第31話

 久し振りにお腹一杯食べた、と言いたい所だが、そうは問屋が卸さなかった。

 何せ、三人分の食事を五人で分け、おまけに追加分の二人がお腹(なか)を空かせた男の子ときている。

 そうなると、新参者の私がでしゃばる訳にもいかない。


 普段の倍ぐらいの回数で口に入ったものを噛み締めながら、食卓を探ると、向こうの皿に、粽子(ちまき)が一つだけ残っているのが目に入る。

 ……あれは、もらっていいよね?

 手を伸ばすと、赤黒い手が重なった。

 目を上げると、阿建のギョロ目がカチリとぶつかる。


「阿建」


 蓉姐の低い声が刺す風に飛んだ。


「あんた、さっき、散々つまみ食いしたでしょ」


 それを聞くと、阿建はしぶしぶ手を引っ込める。

 ……どうして、姐さんじゃなくて、私を睨むんだ。

 素知らぬ顔で阿建から目線を外すと、私は冷えかかった粽子を取る。


 粘っこい粽子はそのままだと喉に詰まりそうなので、茉莉花茶と一緒に飲み込んだ。

 二番煎じでも、香りは芳(かんば)しい。

 これも、結構高い茶葉なんだろうな、と思いつつ、小明の方を窺うと、湯飲みに目を落としたまま、何だか苦い薬でも飲まされた様に難しい顔をしていた。


「で、」


 偉哥がまた煙草に火を点ける。

 さっき小明や阿建が吸っていたのとは煙の匂いからして全然違う。

 お茶葉と同じで、多分、煙草にも銘柄があって、その中にも高級品や安物があるんだろう。


「お前ら、どうしてここに来た?」


「屋台で、昨日の奴らに遭いました」


 小明が声を潜めて答える。


「何人いた?」


 くわえ煙草の偉哥の眼光が鋭くなる。

 大きな二皮目(ふたかわめ)に収まった斜視の双眸が、獲物を窺う鷹(たか)じみて映った。


「四、五人です」


 答える小明の目も、奥二重の睫毛の奥から冷たく光る。

 私は鳥肌が立つのを覚えた。

 さっきまで台所で寂しく笑っていた男の子とは、まるで別人だ。


「もっと居たぜ」


 阿建が口を挟む。


「あいつらに出くわす前に擦れ違った奴らも、同じ寧波(ニンポー)訛りだったんだ」


 不思議なもので、こちらもギョロッとした目玉が本当の野猪(いのしし)みたいに獰猛に見えてくる。

 ――野猪にぶつかると骨が砕ける。

 昔、母さんから聞いた話を思い出した。


「四馬路(スマロ)で俺らが出くわした連中の仲間さ」


 偉哥の言葉に、蓉姐も煙草を燻(くゆ)らせながら黙って頷く。

 表情のない真っ白な顔の中で煌く茶緑の目は、熱しても決して温まることのない翡翠の様に見えた。


 私は湯飲みに残った茉莉花茶をゴクリと飲み干す。

 全員、食べ終わったみたいだし、さっさと後片付けをしよう。

 皆が今、話し合ってるのは、私には全然、関係ない話なんだし……。


「お茶、お代わりを淹れてちょうだい」


 空になった食器と急須を盆に載せて立ち上がった所で、長椅子の蓉姐が声を掛ける。


「はい」


 何も考えずに頷くと、小明が無言でマッチ箱をポンと卓上に置く。

 そうだ、コンロで沸かすんだった。

 黙って型崩れしたマッチ箱を受け取る。

 小明の小作りな横顔は、偉哥の方を向いたまま微動だにしなかった。


 そろそろ沸く頃かな?

 流しで食器を洗いながら、私はコンロで青火にかけた水壷(やかん)の様子を窺う。


「大丈夫とは思うけど、階段から降りた方がいいわ」

「ああ。お前も出る時は気を付けろ」


 廊下から蓉姐と偉哥の声とバラバラに入り雑じった足音が聞こえてきた。


「それじゃ、姐さん、お邪魔しました」

「どうも、ご馳走様です」


 小明と阿建の代わる代わる挨拶する声が耳に入る。

 あれ、もう帰っちゃうの?

 水壷がカタコト震え出したので、慌ててコンロの火を止める。

 せっかくお湯を沸かしたのに。

 玄関の扉が静かに開いて、またひっそり閉まる音が微かな震えと共に台所まで届いた。


「紅茶にして」


 玄関から戻ってきた蓉姐が廊下から台所の私に言い放つ。


「はい」


 返事する前に、姐さんは応接間に姿を消した。


 紅茶はまだ一杯分残っているのだっけ。

 小明の言葉を思い出しながら、私は流しの下を開けて“ASSAM”の缶を取り出す。

 蓋を開けると、紫蘇(しそ)に似た、不思議な香りがさっと広がった。

 缶の底に、赤黒い燃えカスみたいなものが一掴みほど入っている。

 確かに申し訳程度にしか茶葉は残っていない。


「これ、紅茶以外に使うんだった!」


 先程の急須からふやけた茉莉花茶の茶葉を捨てた所で、また小明の言葉を思い出す。


「まだなの?」


 食器棚から水差しに似た白磁の容器を取り出した所で、奥から蓉姐の棘を含んだ声が飛んできた。

 この声はまずい兆候だ。


「今、お持ちします」


 答えながら、新たに見つけた紅茶用の白い急須に一掴みほどの茶葉を入れ、水壷の湯を注ぐ。

 あ、これ、湯飲み三杯分のお湯だった!

 湯を全部注ぎ終わってから、思い当たる。


 お茶の濃さ、これで大丈夫なのかな?

 覗き込んだ急須の中の湯の色は薄っすら赤みを帯び始めてはいたが、「人の血みたいに赤い」状態には程遠い。


「飲んだら出掛けるんだから早くして!」


 姐さんの声が槍(ヤリ)になって飛んでくる。


 小明がもう少し残ってくれたら良かったのに。

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