅、遠く?」

「旅って、ああ」

 デレクは手を伸ばし、レオニーの頬をくすぐった。

「聞かれてしまったか。旅の手配にかかるって」

 こくりとうなずいたところを脅かすように、いきなり腰を抱く。

「遠くない。ほんのすぐそこ。モントリオール」

 床から足が浮いていても、レオニーの表情は動かない。デレクは首をかしげ、

「モォーンリアール、モンヘッアル」

 発音をいくつかこころみるうちレオニーがパッと笑い、喉を転がすような音でその都市名を発音した。

 ――遠回しな修辞ばかりの英国人の会話なんて、きっと暗号のようにしか聞こえないだろうな。

 下手くそな発音でモントリオールを復唱しながらデレクはふと思いつき、夜のような瞳をじっとのぞいた。

「粉の手形は、わざとかい?」

「ノン!」

 鋭く言ってレオニーが上体を離すと、今度はツイードの前立てにたっぷり粉が乗った。レオニーはそうっと両手をエプロンの胸元に引きよせた。

「背中、見えたけど、黙ってた……ごめんね」

 台所を出て行く自分の間抜けな後ろ姿を想像して、デレクはやれやれと目をつぶった。手形が居間でどんな騒ぎを引きおこすか、レオニーは聞き耳をたてていたのだろう。まったく――かわいいんだから。

 デレクが新聞に出した募集広告はごく安い給料しか約束しておらず、募集に応じてやってきたのはレオニーひとりだった。前の雇い主にいい紹介状を書いてもらえず、高給の職は望めないのだそうだ。

 レオニーが試すように見つめている。

 かわいそうに、これでは女主人にさぞうとまれたことだろう。顔を合わせたときから言葉がフランス語だろうが古スキタイ語だろうがどうでもよかったことを思い出し、デレクは身を震わせて笑った。粉のことは許されたようだと、レオニーは緊張を解いた。

「旅、長い間?」

 デレクは考えた。ホテル王に娘がいたとして、たまたま独身だったとして、うんと年上のオールドミスかもしれない。笑ってしまうようなご面相かもしれない。とにかくこんな見事なウエストラインではないはずだ。

「そう長くは行かないよ」

 レオニーを抱え上げてくるりと回り、そのまま窓脇に押し付けた。ぴったり張りついてしまえば誰からも見られる心配はない。

「一日で帰る」

 近々と囁くと、レオニーが励ますようにうなずいた。

「お天気、きっと続く」

「……?」

 互いにきょとんと見つめる。

「ストームクラウド。嵐が心配、違う?」

 レオニーの肩に顔をうずめてから、デレクは盛大に笑った。

「そうなんだ。ああ、ひどい雪にならなきゃいいな」

 デレクはちらりと窓を見やった。湖は台所側にも回りこんでいて、スプーンみたいな湖面がここからも見える。

 ――銀食器は手入れが面倒でいけない。スプーンなんか、めっきか真鍮でいいじゃないか。

 デレクは凍った湖に向けてウインクし、愛らしい顔に向き直った。



 盗むようなキスのあいだじゅう、レオニーはフランス語で考えていた。

 ――デレクは早口すぎるし、旦那さまの話し方はくぐもってる。でも奥さまの英語はときどき分かる。“新しいダイヤ”は、“もう残り少ない”。

 そんなもの、どこにあったのかしら? 本国では羽振りがよかったような話だからあちこち探してみたけど、奥さまの装身具だって、旦那さまの金庫だって、パッとしたものはなかった。どこかに預けているのかしら? 上手にたのめばひとつくらいプレゼントしてくれるかしら?

 薄く目を開くと気詰まりな距離で見つめられており、レオニーは追いかけるように下唇をついばんだ。デレクが両腕に力をこめた。

 ――さっきつけた手形が騒ぎになる前でよかった。ダイヤのことをちゃんと聞くまでは慌てて辞めることないわ。“残り少ない”ってことはまだいくつかあるってことよね、若さま?

 またしっかり目が合ってしまい、レオニーはデレクの鼻に指でちょんと粉をつけた。デレクが子供みたいにぎゅっと目をつぶって笑った――もう、かわいいんだから。

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