第39話:全てお見通し
「練習場は、地下だ」
達哥はポケットからまた銀の打火機を取り出すと、煙草に火を点けた。
「薇薇と
煙の向こうの眼光からも、声の調子からも、一瞬の熱が消え、元の冷え固まった鋭さだけが伝わってくる。
「はい」
頷きながら、理髪店で出くわした薇薇の鳥の巣頭を思い出して、一瞬だけ吹き出したくなる。
「後は他の姐さんたちが踊るのを見て自分でどんどん覚えろ」
「はい」
あんな氷か墓石みたいなツルツルの床の上で、一体どんな踊りを踊るんだろう。
「教えてもらうつもりでいては駄目だ。大事な事は盗んででも自分のものにしろ」
「はい」
習うより慣れろではなく、習うより盗め、というのが、この人というか、ここでの掟なのだろう。
「決して、客の財布をスれとか、姐さんの耳飾りを猫ババしろとかいう意味じゃないぞ」
そこまで語ると、達哥の薄い口の端が歪んで笑った。
「はい」
考え無しに頷いてから、何となくそういう自分を間抜けに感じた。
「まあ、貴重な物を貸しておいて、後から返せと大騒ぎする方も馬鹿だけどな」
達哥の細い指が煙草の先を灰皿に押し付けてゆっくり潰す。
どこにも荒れた所のない、しかも男としては華奢な手であるにも拘らず、指全体が滑らかで鋭く尖った爪の様に見えた。
「いっそくれてやる位の気持ちになれないなら、最初からそんな値打ち物を人に貸しては駄目さ」
昨夜、蓉姐が電話口で毒を吐いていた姿が急に思い出された。
むろん、達哥の耳に姐さんの罵声が届いた筈はないし、姐さんにしてもこの人には聞こえないと十分に見越した上で
ただ、今、目の前に座す達哥の皮肉な笑いを眺めていると、蓉姐のそんな悪態も、その傍で棒立ちになっていた綿入れ姿の私も、全部お見通しで泳がされていただけの様に思えた。
「お前も、そう思うだろ?」
「は、はい……」
私は口ごもる。
達哥の立場なら蓉姐を「馬鹿」と呼んでも許されるだろう。
それに、普通に考えれば、蓉姐よりもこの人の言葉に従うのが理にかなっている筈だ。
でも、そうだとしても、蓉姐を馬鹿扱いする話に頷くのは何だかいじましく思えた。
姐さんは見ず知らずの私を家に泊め、この服を譲ってくれ、ハイヒールも買ってくれたのだ。
そりゃ、一晩かけてあの人の旗袍を直しはした。
だが、蘇州の周家で働いていた頃に、私と母さんが何晩もかかって奥様の衣装を仕上げても、お古をいただいたことなど一度も無い。
そもそも、私たちが何年お仕えしようが、奥様と同じ絹の服を持つこと自体、蘇州では有り得なかった。
「あいつはその場の気まぐれで動くからな」
達哥はそう言い放つと、マスの中央から少しずれた位置に立つ白の
「そうかもしれませんけど……」
言い掛けたものの、言葉の継ぎ穂が見当たらない。
もしかすると、この服も靴も散髪代も、「返せ」と後で姐さんから迫られるのだろうか?
「
達哥はまるで私に向かって教え込む風にゆっくりと発音した。
「君は、幾つなんだい?」
――君は、まだ子供だろう?
そう
――君は、もう大人だろう?
そう
「
頭の中で二つの数が交互に顔を出す。
脇の下が、氷柱でなぞられた様に冷たく濡れてきた。
「
真っ直ぐ達哥を見据えて答えた。
「ははは」
乾いた笑い声が部屋に響く。
達哥の目のない目尻に刻まれた、亀裂じみた皺に今更ながら気付いた。
この人は、私の倍は生きている。
「田舎の亭主とはちゃんと別れて来たのかい?」
達哥は笑った口調はそのままで、見開いた目を私のバッグに注いだ。
――そのバッグにはまな板まで切れる包丁が本当に入ってるのかい?
三白眼の小さな黒目は、バッグの中身を見透かした上で、敢えて問い掛けているかの様だ。
「人の女房をここで働かせるのはさすがにまずいんでな」
淡々と語っているだけに、却ってそうあっては不都合なのだと知れた。
「私はそんな……」
首を横に振ると、半歩遅れた調子で前髪が上下に揺れるのを感じた。
「亭主なんて、いません」
そういえば、母さんは今年三十二歳だった。
十八歳なら、亭主どころか子供がいてもおかしくないのだ。
今更ながらそう思い当たった。
「いたことはあるのか?」
ないだろう、と念を押されている気がした。
「ありません」
今度は首を振らずに答える。
やたらと頭を振ると何だか子供っぽい上に、反抗していると思われそうで、それが恐ろしかった。
「正式に嫁いだんじゃなくても構わないんだが」
達哥はふっと笑いを消すと、静かに続けた。
「つまり、お前は男を知らないのか?」
「え……」
達哥の顔も口調もあまりにも平静だったので、一瞬、言われた意味が分からなかった。
「男をって……」
体中の血が一気に顔に集まった気がした。
「言わなくていい、もう分かったから」
達哥は煙を仰ぐ様に手を静かに振った。
「働く気さえあれば、
氷った三白眼が、私の旗袍の奥の薄べったい胸や、
「稼ぐ気持ちさえ、確かならばね」
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