第36話:支配人の部屋
「
総経理の手が花から離れた。
「これが新譜だ」
返す手で総経理は白い紙の束をこちらに差し出す。
「はい」
隙なく縮れさせた蓉姐の後ろ髪が素直に揺れた。
「
「はい」
こんな従順な姐さんは初めてだ。
「お前と
「菱菱も歌うんですの?」
急に楽譜から目を上げたので、蓉姐の前髪がピョイと逆立つ風に大きく反った。
そういや、美容院で会った時、
私は急速に思い出す。
薇薇が最初に希望していた「
「彪哥たちが連れてくるのは、
北平、と口にする総経理の目が
細く鋭い三白眼だ。
「西語*2の曲はお前で、国語の曲は菱菱だ」
抑揚のない語調は、しかし、疑問や反論を一切許さない響きを持っていた。
「分かりました」
頷く蓉姐の前髪が力なく垂れる。
この髪型、内心で思ってることがそのまま出ちゃうみたいだ。
形としてはかっつり整った姐さんの後頭を眺めて思う。
私も気を付けなくちゃ。
「西語の曲を洋人より歌いこなせるのはお前だけだ」
姐さんに語る総経理の三白眼がそこで糸になった。
この人は、笑うと目が無くなる型の顔らしい。
「北平のお
「もちろんですわ」
蓉姐がどんな顔で答えているのかは、後ろに立つ私には見えない。
「それじゃ、私は失礼します」
出ていく蓉姐の目は、もはや私の事など忘れ去った様に、手元の紙に注がれていた。
濃紺の絹の旗袍が去った部屋には、
蓉姐の匂いには、蓮に
不思議な花だ。
私は花瓶に生けられた花々を改めて眺める。
花びらが渦を巻く様に寄せ集まって、中身を覆い隠している。
「さて」
白い煙が緩やかに流れてきて、赤い花びらの渦を浸した。
「莉莉といったね」
「はい」
実を固くして頷く。
縮らせた前髪がゆらゆら揺れるのを感じた。
「申し遅れたが、私は姓を
手元の黒い灰皿に煙草を置くと、男は続けた。
「ここの総経理だ」
灰皿は色付きのガラスで出来ているらしい。
赤く燃え上がってはゆっくり灰に変わっていく煙草の先が、黒の地を透かして見える。
「お世話になります」
鼻を膝に着ける勢いで頭を下げる。
沈黙が流れた。
総経理の吐き出す煙草の煙は、吸っても咳き込みたくはならないが、代わりに酷く目に染みてくる。
そろそろ、頭を上げてもいいだろうか?
迷っていると、急に妙な音が耳に飛び込んできた。
カチッ! カチッ! カチッ!
思わず顔を上げると、机の上には、いつの間にか
カチッ! カチッ! カチッ!
台の面に交互に刻まれた白と黒の正方形の上に、馬や冠や塔を象った、小さな黒光りする置物が並べられていく。
カチッ! カチッ! カチッ!
支配人の手前側に黒の置物が揃ったかと思うと、今度はこちら側に同じ形をした白の置物が次々配されていく。
カチッ! カチッ! カチッ!
白の置物は象牙ででも出来ているのか、摘まんで置く総経理の指が妙に黄色く見える。
何、これ?
碁? それとも将棋?
「
盤上に黒と白の置物が完全に向かい合って並んだところで、総経理は初めて声を出した。
「いえ」
逆三角形の目が首を振る私を捕らえている。
氷柱に似た、彫りの鋭い一重瞼の白眼は青白く、黒目は小さかった。
「分かりません」
普通の将棋さえ、私はやったことがないのだ。
「洋人の将棋さ」
逆三角の氷柱がすっと解ける風に姿を消す。
総経理は、どうやら笑ったらしい。
「それじゃ、私が指示を出すから、白の駒はお前が動かせ」
「あ、はい」
何でこんな話になってるんだろう……。
「じゃ、始めるぞ」
カチャリと手元の電灯を点けると、総経理は告げた。
蒼白い灯りに照らされて、黄味の勝った、鼻梁と眉の細い、顎の尖った顔立ちが全て浮かび上がる。
「白が先攻だ」
小さく薄い唇が囁いた。
「はい」
私はまるで骨を彫り込んで磨いた様な、白い置物の列を見下ろした。
とにかく、言われた通り、駒を動かせばいいのだろう。
筆者注
*1
*2西語……欧米各国の言語。英語・フランス語・スペイン語・イタリア語等々。ここでは漠然と「西洋の言語」という意味で使われています。
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