第26話
まず、桃色の芙蓉の花びらにまだ爪の先ほど残っている黒い焦げ目を、新しい白の花びらで完全に覆い隠す。
その後は、引き続き白糸で新しい芙蓉を縫い取ろう。
そこまで目論んで卓上のお針道具に手を伸ばした瞬間、私は息を飲んだ。
肝心の白の糸が、もう殆ど残ってない!
昨日の旗袍の修繕で大方使い果たしてしまったのだ。
そういや、あの七色に光る、白絹の旗袍に一番手間が掛かったんだった。
どうすればいいの?
新しい花びらというより、そこだけ桃色が褪せてしまった様にしか見えない白糸の繍(ぬいとり)と、花びらの端に出来た虫食いみたいな焦げ目の残りを、私は眺めた。
元から桃色の糸は切らしている上に、代わりの白糸も尽きてしまった。
膝の上にやりかけの図面を広げたまま、頭を抱える。
今度は、どうやってこの蝕みを取り繕えばいいんだろう。
グゥゥゥゥゥ……。
地鳴りに似た音が辺りに響いて来て、私は思わず目を上げる。
阿建が煙草を持たない手を腹に当てている。
私は吹き出すのを堪えた。その一方で、急速に空腹の感覚が蘇ってきて、腹に力を籠める。
今、お腹が鳴ったのが私じゃなくて良かった。
「おい」
前から急に阿建の声が飛んだ。
「お前、何やってんの?」
まるで、物盗りを捕らえたお巡(まわ)りの口調だ。
「ここが焦げてるから繕ってるのよ」
こちらが卓子掛けを掲げて刺繍した部分を指さすより先に、相手が言い放つ。
「さっさと茶ぐらい出せ」
お巡りというより、むしろ物盗りのせびりに近い言い方かもしれない。
実際に出くわしたことはないけど。
「は?」
私は自分でも嫌な感じに聞こえる声を阿建に返す。
こいつ、留守宅に上がり込んで、何を抜かすんだ?
「は、じゃねえよ。気の利かねえ女だな」
阿建は手にしていた吸い殻をポンと灰皿に放ると、両手を頭の後ろで組んで長椅子の背に寄りかかった。
小明が「やめろ」という風に肘で突いたが、阿建は素知らぬ顔でどっかり凭(もた)れたまま、顔を仰向ける。
「茉茉(モモ)だか莉莉(リリ)だか知らねえけどさ、おもてなし出来ねえ奴はすぐお払い箱だぞ」
阿建は天井に向かって言い放つと、ニヤリと笑った。
小明が何だか赤い顔で咳(せき)払(ばら)いする。
こいつが「おもてなし」と言うと、妙にイヤらしく聞こえる。
「それとも、あれか?」
阿建は毛虫眉をピクリと上げて、ギョロリと横目をこちらに向けた。
「ド田舎から出てきて、お茶の淹れ方も知らねえのか?」
普段もそうだが、こいつはいちゃもんを付ける段になると、浙江(せっこう)訛りが余計にきつくなるらしい。
「分かりました」
出来る限り、感情を込めない風に声を調節して答えると、私は卓子掛けを畳んで立ち上がる。
今更、自分が田舎者だと認めたくない意地なんてない。
だが、とにかく、この場を離れたかった。
「お茶、お二人分ね?」
籐椅子を卓子の方に押しながら確かめると、小明はギクリとした顔付きになった。
「人数分、お持ちします」
早足で廊下に出ると、阿建のガラガラ声が追って飛んで来た。
「龍井茶(ロンジンチャ)お願いね、西湖龍井(シーフーロンジン)だぞ! 間違えんなよ!」
茶葉に注ぐ前に、まずあいつの頭に煮立ったお湯をぶっ掛けてやりたい。
お茶葉って、一体どこに置いてあるんだろ?
カラカラカラカラ……。
薄暗い台所で、餌を漁る鼠の様に、先程探ったばかりの食器棚を一段一段確かめる。
湯飲み茶碗や急須はあるのに、肝心の茶葉が見当たらない。
ガラン。
一番下の棚を開けて酒蔵臭い瓶の間を改めて見直してみる。
“SCOTCH”“BEER”“RUM”……。
金釘みたいな横文字が顔を出すばかりで、「西湖龍井」や「鉄観音」の様な代物にはお目にかかれない。
「どこ?」
頭を抱えてペタンと尻を着いた所で、急に周囲がパッと明るくなった。
「台所の電灯はここで点けるんだよ」
小明が入り口に立っていた。
「消す時もここ」
カチリと音がして、また辺りは真っ暗になる。
「で、また点ける」
カチリと音がして、台所は再び陽が差した様に明るくなった。
「ここ、色々置いてあるから、灯り点けないと危ないだろ?」
暗闇から再び姿を現した小明は、壁に取り付けられた電灯のボタンを笑って指し示した。
この人の笑い顔には嘲りや蔑みがない代わりに、何だか寂しげな感じがある。
「どうも、ありがとう」
*筆者注:「西湖龍井(シーフーロンジン)」とは杭州産の高級茶の銘柄で、蓉姐の留守をいいことに阿建は故郷の名品を飲もうとしているのです。
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