ムーンライトマーマレード(3)

 ピーターが終了の礼をするまで、手を払いのけるのを我慢した。

「本番ではもっと強く蹴るから、相手は完全にすっころぶ予定よ」

「そいつは手加減をありがとう。だが男なら誰だって抱きつきますよ」

「……」

 絶句する以外になかったが、彼も冗談の効果が思ったほどでないことに面食らったようだ。

「女性に怪我をさせるって頭に浮かべば、まず相手を引きよせるんじゃないかなあ」

「そう」

 私はショールをかき寄せ、理性もかき集めた。

「なら作戦には修正が必要ね。嫌な相手を退散させるのが目的なんだもの」

「レディならどんな相手でも一曲お付き合いしなけりゃあ」

 言われなくてもそれが大人の社交ってものだ。

「一曲は我慢する。二度と申し込んで来ないようにしたいの」

「デレク・バーナビーも気の毒に」

「デレク・バーナビーをすっころばせたりしないわよ」

 フルネームが軽々しい扱いを受けているのは二十八歳の子爵令息さまだ。三年後の私の初舞踏会で、一番にダンスを申し込んでくれる予定になっている。

 趣味は競馬とゴルフと美術品収集。どれも私には異文明の産物だったが、デレクは十五歳とのおしゃべりの種をひねり出すためなら、自分の趣味はいっさい脇に置いておくことができた。

「じゃ、彼にはくるぶし作戦で?」

「何?」

「クレアさまがお嫌な相手にはつま先をギュウ。好意を感じた相手には、くるぶしをお見舞いすればいい。ぐっと接近できますよ」

 さっきみたいにと片目をつぶったが、私が顔をこわばらせたらしく、ピーターの笑顔も宙ぶらりんになった。

「それは……大した高等技術ね」

 気分を害してもそのまま退席してはいけない。悪い印象を残さないよう、とりとめのない会話を続けるべきです。

「でも私、おやすみ」

 緊急退避。社交の手引き未婚淑女編に、暗い部屋で二人きりの用例は載っていなかった。

 自分がはすっぱな軽薄娘みたいに思えて、かんしゃくを起こしたアヒルの童謡に無理に歩調を合わせながら、一目散に調理場を出た。



 翌日からはすっかりにぎやかになった。爵位のある人、ない人が来ては去り、私も社交の席につらなった。正式のデビューではないのでお昼やお茶に何となくいるという程度だ。

 お客の中にはデレク・バーナビーもいて、こころよく舞踏会のリハーサルに付き合ってくれた。枝葉を省略して言えば、デレクは私を突き飛ばし、自分はソファーに軟着陸した。

 まあ私も悪い。くるぶしかつま先かで迷っていたら狙いがはずれて、おかしな具合に足を引っかけてしまったのだ。とにかく軽い打ち身ですんだ。軽薄娘の反射神経をもってすれば、いちいち抱きよせられなくたって受け身は取れるのだ。

 白けた空気を払拭しようと、デレクは従者にジュエリーを出してこさせた。バーナビー家伝来の家宝、ストームクラウドだ。パーティの余興にご披露しましょうと以前約束したのを覚えていて、気軽に持ってきてくれていた。

 クリスマスプディングくらいある大型ケースが開けられ、首の傾斜らしく作られたスエードの起伏に、それはポコンとはめ込まれていた。

「“嵐の前ぶれ”」

 装身具としてはおだやかでない二つ名は、大きな主石のどんよりした青灰色を見ればうなずける。古めかしいカットの青ダイヤは色こそ良いほうではないらしいがとにかく大きく、ハイカラー(高衿)タイプの幅広なチョーカー部分には取り巻きダイヤが列をなしていて、胡桃大の主石は鎖骨のあいだにぶら下がるようになっている。

 という話だったけれど、私の首では細すぎてどうやってもダラリと落ちてしまった。

 子爵家の肖像画のレディたちは、ダイヤきらめく幅広の鎖をそれぞれのサイズに合わせ、詰めたり足したりして使ってきたそうだ。

「昔の女性はずっと小柄でしたからね。このあたりのは、皆新しい時代のダイヤなんですよ」

 デレクが指さしてみせる留め金付近は私の太い一本お下げの下だ。従者がうやうやしくお下げを持ち上げてくれそうで、私は急いで自分から聴衆にうなじを見せた。

「クレアさんに合わせて詰めたら、あまったダイヤでもう一本ネックレスが作れそうですね」

 すました口調で言われても、どう答えていいか分からない。

 私に合わせて家宝のネックレスを切るってことは、つまりあれだ。しかしそこまで重く解釈しないのが、こういう場合のアレである。知ってる。『ガールズ・フィロソフィー』の特集「品の良い機知とは」で読んだ。

 そもそもこんなおとなの人が、少女雑誌を購読する子供に大した尊敬の念を持っているわけがないのだった。きっと私の持っている他のものが、デレク・バーナビーには魅力的にうつるのだろう。うなるほどの持参金とか。

 ピーターなら何と言うか、意見を聞いてみたかった。昼間はなんだか話しかけづらく夜ならと思ったが、こんな具合にうちでお茶があったり、よそで音楽会があったりするせいで、使用人たちは待機しておく必要があり、遅くまで誰かしら起きていた。深夜に調理場をうろつくことなどあのダンスの夜以来できなくなっていて、ピーターがうちを辞めて出て行くときも、急に遺産が入ったので外国に住むだとかそんな理由を、みんなの前で聞かされただけだった。



 夏休みはまだ半分以上残っていた。

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