第36話
「蓉蓉(ロンロン)、そろそろバンドの連中が来る」
総経理の手が花から離れた。
「これが新譜だ」
返す手で総経理は白い紙の束をこちらに差し出す。
「はい」
隙なく縮れさせた蓉姐の後ろ髪が素直に揺れた。
「彪哥(ビャオあにき)たちが来るから、明後日(あさって)の夕方までには仕上げろ」
「はい」
こんな従順な姐さんは初めてだ。
「お前と菱菱(リンリン)で、どちらが先に歌うかは話し合って決めろ」
「菱菱も歌うんですの?」
急に楽譜から目を上げたので、蓉姐の前髪がピョイと逆立つ風に大きく反った。
そういや、美容院で会った時、薇薇(ウェイウェイ)が「菱姐(リンねえさん)」という人の名を出していたな。
私は急速に思い出す。
薇薇が最初に希望していた「瑩瑩(インイン)」という名と音が被るとすれば「菱菱(リンリン)」だから、多分、今、話題に出ているのと同じ人だろう。
「彪哥たちが連れてくるのは、北平(ベイピン)*1からの客だからな」
北平、と口にする総経理の目が氷柱(つらら)の様に光る。
細く鋭い三白眼だ。
「西語*2の曲はお前で、国語の曲は菱菱だ」
抑揚のない語調は、しかし、疑問や反論を一切許さない響きを持っていた。
「分かりました」
頷く蓉姐の前髪が力なく垂れる。
この髪型、内心で思ってることがそのまま出ちゃうみたいだ。
形としてはかっつり整った姐さんの後頭を眺めて思う。
私も気を付けなくちゃ。
「西語の曲を洋人より歌いこなせるのはお前だけだ」
姐さんに語る総経理の三白眼がそこで糸になった。
この人は、笑うと目が無くなる型の顔らしい。
「北平のお大尽(だいじん)たちを驚かせてやれ」
「もちろんですわ」
蓉姐がどんな顔で答えているのかは、後ろに立つ私には見えない。
「それじゃ、私は失礼します」
出ていく蓉姐の目は、もはや私の事など忘れ去った様に、手元の紙に注がれていた。
濃紺の絹の旗袍が去った部屋には、馥郁(ふくいく)とした残り香が漂う。
蓉姐の匂いには、蓮に玫瑰(バラ)が混ざっている。
紅玫瑰(あかバラ)の香りを知った今では、それが良く分かる。
不思議な花だ。
私は花瓶に生けられた花々を改めて眺める。
花びらが渦を巻く様に寄せ集まって、中身を覆い隠している。
「さて」
白い煙が緩やかに流れてきて、赤い花びらの渦を浸した。
「莉莉(リリ)といったね」
「はい」
実を固くして頷く。
縮らせた前髪がゆらゆら揺れるのを感じた。
「申し遅れたが、私は姓を姜(ジャン)、名を達(ダー)という。」
手元の黒い灰皿に煙草を置くと、男は続けた。
「ここの総経理だ」
灰皿は色付きのガラスで出来ているらしい。
赤く燃え上がってはゆっくり灰に変わっていく煙草の先が、黒の地を透かして見える。
「お世話になります」
鼻を膝に着ける勢いで頭を下げる。
沈黙が流れた。
総経理の吐き出す煙草の煙は、吸っても咳き込みたくはならないが、代わりに酷く目に染みてくる。
そろそろ、頭を上げてもいいだろうか?
迷っていると、急に妙な音が耳に飛び込んできた。
カチッ! カチッ! カチッ!
思わず顔を上げると、机の上には、いつの間にか碁盤(ごばん)に似た四角い台が置かれていた。
カチッ! カチッ! カチッ!
台の面に交互に刻まれた白と黒の正方形の上に、馬や冠や塔を象った、小さな黒光りする置物が並べられていく。
カチッ! カチッ! カチッ!
支配人の手前側に黒の置物が揃ったかと思うと、今度はこちら側に同じ形をした白の置物が次々配されていく。
カチッ! カチッ! カチッ!
白の置物は象牙ででも出来ているのか、摘まんで置く総経理の指が妙に黄色く見える。
何、これ?
碁? それとも将棋?
「国際象棋(チェス)、出来るか?」
盤上に黒と白の置物が完全に向かい合って並んだところで、総経理は初めて声を出した。
「いえ」
逆三角形の目が首を振る私を捕らえている。
氷柱に似た、彫りの鋭い一重瞼の白眼は青白く、黒目は小さかった。
「分かりません」
普通の将棋さえ、私はやったことがないのだ。
「洋人の将棋さ」
逆三角の氷柱がすっと解ける風に姿を消す。
総経理は、どうやら笑ったらしい。
「それじゃ、私が指示を出すから、白の駒はお前が動かせ」
「あ、はい」
何でこんな話になってるんだろう……。
「じゃ、始めるぞ」
カチャリと手元の電灯を点けると、総経理は告げた。
蒼白い灯りに照らされて、黄味の勝った、鼻梁と眉の細い、顎の尖った顔立ちが全て浮かび上がる。
「白が先攻だ」
小さく薄い唇が囁いた。
「はい」
私はまるで骨を彫り込んで磨いた様な、白い置物の列を見下ろした。
とにかく、言われた通り、駒を動かせばいいのだろう。
筆者注
*1北平(ベイピン)……現在の北京(ペキン)。1930年代当時の中国の首都は南京(ナンキン)でした。
*2西語……欧米各国の言語。英語・フランス語・スペイン語・イタリア語等々。ここでは漠然と「西洋の言語」という意味で使われています。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます