第27話:好《い》い男の人
「ところで、西湖龍井の茶葉ってどこに置いてあるの?」
早速本題に入る。
「俺らにそんな高いお茶は要らないさ」
相手は苦笑いして首を振った。
「そのくらい分かるだろ?」
灯りの下で、切れの長い目が瞬く。
この人の目、
小明が
細く長い睫毛に縁取られた目は、雪明かりに似た色合いの灯りの下では、白目がほんのり青味が勝って見えた。
「でも、蓉姐が帰ってきたら、お茶とか色々お出ししないといけないでしょ」
あの人の下で働いているのだから、留守の間にも台所を把握しておかなければいけない。
「お茶葉はそこの流しの下さ」
小明は言いながら、私の後ろにある流しに近付いていって、その下の棚を開けた。
「匂いが移るから、酒とは別に置いてあるんだ」
開いた棚の奥からしっとりした香りが
「ただ、姐さんがよく飲むのは西湖龍井じゃなくて、茉莉花茶かインドの紅茶の方だ」
「インド?」
この家にはつくづく色々な物が当たり前の様に置いてある。
「洋人がよく飲むやつさ」
小明は棚から他の茶壺とは毛色の違う、金属の缶を取り出して見せる。
インドのお茶のはずなのに、缶の表側には“ASSAM”と西洋の文字で銘柄らしきものが記されていた。
「人の血みたいに赤いお茶なんだ」
「血?」
金釘みたいな洋人の文字を目にしていると、本当に人の生き血を搾って作った茶に思えてきて、また背筋が寒くなる。
「偉哥がいらした時はいつも一緒にこれを飲むの?」
昨夜、隣の部屋から切々に聞こえてきた声を何故か急に思い出して、頬に血が上るのを感じた。
“ASSAM”という綴りまでが、読み方も意味も分からないまま、今度は媚薬じみた風に映ってくる。
「いや、それはまちまちだよ」
小明は私の赤い顔をどの様な意味に取ったのか、やや細めた目の奥からこちらを見据えて、少し突き放す口調になった。
「
「え、てことは、あんたがお茶淹れるの?」
思わず聞き返してから、相手の顔色に愚問だと悟った。
「それは、下っ端の俺らが姐さんを台所に立たすわけにはいかないじゃないか」
小明はそう答えると、俯いて唇を噛んだ。
「それは、そうだよね」
慌てて言葉を探す。
悪いことをしてしまったが、かといって謝るのも何だか失礼な気がする。
「でも、これからは、あたしが台所仕事を全部やることになるから大丈夫よ」
小明は睫毛を伏せたままだ。
女の子にでもしたい様な長い睫毛をしている。
「蓉姐もきっとその為にあたしを家に置くことにしたんだわ」
そこまで話すと、小明は切れの長い目を漸くこちらに向けた。
姐さんの名前には、やはり神通力があるらしい。
「姐さんだって、いい男の人をいつまでも台所に立たすわけにいかないもの」
「いい男の人」の「人」の部分に力を込めて、私は続けた。
「ここに来る前は、田舎で女中をしていたの」
相手は黙ってこちらを見詰めている。
「蓉姐にその話をしたら、『うちに来てもいい』って」
そこまで語ると、小明は例の寂しい笑顔になった。
「そうなんだ」
その寂しい笑いがふっと厳しく変わったかと思うと、
小明は流しの下の扉をまた開け、今度は
「姐さんはお茶の淹れ方にはかなりうるさいぞ」
流しの壁にも風呂場と同じあの銀の管が付いていて、小明が取っ手を捻ると口から勢い良く水が出て水壷の底を打ち始めた。
「
台所を見回して尋ねる。
水は管から出すとして、火はどこで使うんだろう?
「コンロを使うんだ」
「コンロ?」
またもやキョトンとする私をよそに、小明は水を止めて満たした水壷に蓋をする。
と、今度は隣の台に向かった。
隣の台は全体に平らな代わりに、鉄で出来た妙な凹凸が取り付けられていた。
何なの、これ?
「コンロはこいつを捻って」
話しながら、小明は台の下に取り付けられた栓を捻る。
心なしか
「火を点けるんだ」
胸ポケットからマッチ箱を取り出して、小さな火を点けると、凹凸に近付ける。
すると、青い火の輪がフワリと凹凸の上に燃え上がった!
「火を止めるにはこいつを逆に回せばいい」
小明はマッチを振って消すと、最初に捻った台下の栓を指し示した。
「使い終わったらすぐ火は止めろよ。点けっ放しだとガス代が
それだけ言うと、小明はちょっと苦い顔をする。
蓉姐から常々そう言い含められてるんだろうな、と察した。
「色々教えてくれて、どうも、ありがとう」
小明に頭を下げた。
水も、火も、栓を捻れば簡単に出せる代わりに、後払いで金を取られるのだ。
取り敢えず、それだけは胆に銘じておこう。
「ここでは、全部、当たり前の事さ」
小明はそう言うと、水壷を青い火の上に乗せた。
私もその隣に並んで青い火を眺める。
「竈とコンロではどっちが早くゆで上がるの?」
この青い火は、普通の赤い火より冷たく見えるが、威力も強そうに思える。
「さあ」
小明は首を僅かに傾げた。
そうすると、黒髪がはらりと眉に掛かる。
髪自体は真っ直ぐで艶もあるのだから、偉哥みたいに椿油を塗って整えれば、この人ももっと見栄えがするのに。
「俺は、竈でゆでる方は良く知らないから」
この人、元は結構お坊ちゃん育ちだったのかもしれない。
絹糸じみた細く長い睫毛に縁取られた、切れ長の奥二重が静かに
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