トゥルーブルーロジック(8)
「世俗感覚と言えば」
サムシング・フォーは着々と進行中だ。
「雑貨屋さんに借りてもいいわね。とても朗らかでいい夫婦だもの」
サムシング・ボロウは何かひとつ借りたもの。夫婦ものの隣人からハンカチやアクセサリーを借り、幸せにあやかる。
デレクは頭の後ろで手を組んだ。
「このうえ何か貸してくれますかね。ツケでいっぱいの不良顧客に」
「もちろん支払いはきれいにしていくわよ。ダイヤはまだあるのだし」
ポケットの包みを気にしている息子のほうを見もせずに、夫人は肩をすくめた。
「これからはずいぶん出費も抑えられるでしょう。ビクビクと蓄えておくこともないのじゃなくて」
集合フラットは全館暖房だし、市街ならトロリーがあるしと、夫人は都会暮らしの利点を数え上げていく。
デレクはいちいちまぜっかえそうと試みたが、悔しいことに母親の言うとおりなのだった。
現在の住まいは昔の毛皮の交易所だ。旧式の暖房などあちこちガタは来ているものの、鉄道が通る前、湖上水運の中心地だった時代の名残りをとどめ、そこそこの構えをしている。厳冬期に信用できない自動車より馬車の方が頼りにされている辺境なればこそ、これくらいの邸宅を持つことは可能だったが、トロントのような大都会で“旦那さま”の体裁を保ち続けるのは難しくなるだろう。予算を聞いて安いほうの生地を勧めてきた仕立て屋にするように、デレクは静かに誇りを引っ込めた。
「事務員にふさわしい暮らしとなると、そうなりますね」
「事務員」
どうしてそんな風に呼ぶのか分からないという顔を夫人は上手に作った。
「美術館づとめは品のある職業でしょう。ほら美術的だし」
「使い走りをやらされるに決まってますよ。どれを買うべきか分からない成金に付き添ってオークションに行ったり、『触らないで!』って叫びながら団体客を誘導したり」
こりゃ楽しそうだ。デレクはしょんぼり座り直した。脅かすようなことを言って釘を刺したいのに、生来の娯楽体質に邪魔される。
愚痴をこぼしつつ軽妙洒脱でいようとするのがバーナビーのやり方だった。そもそも大枚はたいた宝石を素直に自慢せず、「えらい散財だ、財布がストームクラウド」と騒いでみせた祖先からしてひねくれていたのだろう。
血ではなく、順応によってその伝統を受け継いだのがデレクの母親だった。
「でサムシング・ブルー。これはもう青リボンのガーターあたりで手を打ちましょ。一般的なところで」
「はいはい。プロポーズの返事ももらわないうちに式の打ち合わせをしてる僕らは、全くもって一般的じゃありませんがね」
夫人は唇をつむって表情を作り、これがバーナビーとして真っ当な対処法だと主張した。
電話を引いていない自宅の様子を、今夜のうちに知ることはできないのだ。だったらサムシング・フォーでも数えて過ごしたほうが心楽しい。そして「冗談に決まってる」という態度を十分に取っておけば、期待が裏切られたときも慌てずに済むというもの。夫人はますます考え込んでみせた。
「お金はもう一切がドル建てね。外套の袖やなんかからひょっこり六ペンス玉(※花嫁の靴に入れて幸福を願う)が出てくるといいんだけど。代用するならどれになるの、五セント、十セント」
「十進法でも十二進法でも、スーでもペニヒでもご自由に。彼女が靴を渡せばね」
デレクは耐えられずに立った。
「あの言っておきますが。実際のとこ僕らは、僕と彼女は……互いに忠誠を誓い合ったというのでは、まだないんですからね」
夫人は「あら」と言ってどぎまぎとクッションのへりをいじった。ズバリ言う表現には慣れていない。
「でもある程度は、その、確信があるのでしょ。違うの?」
「そりゃまあ、ええと」
息子のほうも調子が狂っていて、歩きかけたり座ったりし始める。右へ左へする姿を、バーナビー卿夫人は目で追った。
「てきぱきとなさい。事務員でしょう」
「あはは」
デレクは子供みたいに目をつぶって笑い、助け舟に敬意を表した。
さんざん威勢のいいことを聞かされてきた息子の相手が結局メイド。そんながっかりする成り行きに、真っ向からがっかりしていたくない。そんな母親の気持ちが、デレクには分かりすぎるほど分かった。ここまで通じ合ってしまったらもう、はぐらかし合う以外には落ち着けないのだ。牛飼い同士の苦労だなと、デレクは新大陸のカウボーイの写真を真似てベルトに指をかけた。
漁師とならうまくやれると言ったって、誤解が重なるときは相当に厄介だ。しかしレオニーとは、気持ちを伝えようと協力する羽目になるところがよかった。
片言をありったけ並べてはより分けしているうちに、不明な部分がふとほころぶ。もどかしい「そうじゃなくて」を頼りにあと少しまなざしを探れば、自分への好意に行き当たるはず。そんな馬鹿げた自信を深め出したのは、いつの頃からだったか。
デレクはのろのろと腰を下ろした。
「あの子はまあ、僕のことを好きなんだと思うんです。あれどうだろう。よく分からないですね……」
驚きの事態に、バーナビー卿夫人はどんな表情も作れずにいた。
高慢ちきで、うわべばかりでウソつきで……、よくいる富豪の令嬢のように滑らかな冗談口で身を鎧っていたデレクが、内心を無防備にさらして取り繕いもしない。これこそ最高の冗談のように思えて、夫人はひくひくする頬を抑えた。
「一般的に言って、デレク。分からないのが普通よ」
震える声はかえって感情豊かで、デレクはむすりと背中を向けた。
湖畔のバーナビー邸では、一般的でない話し合いが佳境を迎えていた。
関連用語はあらかた再定義を終え、場に札が出揃っている。書いたものを指さして使える便利に双方が慣れ始め、書く速度としゃべる分量が釣り合おうとしていた。
レオニーは片手を腰に当て、文面をトントン叩いた。
「何が我慢ならないって、こうしてあなたがしゃしゃり出てきたことよ。放っとくとあたしが何もかも持ち逃げするとこだったって、言わんばかりじゃない」
「そうでなかったと誰が言える?」
言いながら卿はペンに飛びつき、口から出た勢いが死なないうちにと書きつけた。
レオニーもすぐさま応じた。
「誰にも言えませんとも。あなたにもね。道理にかなった待遇をいただけりゃ、あたしだって忠誠を尽くすわよ。他に行き場はないんだもの」
「ははん、行き場があれば? うんと良い条件であんたを引き受ける誰かが出てくれば? 条件次第で変わってしまう、そんな忠誠なら初めから引っ込めておくがいいよ」
互いにほとんどしゃべりながら書いて、読む。
「色々あって心変わりなんて誰にだってあることじゃない。結婚してたって」
「熱が冷めりゃ既婚者も囲われ者もなし、はいサヨナラ? パリの女優じゃあるまいし。そういう気ままを許すわけにはいかんと言っとる」
「言っときますけどあたし、デレクには最初から色目を使われていたんですからね」
「ん、知っとった」
卿は既出語を指さすだけで済ました。レオニーは目を丸くして書いた。
「気づいてた、奥さまも? あらそう、意っ地の悪い夫婦!」
「台所をウロチョロして、お決まりの隠し立てやらごまかしやら、そりゃピンと来るさ。わしに言わせりゃ」
レオニーは仏頂面で片肘をついた。あっちこっちと単語を指さす。
「いつもの手口ってわけね。お得意の」
「見ちゃおれん。考えなしにもほどがあるというのだ」
「それ、もっと早いうちに言ってやるべきだったんじゃないの」
「少しは賢くなっとるものと思っとったわい。ところがあれは結局のとこ、雇い人との距離の取りようを知らん。そりゃ余裕のあるときは、はしっこいメイドと間抜けな旦那の定型を楽しむぐらいよかろうよ。だが家庭の労働者はあやつの専門とは扱いが違う。オペラ歌手だの女優だの、自分の世話は自分でできる女と同じに行くものでないというのにあのぼんくらは……」
「ちょっと、ちょっと待って」
レオニーは演説と筆記を両方押しとどめた。調子を上げていた卿のペンはさらに数語を走って止まった。
「どうしてさっきからちょいちょい女優が出てくるの」
数行ずつさかのぼる。ぼんくらが好んだのは、パリの女優にオペラ歌手。家庭の労働者は専門外。
「じゃ、台所をうろつくいつもの手口って誰の手口。あとメイドとの恋愛ゲームがやけに弁護されてる気がするのよね……」
レオニーは文面に見入った。
筆談の都合であちこち指示語が抜け落ちている。行間を読んだつもりで補った部分に、二番煎じの模倣者にイラ立つ先行馬の立場をあてはめてみると……。
間違いない。台所遍歴の場数を誇っているのは、卿自身だ。
「雇い人とこそこそする人種って、あなただったわけ?」
レオニーは両手で顔をはさみ、へなへなと卓に寄りかかった。
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