ムーンライトマーマレード

シガレットビタースノー（３）

「ピーター」

「クレア」

　私たちは一歩ずつ踏み出した。仲直りしたカップルみたいに歩み寄るんじゃなく、吹きっさらしの道の先へ。

　私たちはまた追いかけっこを始めた。

「一体どうしたいのよ。何をしに来たの。そんなこと話して、どうしたいの――」

　みんなが辛い思いをしたのに。パパは大金を踏み倒され、ママは無邪気な憧れをすまながり、スーザンたちはどんな手厚い紹介状も有名なダイヤ盗難の関係者と添え書きされるに等しくなった。そして私はすっかり傷ついて、二度と誰かを好きになったりしないなんて思い詰め、こうして打ち明けられた挙句「一緒に逃げよう」なんて言われたいとか思ってる。あれれ、どこからおかしくなった―――。

「クレア」

　痴話ゲンカと間違われるくらい親しげな呼び方をされているうちに、調子が狂ったんだと思う。もうどこへ向かっているのか分からなかった。

　ひとつ分かることがあった。ピーターは本当に、ただ話をしに来たのだ。

　私に聞かせたかったのだ。

「あなた、自分がどれだけ力があったか見に来たんだわ。人をどれだけ傷つけられたか分かってさぞ気分がいいでしょう」

　早足の勢いに釣り合うように、凍った風が吹き付けた。

「おあいにくさま。うちは落ちぶれたけど、パパはミセス・ギールグッドに出資して悠々暮らしてるわ」

「あのマーマレードは売れると思っていたよ」

　退職金としてパパがお金をやり、ミセス・ギールグッドにすすめて始めさせたマーマレード販売は大当たりした。今では全国展開のブランドになっている。

　私がいる貿易会社も実はマーマレードがらみで、扱う輸入品はミセス・ギールグッドこだわりのスペイン産オレンジだ。彼が今日送ってきた瓶もミセス・ギールグッドのブランドだった。

「あの甘いのなんかより、ずっとずっとおいしいわ」

　肺まで冷え切って息が切れ、少し歩調をゆるめた。

「食べた？　あのときのあれ……」

「捨てたわよ」

　肘に手が添えられようとしていて、私は身をかわした。

「差出人不明の小包なんて、毒でも入ってたら危ないでしょう」

「毒は入れるつもりだった」

　足が勝手に止まり、彼が追いつくのを待った。

「あんな騒ぎの後に怪しい小包が来たら、当然警察が調べて、毒物を検出するだろうから」

　血がザーッと下がったみたいにめまいがした。

「あの事件で、僕にどこまで深刻な追っ手がかかるのが分からなかった―――宝石をすり替えた宝石泥棒なら、国外からでも分かるくらい大きく報道されるだろう。でも盗難かどうかもはっきりしない家宅侵入で片付けられたら、何をどこまで疑われているのか、どういう場所を避ければいいのか、見当もつかない。毒殺未遂犯くらいの派手さがあれば、何年経っても捜査規模の縮小具合が分かると思ったんだ」

　彼は戻ってくるつもりでいたのだ。ロンドンにいようと決めた私のように。

「宛て名を旦那さまにすればと思ったけど、間違って君に何かあるかも …… いや、旦那さまなら用心深いからすぐ通報なさるって意味だよ。誰が毒を口にしてもいけないわけで」

　ちっともかっこよく決まらない泥棒は、今こそ誰かに肘を支えてもらいたくなってる私からもじもじと離れていく。

「結局センチメンタルな記念品のつもりで君宛てにしたけど、かえって怖がらせたね。信じてくれなくてもいいけど、マーマレードには何も入れなかったんだ」

「信じるわ」

　ピーターはぴしゃっとやられたミセス・オルグレンみたいに黙った。

　信じていた。口封じなんかじゃない、毒なんか入っていないと分かってた。

　だから食べた。彼が私に死んでほしいと思っているわけがないって、ちゃんと知りたかったから食べた。

　やっと分かった。私はあのとき、死にたいと思ったんじゃなかったんだ。私の恋はそんな破滅的なメロドラマじゃなかった。

　ずっと忘れていたけれど、シロップ多めの恋愛小説が、何より好きだった。