番外編:紫煙の味――曉明の呟き

「あ」

 煙草を咥え、空の胸ポケットに手を入れてから思い当たる。

「マッチ忘れてきた」

 コンロの火付け用にあの子に貸してそのままだった。

莉莉リリか」

 阿建も火の点かない煙草を咥えた口から外して舌打ちする。

「あいつ、ほんとに気が利かねえよな」

 不愉快なことを思い出した風にニキビ面のギョロ目をグッと顰めると、先程血を出した鼻の下を思い出した風に拭うが、もう血は着かない。

「あれじゃ、舞女なんて無理だよ」

 鼻で嗤うと、舞女が客に抱かれて踊る時の素振りを真似て見せる。

 自分と同じ男がやると、本物の彼女たちが技巧でやわらげている媚びや嘘が誤魔化せずに浮かび上がる気がした。

 こちらの思いをよそに相手は元の面持ちに戻ると、今度は右手を握り締める寸前で止めた風にして――見えない細い物を掴む風にして――上下に揺らしながら言い放つ。

「ネギみたいなヒョロッガリだしな」

 それは薇薇と比べるから余計にそう思うのではないか。

 旗袍もはち切れそうに太った薇薇の真ん丸な顔と先程会った莉莉の蒼白い三つ編みの小さな顔と白いブラウスの痩せこけた体付きが相次いで蘇った。

 薇薇は別としても確かにあの莉莉という子は華奢というよりはっきり言って貧弱だ。顔つきも体型も「女」になる前の「子供」の感じがした。

 今度は水色の旗袍を纏った莎莎のどこか寂しげな笑顔と全体としては細身だが胸元や尻は肉づいた体つきが一種の完成形じみて眩しく、しかしどこか痛々しく浮かんだ。

 あの子は莎莎と似た面差しだから、これから垢抜けてもう少し体に肉が付けばああなるかもしれない。

 早く見たいような、それでいて決して見たくないような気がした。

「おい」

 不意に阿建は俺の肩越しに通りに向かって片手を上げて続ける。

「一箱くれ」

 振り返ると、マッチ箱入りの籠を下げた行商の子供が歩いてくるところだった。

「ありがとうございます」

「がんばれよ」

 売り子の肩を叩いてまた戻ってくる。

 思わずこちらの顔が苦笑いするのを感じた。

 こいつはすぐ目下の相手には兄貴風を吹かしたがるのだ。

 だが、その一方で、自分にはこんな風にすぐ相手と親しく出来る愛嬌は無いと思うし、それは今、足を踏み入れている稼業においては不利だとも解る。

――お前は調子のいいバカだな。

 上の哥哥あにきたちは口ではそう貶しつつこいつを可愛がるし、薇薇のような情婦おんな――という言葉を使うには色気や毒気を感じさせる子ではないが――もいるのだ。

 そんなことを思いながら、戻ってきた阿建が新たに点けたマッチの火を継いで貰う。

 手持ちの少ない俺らはこんな風にして代わりばんこに火を貸し合うのだ。

 まあ、俺のマッチ箱にはまだ半分ほど入ってるし、今度また姐さんの家に行ったら莉莉に返してもらえば済む話だ。

――姐さんだって、いい男の人をいつまでも台所に立たすわけにいかないもの。

 ふと蘇州訛りの声が蘇って胸の奥にぽっと温かいものが生じるのを感じた。

 あの子は自分を一人前の男として扱ってくれた。

 上海ここに来て、そんな女の子はいなかった。

――あんたは立派な男になるのよ。

 九年前、やまいの床にいた母さんも最期にそう言った。

 女中からリャン家の四太太だいよんふじんになったという母さん。

 自分が物心ついた時にはもう病気がちで、伏した床からガラス鉢の金魚がヒラヒラと橙色のひれを揺らめかせるさまを虚ろな目で眺めるような暮らしだった。

 母さんが息を引き取ると、程なくして鉢の金魚も死んだ。

 もう動かなくなった鰭と光る鱗の横腹を見せて水面に浮かんでいたのだった。

 あれはきっと父様が年若い妾の母さんに買い与えたものだったのだろう。

 さっき会ったあの子も蓉姐から貰った金魚じみた橙色の旗袍を宝物のように大事にしていた。

 あれを着てこれから舞女になるんだろう。 

 今度は狭いガラス鉢の水の中で鰭を揺らめかす金魚とお下げ髪の小さな蒼白い顔が重なって浮かんだ。

 案外ああいう子の方があっという間に夜の世界に染まるのかもしれない。

 元から色の着いた糸より真っ白な糸の方が浸した染料の色をじかに映すようにだ。

 あの莉莉も程なくして見知らぬ男に媚びることを覚えて、莎莎のようなヒモに纏わりつかれるのだろうか。

 そこまで思い巡らして、ふうっと思い切り煙を吐き出した。

 目の前の通りが一瞬紫の勝ったもやに包まれて、また元の輪郭を浮かび上がらせていく。

 別に今さら驚く話ではない。そんな田舎出の娘は上海ではありふれているのだ。

 俺も前には本当は莎莎が気になってたのにいつの間にか他の男と暮らしてたというオチだったじゃないか。

 あんな間抜けな轍は二度と踏まない。

 そう思い切ろうとしても、顔の見えない誰かがお下げ髪に白ブラウスを着たか細い体にし掛かる姿が浮かんで来ると尻の辺りにゾワッとしたものが走るのを覚えた。

 あの子も理由わけ有りで郷里を出て来て、上海で食っていく上では望まないことも強いられる身の上なのだ。

 俺だって妾腹わきばらとはいえ梁家の五少爺ごのぼっちゃまという身分を捨てて杭州を出て、はっきり言えば裏社会の下っ端として何とか暮らしている。

 雨露をしのいで飯は喰えたという点ではあの家にいた方が良かったかもしれないが、今さら戻れないし、戻りたいとも思えない。

 苦い味が口の奥にこびりつくのを噛み締めながら、足元に落とした煙草を靴の裏で潰す。

 偉哥が漢方薬屋から出て来た。

 今朝会った寧波の連中がまた来ていないかと見張りつつ俺たちは迎えに近付く。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る