第41話:高飛車な女
早足で木に登るより、ゆっくりでも足を踏み外さずに木から降りる方が難しい、という。
それと似た様なもので、ハイヒールで階段を駆け上がるより、忍び足でも転ばずに降りる方が、ずっとこつがいる。ましてや、暗がりとなると。
これ、あと何段降りればいいの?
そんな見当さえつかないまま、一段降りた分だけ、埃っぽくて蒸し暑くなる。
バタン!
足許から振動と同時に、眩しい光を浴びる。
私は思わず顔を顰めて、下方を窺った。
「順番なんて、関係ないでしょう」
階下では、開いた扉から溢れ出る光を背にした女の影が、後ろを半ば振り返った格好で言い放った。
「私とあの人では、歌う曲からして違うんですからね」
北方人特有の、ちょっとわざとらしいくらいの巻き舌でそう語ると、菱形のイヤリングの金縁が女の耳元でキラリと光って揺れた。
「別に私がでしゃばったわけじゃありません」
凍った
「
何だろう、この人?
私はまじまじと女を見詰める。蓉姐も大柄だが、こちらも劣らぬ長身だ。
逆光のせいで、顔立ちはハッキリとは分からない。
だが、卵形の輪郭は難が無く、金縁のイヤリングを下げた小さな耳から微かに尖った顎の辺りは、いかにも品良く艶な感じがする。
ただ、髪型に関しては、前髪を僅かに縮れさせている以外、
「あなたたちにも、分かるでしょう?」
まるで誇るかの様に、巻き舌の強い語調で女は告げる。
鈍く輝く黄土色の旗袍の肩は広く、剥き出しの長い腕は固めた雪の様に、白いがどこか筋肉質な感じに太かった。
「だから、別に気にしなくていいのよ」
女はゆっくりと首を左右に振る。
金縁の菱形が緑の残像を引きながら幽かな音と共に揺れた。
無数の菱形の角に目を刺される気がして、私は知らず知らず目を
あれは、本物の金だろうか?
「そんな安物を買い戻すくらい、私にはどうってことないわ」
安物、と言い放つ辺りで、これまで鷹揚だった女の声が、急に菱形の角の様に鋭く変わった。
いや、「変わった」のではなく、そもそもこっちがこの人の本来の声なんだろう。
階段の途中で足止めを食ったまま、私は何となくそう感じた。
蓉姐の地声が本当は酷く低いのと、多分同じ理屈だ。
「エメラルドと言ったって、それはピンキリですもの」
女の声が
「あの人の子供騙しを、真に受けちゃいけません」
そこまで語ったところで、クスリと忍び笑う女の声がこちらの耳にも届いた。
嫌な女。
私はそれまで曖昧にくすぶっていた感情が固まるのを感じた。
いかにも優しげでお上品そうに話してはいるけれど、この女はそういう形で相手をコケにしている。
「じゃ、私は上で打ち合わせがありますから」
女の言葉を潮に視界が急に暗くなり出した。
「閉めないで!」
私は思わず叫ぶ。
また目の前がパッと眩しくなった。
「まあ」
菱形のイヤリングを下げた女が、端の切れ上がった、黒目勝ちの目をこちらに向けていた。
「そんな所に人がいたなんて」
ゆったりした口調で告げながら、女の目は私の前髪から爪先まで素早くなぞると、柳眉の片方だけをちょっと逆立ててすぐに戻した。
返す言葉が見つからないまま、階段の途中で立ち止まっていると、切れ上がった眼差しと金縁の菱形と黄土色の旗袍の肩がどんどん迫ってきた。
突き刺される!
そんな錯覚が頭を掠めて、咄嗟に階段の隅に避ける。
「達哥も、随分甘くなったわ」
すれ違いざま、菊に似た芳香の中から、糖衣に角を包んだ女の
コツコツと規則正しく釘を打つ様な女の足音が遠ざかっていく。
振り向くと、暗がりの中で、黒いハイヒールの踵が、一番上の段に着地する所だった。
靴の踵があまりにも細く長いので、踵というより、まるで靴に仕込んだ五寸釘に見えた。
黄土色の旗袍の裾がチラリと閃いて、やや太めの白い脚を覗かせたかと思うと、女の姿は角の向こうに消える。
菊花に似た、冷たい香りが蒸し暑い埃っぽさの中に薄れていく。
「あら、莉莉じゃない」
聞き覚えのある素頓狂な声が下から飛んでくる。
「練習しましょ」
薇薇が鳥の巣頭を揺らして笑っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます