第40話:男と駒の名前

「さっき、『小明』と」


 達哥は、不意にそう言い掛けると、目の無い、穏やかな方の笑い方をした。

 だが、私はドギマギする。

 ここで、今になって、小明の名が出るとは思わなかった。


「似てるか?」


 舞庁ダンスホール総経理しはいにんは三白眼を見開くと、肩をすくめた。

 上等なスーツの肩から、黄色い滑らかな手の指先まで、仕立屋で念入りに作った風に見える。

 この人は、少なくともここ十年は水汲みや台所仕事などとは縁のない境遇に違いない。


「いいえ」


 忙しく首を振る。

 今となっては、どうして小明とこの人を間違えたのか不思議だった。


「二人ともチビでガリだから」


 達哥は他人事の様に続ける。


「もう一人のデブや小偉シャオウェイよりは似てるかもしれないな」


 シャオウェイ?

「もう一人のデブ」が阿建だとはすぐ分かったが、こちらには覚えがない。

 私が会っていないだけで、小明と阿建の他にも、同い年くらいの男の子が「くみ」にはまだいるのだろうか?


小偉シャオウェイの奴も、広東カントンから出てきたばかりの頃は、ガリガリの『小黒チビクロ』だったんだが」


 お前も知ってるだろ、という風に達哥は笑って頷く。


「あいつはでかくなり過ぎたな」


 そう呟くと、達哥は傍らの花瓶に目を移す。

 蓉姐が活けた十本の玫瑰バラは、今度は中央の二本が揃って周囲から頭を突き出す格好になっていた。


小黒チビクロ小白チビシロで、二人とも余計なとこまで大きくなっちゃったのさ」


 達哥が嗜める様にそっと飛び出た二本の頭を叩くと、二つの花は群れに引っ込んだが、今度は十本全体の格好が何だか歪つになった。


「そうですか」


 この人にとっては、偉哥ウェイにいさんも「小黒チビクロ」だった弟分の「小偉」なのだ。

 多分、それと同じ理屈で、蓉姐も「小白チビシロ」だった妹分の一人なのだろう。


「どの道、全員、違う奴さ」


 達哥の目はいつの間にか盤上の黒の駒に注がれている。

 電灯の蒼白い光が照らし出す面差しを改めて見直すと、鋭い彫りの一重瞼に対し、目の下の気だるい涙袋が際立った。

 この人は、本当なら、哥哥にいさんどころか、私の父親でもおかしくない年配なのだ。

 子供がいるかどうかは分からないが……。


「男の顔と名前は正しく覚えろ」


 厳然たる声と共に、水仕事とは無縁の細い指が、黒光りする駒を一つ一つ摘まみ上げていく。


「似てる奴ほど区別して叩き込むんだ」


 そう語る達哥の左の掌には、三つの黒い駒が並んでいた。


「これは?」


 達哥は三つの中で一番小さな駒を指した。

 頭に小さなまりを頂いている。


ポーン


 私は即答する。

 たくさんいる雑魚の駒だ。


「これは?」


 達哥の指が、今度は真ん中に置かれた首だけの黒い馬を示す。

 改めて正面から眺めると、どこを見ているのか分からない目が不気味な駒だ。


ナイト


 これもすぐに答えられる。というより、これ以外に答えようがない。


「こいつが一番、見たままだな」


 こちらの思いを見透かした風に達哥はそう呟くと、馬のたてがみ辺りをつつく。

 そうされると、端正に彫られた馬の顔がちょっとだけ間抜けに見えた。


「それじゃ、これは?」


 達哥は最後の三つ目の駒を持ち上げて私の前に示した。


「ええと……」


 目の前に掲げられた駒を凝視したまま、答えに窮する。

 まず、蓉姐の茶器とは程遠い形だから、クイーンではない。

 キングは頭に十字を挿してる駒だから、それとも違う。

 ビショップは、確か帽子みたいな形の筈だし……。


ルーク


 達哥はカチャリと卓子の上に三つ目の駒を置いた。

 改めて斜め上から見直すと、頭の上に頂いた凹凸のある冠が灰皿によく似ている。


「忘れていたなら、今すぐ覚えろ」


 達哥の目がこちらを射抜く。この人の目は髪と同じで、暗闇そのものの様に混じり気なく黒い。


「はい」


 私は頷いた。

 もう、そんな瞬間でしかパーマした前髪が気にならなかった。


「塔、ですね」


 繰り返す。

 どうして、人や馬や象に混ざって、生き物じゃない駒が戦うんだろう。


「こいつを上手く使えば、大方の試合には勝てる様になるさ」


 こちらの思いをよそに、達哥は黒い塔を元々立っていた場所に収める。

 続いて、馬、そして兵の順に、三つの黒い駒は盤の上のあるべき位置に戻された。


「それは、まだもっと先の話だ」


 ジリリ、ジリリリリリリリ……。

 ノコギリを倍の速さで挽く様な音が部屋を駆け巡る。


「はい」


 音が途切れたと思うと、達哥はもう黒光りする受話器を耳に当てていた。

 総経理の電話は、蓉姐のそれより鋭く速く鳴る。


「私です」


 達哥は口許だけ恭しく笑うと、こちらに向かって受話器を持たない方の掌をかざした。

 もう出て行かなくてはいけないのだ。達哥の仕草から、そう察した。


「お陰様で。さっき彪哥ビャオあにきから……」


 絨毯貼りの部屋からツルツルした床の廊下に出て扉を閉めると、辺りは真っ暗になった。

 私はバッグを胸に抱き締める。

 練習場は、確か地下だと達哥は言っていた。

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