シガレットビタースノー(4)
「……ありがとう、信じてくれて」
ぽかんとしながらピーターが言って、そのままどれくらい立っていたのか分からない。気が付くと風に雪が混じっていた。
空を見上げた彼の顔にも、雪の粒がぴしゃぴしゃとかかる。
「降ってきた。どこか入ろう」
ピーターはそう言って私の背中を押し、小走りに歩道を進んだ。道の向こうの、パン屋と一緒になったようなティールームを目指している。
たどりつくとそれはどこにでもあるようなチェーン店で、内装は明るく押しつけがましく、他人のテーブルは見えないものとしておしゃべりに熱中する人々がいた。
ガラスの扉を押し開けたピーターを、ちょっと引っぱった。
「おかしな意味に取らないでほしいんだけど」
私を通そうと彼は振り返っている。
「私の部屋に来ない?」
やっぱりそういう意味にしか聞こえない。
私は店内を目で示した。
「ここは……にぎやかすぎる」
彼と何かを話すのなら、あのなつかしい調理場のような、穏やかでくつろげて、月明かりにほのぼのと包まれるような場所がいい。そういう意味に、取ってくれるだろうか。今夜は月は見えないけれど。
出て来ようとするお客がいて、私たちは押し出された。
キスできる距離。私はあれから大して背は伸びなかったけれど、かかとのある靴を履くようになった。
「――いいの?」
「だから、変な意味じゃないったら」
私が歩き出すと慌てて彼もついてくる。
「変な意味に取る人だっている。近所の目とか」
「大丈夫よ。私が先に入って裏口をあけておくから……いいえ、裏口はリースさんに出くわすかも。一階の家主さんなの。ええと」
目にあたる雪粒を避けながら、頭の中で下宿の周りをぐるぐるしていると、
「だったら僕の部屋に来る? いやこれはもっと変だ」
ピーターの靴音が細かくつっかえた。
「どこに住んでるの?」
「まだホテル住まいだ。安ホテルで……まったく問題外。ごめん」
慌てぶりからホテルの格式を察するに、部屋まで彼と同道するにしても別々に入るにしても、私はそういう女に見られてしまうのだろう。
「お金がないの?」
本当に心配になってたずねたが、男性の懐事情をあけすけに聞くべきじゃなかった。懐かしの『社交の手引き(未婚淑女編)』を引くまでもなく。
「大きなホテルは、知り合いに会いそうで厄介だからね」
持ち金あたりからは論旨をずらし、ピーターは男のプライドと私の失言の両方を救った。
私はほっとして、場末の安ホテルの暗い一室、まだ荷物も解かれていない小さな部屋を思った。
彼と一緒に長い時間を旅してきた、少し見慣れないさまざまなものたち。
異国のにおい。
「どこにいたの? 何をしてたの?」
何を考えながら、私にすべて打ち明ける日を待っていたのだろう。どうにも言い回しがロマンチックになるけど。
「あちこち行ったよ。アルゼンチンへ行って、チリに入ってアメリカ……」
「そんなに?」
私は目を丸くした。ズラリと並べられたって見当もつかない。
「足取りがたどりにくくなるかと思って」
犯罪者の臭跡偽装だった。パーティで聞く外周自慢よりずっといい。
「あとはヨーロッパに戻って、イタリアでイギリス人会計士の助手みたいなことをやってた。こっちは全くきれいな商売として」
「あなた、すごく変わったわ」
秘書のふりしてた頃とは違って、言うことがすごく犯罪者っぽい。とは言わなかったのに、ピーターはちょっと傷ついたみたいに目をしばたたかせた。
「“クレアさま”が、こんな大人の女性になったわけだもの。年を取ったよ」
「そうじゃなくて、何て言うか……においが変わった」
「自分じゃ分からないけど」
「外国のにおいみたい」
「たばこかな。イタリアのたばこは、こっちとずいぶん味が違ったから」
雪の粒が吹きつけて彼の唇の上で溶けた。水滴は、イタリアたばこの味になったのだろうか。
小説ではない本物のキスがたとえ期待したほど甘くなくても、私は“うへえ”なんて言わないつもりだ。
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