第38話

「あの」


 一般には、そこまで失礼な質問には当たらないはずだと頭の中で念を押しつつ、切り出す。


「総経理(しはいにん)は、どちらの方(かた)なんですか?」


「達哥(ダーにいさん)でいい」


 総経理、もとい達哥は首を僅かに振ると、乾いた笑い声の調子で続けた。


「俺は、上海(シャンハイ)以外、知らない」


 今はもういない誰かを秘かに呼ぶ様に「上海」と口にすると、達哥の指の長い、華奢な手が花瓶に伸びて、飾られている真紅の薔薇の花束に触れた。

 また、群れに馴染まない花を見付けたのだろうか。

 私の角度からは、分からない。


 ――俺らは桃源郷から来たんだな。


 小明(シャオミン)の言葉と蒼白い寂しげな笑顔が急に蘇った。

 天に天堂(てんごく)、地上に蘇杭(そこう)。

 だが、私にとっての蘇州は、もう戻りたくもない土地だ。

 他人の目で見たって、あすこは今となっては上海より遥かに後れた田舎町に過ぎない。

 小明や阿建(アジェン)のいた杭州(こうしゅう)にしたって、恐らくは似た様なものだろう。


 そんな事を思いながら、国際象棋(チェス)の盤を挟んで向かい合う達哥の姿を改めて見直す。


 やや狭い額を全て出し、真っ直ぐな黒髪をきっちり撫で付けて固めた、小さな頭。

 呼び方は分からないが、多分、これもパーマと同じで、洋人の伝えた髪型なのだろう。

 偉哥(ウェイにいさん)の様に一見して華やかではないが、しかし、質としてはもっと上等の生地で出来た洋服を身に纏っている。


 純粋な体形としては、さっき遠目に立ち姿を見た限りでは、小明と同じ位の背丈だから、大人の男としては、中背よりちょっと小柄な方だ。

 今、目の前に座している姿から察すると、肩幅は狭く、肉付きも薄い。

 洋人はもちろん、中国男としても貧弱な部類に入る。


 だが、蝶蛾(ちょうが)の触角を思わせる細い眉、氷柱に似た細く鋭い一重瞼の目、肉薄の細い鼻、白く整った歯を奥に蔵す小さな薄い唇、そして、尖った顎。

「男前」と呼べるかは別として、どこを取っても、この人は隙のない顔をしていた。


 これが、上海の男だ。

 年の頃は、三十四、五だろうか。

 素直に「哥哥(にいさん)」と呼ぶには、あまりにも隔たった所にいる人に思えてならない。


「蘇州では何を?」


 達哥は尋ねた。

 この人の問いかけは、いつも、まだ知らないことを尋ねるのではなく、あらかじめ知っていることを確かめるている風に聞こえる。


「女中をしておりました」


 周家の奥様が仏頂面をしている時に「お茶が入りました」と告げる時の声で、答える。

 奥様がご機嫌斜めの時、用聞きへ伺って酷く当たられるのは、女中仲間ではいつも私か母さんの役目だった。


「お役人の家か?」


 達哥の声は、何かまずいことをやらかしたのか、とからかっているかに聞こえた。


「はい」


 嘘を吐いても見抜かれる気がするので、素直に頷く。


「どうして、上海へ?」


「上海へは……」


 私はその限りでは嘘にならない答えを頭の中で探した。


「その、職を……探しに」


「だから、どうしてさ」


 達哥は目のない笑顔をこちらに向けている。


「蘇州で女中の職をしていた筈なのに」


「それは……暇を出されましたから」


 私は盤上に目を落とす。

 氷柱じみたあの目に刺されるのが恐ろしい。


「最初からそう答えればいいだろう?」


 疑問より、穏便な指示の口調だ。


「はい」


 確かにその通りだ。

 突っ込まれないわけないのに、どうしてはぐらかそうとして、逆にそこを強調する愚を犯してしまうんだろう。


「まあ、田舎の役人なら、今は家が傾く一方だからな」


 達哥は薄い唇を歪めて言い放つと、再び国際象棋(チェス)の盤を見下ろした。


「奴らに残っているのは、馬鹿でかいだけで柱の腐り切った霊廟(れいびょう)と、錆び付いて何の役にも立たない誇りだけ」


 陣地も駒も白と黒で二分された世界を見据える、冷たい三白眼に、一瞬、熱い火が宿った。


「この国がこんな体(てい)たらくになったのも、元を辿れば、そいつらのせいさ」


 そこで、声が急に密やかになる。


「潰される前に抜け出せて、良かったじゃないか」


「はい」


 パーマが馴染んで前髪の反った違和感が落ち着いてきた頭を従順に頷けた。

 これ以上、この人の言葉に付け足す必要もなければ、差し引くべき事柄もない。

 そんな気がした。

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