トゥルーブルーロジック(13)

 それからは金策の日々となった。

 辺境の冬は燃料がかさむ。今ある石炭箱が空になる前に、都会へ移る必要があった。


 最後から二つ目のダイヤを換金していた残りが手持ちのすべてだった。商店への支払いと引っ越し費用、どちらを優先させるとなれば、都会で現金がなくてはお話にならない。ツケの清算を後回しにするほかなかった。


「だが僕の魅力をもってしても、ツケを残したまま土地を引き払うなんてできないよ。それで世間じゃ夜逃げをするんだぜ」

「夜逃げするにもあたしたち、荷車ひとつないわね」

 邸宅は貸家だから仲介業者に任せればよかったが、家具を置いていかれるのは厄介だと、業者は引き取りを拒んだ。まだ羽振りがよかった頃に整えたものばかりなので物は確かなのだと食い下がれば、ならばと余分の手数料まで要求してくる。

「雑貨屋さんに頼めないかしら」

 一帯に呼びかけて家具の競売を催し、ツケの清算にはその売り上げを充ててくれという図々しい頼みには、さすがのオグデンもなかなか首を縦に振らなかった。とうとう旦那さまが店まで出向き、恥ずかしそうにこう言った。

「実はあんたらにしか頼めんのだ。ここだけの話、いかがわしいパルプ雑誌が大量にあってね。何とか人目に触れんよう処分してもらえんだろうか」

 オグデンの女房が呆れたように「まあ」と言い、卿は焦って両手を振り回した。

「出版社をやっとる知り合いが勝手に送って寄こすんだ。全く迷惑なことさ。あっちは好意のつもりだから編集方針に口を出すのも気が引けとったが、あんたのような健全な家庭人が見て、ひとつ厳しいことを言ってやるのもいいかもしれん。そうとも、奴に言って送付先を変更させよう」

「……何ですって、旦那さま、送付?」

「うむ」

 バーナビー卿は改心した書生のようにキラキラと彼女を見た。

「クズ本屋を良心に目覚めさせてやってくれ。最新号があんたのとこへ届くようにしよう。この先ずっと」

 女房はもう一度「んまあ」と言った。

 オグデンは所在なさげに二人を見比べた。

「えー旦那さま、うちのを信用してくだすって、何てえか、有難えことでございます。そんでお話戻しますですが、いてて、お前肘が」

「わかりました」

 オグデンの女房は亭主を押しのけて立った。

「あたしだってそんなもの見たかありませんがね。若い衆が手に取っちまう前に、誰かが目を通してやる必要はあるでしょうからね」

 結局、大工や卵屋、牛乳屋の勘定までを、ブランモート夫妻が競売の精算によって引き受けることになった。バーナビー卿は「こううまく行くとは」と首を振り、入れ知恵したレオニーはニヤリと笑った。

「ありゃ愛読者ですよ」

 愛読者は亭主に指図して、まず雑誌の山をそっくり自宅の屋根部屋に移させた。創刊号からズラリ揃ったコレクションはパルプ雑誌マニアを狂喜させ、競売の結果、売り手にひと財産をもたらすことになるのだが、それは数世代のちの話。



 夜逃げはせずに済んだので、一家は引っ越し準備にかかった。

 荷物は結局、夜逃げ同然に切り詰められた。

 バーナビー卿は寂しい書棚をほこりよけで覆った。

「眠れ、青春の蔵書よ。詩人すでに高いびきなれば」

 夫人は仕分けしていた書類の束を置いた。

「お好きなのだけお持ちになれば?」

「選りに選っても木箱ひとつ分になる。ここはきっぱり手を切るよ」

「競売で誰か買ってくれるといいけれど」

「当時の流行本だ、稀覯本というほどでもない。村の小学校にでも置いてもらやいいさ。フランス語を話す家庭は多いし」

「子供たちには迷惑な教材になりますね」

 デレクは布をめくって背表紙を眺めた。

 古典に反抗していればそれでよかった素朴な時代、声の大きい感激屋たちが理想を求めた新表現はやたら大げさで読みづらく、デレクはどれも序章で投げ出している。

「今はパルプ雑誌のほうが金を出して読まれているだろうなあ」

「これも、ある意味パルプものだろうよ。ロマン派は文学界を席巻し、言葉で世界を変えられると若者に信じさせ、頭の冷えた者から順に自然主義に移行すると、あっさり捨てられた」

「捨てない者もいたわけだ」

 デレクが片手を振り立てると、郷はどうもと頭を垂れた。

「我が忠誠も財布事情とともについえたりだ。イギリスくんだりからようこれだけ運んだわい。殿さま気分でおったのだなあ、今思えば」

「これからは本当に倹約しなければねえ」

「最後のダイヤは使えんからなあ」

「最後のひとつですものねえ」

「そうそう、ちょっと気になったんだけど」

 レオニーが裏声で割り込み、エホンと喉を整えた。

「ええと、ロイヤルオンタリオ博物館の求人って、本当にまだ生きてるの?」

 ダイヤから話をそらすための質問に他意はなかったが、ボソボソと英訳が回されるうち、レオニーは彼らお得意の取りすました表情に気づいた。

「まさか誰も確認してないなんてこと、ないわよね?」

「いえね、今から手紙を出したって行き違いになるし」

「連絡はまあ、トロントに出てからでいいかなって」

「よかないわ。肝心なことでしょ。信じられない」

「長距離通話になるし」

「あたしのお金を使います」

 レオニーはそう言って自分の手提げをつかんだ。デレクが大きな一歩で立ちはだかる。

「待てレオニー、共同回線でぜんぶ聞かれてしまうじゃないか。哀れっぽく働き口をせがむところをさ」

 レオニーは呆れて首を振り、さっさと戸口へ向かった。夫人が息子にショールを投げる。

「デレク、使わせてはダメよ。この家で唯一の働いて貯めたお金でしょ。大いばりで銀行に口座を開けるわ。最後のダイヤより貴重よ。ねえあなた」

「そうともデレク、最後のダイヤより」

「行ってきます!」


 雪のない戸外はキリキリした寒気にさらされていた。雪の最初のひとひらを期待して村の誰もがするように、デレクも人待ち顔で空を仰いだ。

「ダイヤのこと、もう感づかれてる気がするな……」

 レオニーはショールにくるまり、目だけで同意した。デレクはするりと風上に回った。

「二人がかりで隠蔽すればもう少しもつかと思ったが。かえって二人分のボロが出ているのかな」

 レオニーは歩きながら凍った岸辺を見つめていたが、ふと言った。

「湖に落っことしたって、正直に言ってみたらどうかしら。きっと冗談みたいに聞こえるわ」

 デレクは湖面に向かってうなずいた。

「なるほど。嘘つくときほど正直に、か」

「湖に落っことしたって思いましょうよなんて言うと、単に倹約しようって意味にも取れるし」

「なかなか味なレトリックをやるじゃないか、お嬢さん」

「ほんのバーナビー式ですわ」

 ダイヤの喪失には、何より自分たちが打ちのめされている。こわばった軽口も途切れ、ぴかりとするものであればつい目が追ってしまう近辺を過ぎて、二人はほっと身を緩めた。

「レオニー、トロントは暑苦しいくらいの英国人社会なんだ」

「どういう意味? 暖房費が助かるって意味?」

 デレクは盛大に白い息を吐いて笑った。レオニーがデレクの腕にすがった。

「言わずとも向こうから探りを入れてくるという意味。仕事のことは、落ち着いてからちょっとクラブに顔を出して、一杯やりながらそれとなく」

「それは旦那さまのやり方でしょう。庶民の職の探し方じゃないわ。まともな勤め人になるって言ってくれたのに、あれは嘘?」

「厳密に言ってそれは僕の言葉じゃないが」

 氷上を寒風が渡り、二人は身を縮めた。

「こりゃバーナビーさまあ」

 吹きさらしの湖畔は見通しもよい。人々は対岸からでも大声で挨拶を怒鳴った。

「名残りを惜しんでお散歩ですかねえ」

「うんいや、まあそう」

「火に当たって行きな、レオニー。あんたのオニオンスープのレシピを書いてってほしいし」

「ありがとう。ちょっと電話をかけに行くの」

「おやまあ、うちのを使えば」

「悪いわ。長距離だから」

「そうかね。長距離」

 斥候役の村人が報告を回線に上げるまでもなく、二人が連れだって歩く姿は今や猫が顔を洗えば雨が降るように確かなゴシップの前兆として知られており、湖畔の住人たちは、受話器を上げて待った。


 村の雑貨屋から申し込まれた長距離通話はトロント局。

「お話しください」

 交換手の声がして、デレクは唇の端を不自然に上げた。

「やあどうしてた……ふうん。僕はとうとう食い詰めて、今度トロントに舞い戻ることになったんだ」

 目の前にぽっかり開いた送話管の暗黒にしばし見入ってから、デレクは続けた。

「いや、金持ちの娘は捕まえそこねた。平民の女と婚約してね。ぱっとしない一族さ。社交界の付き合いもなくて暇なのはいいが、タダ飯の招待もない。フルタイムで雇ってもらえると助かるんだが」

 一定の間隔で相づちを打っていたデレクは、片手で送話管をふさいだ。

「臨時のときと同じ待遇を期待されちゃ困るとさ」

 レオニーのためにフランス語で言い、急いで声の調子を戻す。

「もちろんさ。詳細な目利きが要求される出物なんて、そう頻繁にあるわけじゃない。普段は目録付けからホコリはたきまで何でもするよ。実際、倉庫仕事なら気が休まるね。知り合いに会わずに済む」

 デレクはラッパ管のコードをひねりながら天井に語りかけた。

「だって、本国で僕のコレクションに感心してた輩は例の冗談を言うだろう。僕の目が確かだって強調してくれるのは有り難いがね。ほら、陶磁の馬の真贋を見誤ることはない男だが、競走馬の足なら、一本二本数え間違うこともある」

 声を揃えて言い終えたらしくわははと笑い、雑音がひどいとか、電話会社は必要ない回線を増やして儲けようとしてるとか、たわいもない愚痴の交換があってから、デレクは勢いよくハンドルを回し、交換に通話の終了を告げた。

 電話ブースの半扉から、まずレオニーが押し出された。

「終わり? ちゃんと仕事はもらえたの?」

 デレクは「そう言ったろ?」と目を丸くし、交換が告げた額の硬貨をカウンターに並べた。

「君も分かると思ったのに。雑音のせいではっきりしゃべったから」

「分かったけど、だってすごく偉そうだったわよ」

「僕としては、膝立ちでにじり寄ったに等しいんだぜ。自分から過去の悪評に触れたんだから」

 奥の交換台ではオグデンの女房がヘッドセットのまま、突如登場した馬の謎に頭をひねっているはずなので、レオニーはひそひそ声で言った。

「小銭をかき集めて汽車に乗ろうとしてる人には、とても見えなかったわ」

 デレクは懐をぺしょっと叩いた。

「これで切符は三等になった」

「一等で行くつもりだったの!」

 金物や農具が賑やかに吊された通路を抜けながら、デレクはチッと舌を鳴らした。

「二枚だけね。年寄り二人を一等へ片付けておきゃ、僕らはぎゅうぎゅうの三等席で好きなだけくっついていられたはずなん……」

 レオニーはあたふたと店内を振り返り、デレクを押し出して二重扉を閉めた。



 出発の日は雪がよく積もり、駅までは快適な橇の旅になった。

 蒸気や警笛に邪魔されて別れの挨拶は幾度もやり直され、もう行くもう行くと急かす割にいつまでも出発せずにいた汽車もしまいに動き出して、結局聞き取れなかったセンテンスと言い終わらないままの常套句を切れ切れになびかせながら、雪景色を遠ざかっていった。

 ちぎれるほど手を振っていたオグデンは、女房に促され、線路を戻りながら鼻をすすった。

「めったにない方々だったなあ。王家と縁続きだとか、ボルドーのシャトーだとか」

「お前さんまさか、あんなホラ話を信じてるんじゃあるまいね?」

 吹き出しかけている女房に、オグデンはぐいと顎を引いてみせた。

「だってお前、台紙に張っ付けたワインラベルをいただいたじゃねえか。お話の通りブランモートの綴りにゃフランスのシャトーの名残りがあったろ。な、ブラーヌ・ムートン」

「あんなシールの切れ端が何だっての」

 馬橇を停めた広場まで歩きながら、オグデンは「だってお前」とつっかえながら考えをまとめていたが、唐突に話を継いだ。

「あんなシールの切れっ端をさ、こんな僻地にまで、書類ばさみに何冊も持ってらっしゃるんだぜ。流れてきたお貴族さまでなくて何だ」

「そうだろよ、せいぜい……、あれ? ……いやいや、あたしゃ信じないったら」

 女房が早口になり、優勢を嗅ぎ取ったオグデンは落ち着いて馬の首をさすった。

「レオニーだってそうだ。カトリックを棄教するってえじゃねえか。カトリックと結婚すると旦那が王位継承順からはずされるもんだから」

「それこそ冗談口だってんだよ、バカだねこの人!」

 女房は景気よく板を蹴って靴底の雪を落とした。座席にすとんとおさまりながら膝掛けを広げる。

「逆だよう。バーナビーさまが英国国教会なのを、冗談で紛らしてんのさ。レオニーのおっ母さんはケベック司教区系の救護院でコックをしてるんだが、ケベック司教と言やトロントの英国国教会とは犬猿の仲だろ。とても式には呼べないんだって。かわいそうに」

「ふうん」

 オグデンはゆっくり馬を引いてやり、座席に上った。

「まあ、あれだ。半休もらってちょっとトロントへ来いなんてわけにゃいかないだろうよ。子供の婚礼に立ち会えねえ親なんてたくさんいらあな。おうおうっ」

 太い声でオグデンが促すと、馬は風を切って走り始め、女房はふるると身を縮めた。

「ほんとに遠いよね。モントリオールからまだフェリーでずいぶんかかる田舎だって。……一体どっから知り合いになったんだろ、あの二人」

「さて。デレクさまはトロントが暑苦しいとかで、銀行やなんかはわざわざモントリオールまでお出かけだったが」

「そのついでにメイド探しをなさったんだ。思し召しだねえ」

「川で溺れて宝玉をつかむなんてこともあるさ」

「あやかりたいね……」



 春になり、湖の氷が溶けるとダイヤモンドは水中に落ちた。

 夏の日にボートの底をガリガリとこすり、なまず狙いの釣り人に舌打ちをさせた他は人目に触れることもなく、そそっかしい魚が吸い込んでも硬いのですぐに吐き出され、比重の大きさからより深い泥の底へと沈んだ。

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