第19話

「そしたら、お巡(まわ)りったらこう言ったのよ」


 廊下を浴室から応接間のある方向へと戻っていくと、蓉姐の声がした。


「『小姐おじょうさんがその服を脱ぐなら、引き換えに押収品の中から服を渡してやってもいい』って」


 煙草の匂いも漂ってくる。


「だから、横っ面をぶっ叩いて逃げてやった……」


 姐さんは言い掛けたところで、私に顔を向けた。


「お風呂終わったの?」


「はい」


 湯で和らいだ体がまた固くなるのを感じた。


「どうも、ありがとうございます」


 長椅子の上には、蓉姐の他にもう一人、男が腰掛けて、こちらに目を向けていた。


「莉莉(リリ)よ」


 姐さんは煙草を持った指で私を示すと、傍らの男に告げる。

 あんたも前から知ってるでしょ、と言い放つ風な口調だ。


「うちで働きたいんだって」


「リリ?」


 仕立ての良い洋服を長身に纏(まと)い、長椅子に凭(もた)れて長い脚を投げ出した男は、低い声で問うと、浅黒い顔の大きな目を凝らした。


「はい」


 適切な対応が分からないので、取り敢えず、返事をする。


「リリは、茉莉花(ジャスミン)の『莉(リー)』か?」


 蓉姐と同じく彫りの深い顔だが、大きな目は黒々としており、僅かに斜視の傾向があった。

 本来あるべき位置からほんの少しだけ外側にずれている漆黒の瞳は、こちらを眺めている様で、本当は別の何かに目を注いでいるかに見える。


「はい」


「田舎の妹も同じや」


 広東(カントン)の訛りを交えて言うと、相手はどこを見ているのか分からない目を細めた。


「お袋の腹にいた時分に見たきりやけど、今年で七つや。いや、八つやったかな?」


 随分年の離れた妹がいるものだ。

 私は返答をしかねたまま、内心驚く。

 男本人は二十五、六歳に見えるから、兄妹というより父娘に相応しい年の開きがある。

 それとも、この人は本当は見た目よりもっと若いのだろうか?


「で、こっちの莉莉ちゃんはいくつや?」


 男の目が、私の上着の肩の辺りに新たに注がれる。

 そこで初めて、お下げ髪から垂れた滴で、肩の生地がじっとり濡れて肌に張り付く感触に気付き、鳥肌が立つのを覚えた。


「十八(じゅうはち)よ」


 答えかけた私を制する風に、蓉姐の声が静かに響く。


「さっき、うちに来る途中で聞いたの」


 周囲の空気が強張(こわば)っても、姐さんの語る顔に迷いは微塵もない。


「蓉蓉(ロンロン)、この子は……」


 顔から笑いを消して言い掛ける男をよそに、蓉姐はこちらに向き直る。


「うちで働きたいのよね?」


 紅い唇が微笑み、茶緑の目が鋭く光った。


「はい」


 ――“うち”って、公寓(アパート)の、この部屋のことですよね?


 問いが喉元でつかえている。


「あたしがさっき聞いた答えに間違いはないわね?」


 女猫(めねこ)がごとき目が、反論は許さないと告げている。


「……はい」


 こちらはさっき、十五(じゅうご)と正直に教えた。


「あんたはもう十八の大人よ」


 蓉姐の指先から白い煙をゆっくり上っていく。

 白く細い指の先で滑らかに光る、尖った、赤い爪。


「だから、あたしもそのつもりで扱うわ」


「蓉蓉」


 男は目を落として苦い声を出した。


「阿建(アジェン)と小明(シャオミン)が十九歳なんでしょ?」


 蓉姐は事もなげに返すと、悪戯っぽく片眉を吊り上げる。


「あんただって、幇(くみ)に届けた齢(とし)が確かなら、今年で二十八(にじゅうはち)のはずだし」


 男の眉間に皺が寄るが、蓉姐は構わず二十八の「八」に一際力を込める。


「その子を連れて十八と言い張ったって、達哥(ダーあにき)に通じるもんか」


 私を指し示す男の声が苛立ちを含む。


 何だか、責められてるみたい……。


「大丈夫よ。今、手が足りないし」


 姐さんは余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)だ。


「小皺(こじわ)の浮き出た顔して、十八とかほざくのよりマシでしょ」


 男は黙って横を向くと灰皿に煙草を押し当てた。


 この人は一体、どういう人なんだろう?


 私は思い巡らす。


 蓉姐が太太(おくさま)でも小姐(おじょうさま)でもない様に、

 この人も洒落(しゃれ)た洋服は着ているけれど、名家の旦那様という感じには見えない。


 秀でた額、高い鼻、広い肩、長い脚……。


「あ、あの看板の!」


 私が出し抜けに声を発したので、男も姐さんも驚いて顔を上げる。


「電影院(えいがかん)の看板で、お見かけしましたわ」


 努めて丁寧な口調を心がけて男に言うと、蓉姐に確かめた。


「ここに来る途中で通った電影院ですよ。あそこの看板の方(かた)ですよね?」


 答えを待たずに、勢い込んで続ける。


「横顔で分かりました!」


「あんたが高占非(ガオ・チャンフェイ)だってさ」


 蓉姐は急にはしゃいだ声で男の肩をつつくと、彼が新たに出した煙草に火を点けた。


「向こうが俺に似てるんだ」


 男は苦笑いして呟くとゆっくり煙を吐き出す。


「俺は、そいつとは違う」


 私に向かって、諦めろ、という風に彼は首を横に振った。


「……失礼しました」


 電影院の看板役者だから、男前でいい身なりをしている。


 そう合点がいったつもりでいたが、どうもそれでもなかったらしい。


「どうお呼びすれば、よろしいでしょうか?」


 男の名前も、素性も、蓉姐との関係も正確には分からないので、そんな風に訊いてみる。


「偉哥(ウェイにいさん)とお呼びなさい」


 姐さんが代わりに答えた。


「分かりました」


 今日、二人目の兄弟が出来た。


 *筆者注:高占非(ガオ・チャンフェイ)……当時の二枚目映画スター。


 ちなみに偉哥の台詞を関西弁風に書いたのは、彼の本来の母語が広東語で、標準語の北京語や上海方言の上海語とは異なるため、標準語を話す際にも広東訛りがあることを示す演出です。


 北京語、上海語、広東語は漢字で表記する点は一緒ですが、文法や発音の上では全くの別言語で、例えるならば、英語、フランス語、イタリア語くらいの開きがあります。


 偉哥の本名「劉偉霖」(後出)は、北京語で発音すると「リウ・ウェイリン」ですが、母語の広東語だと「ラウ・ワイラム」と読みます。


「偉哥」は目下に立つ莉莉からの呼び方で「ウェイ兄貴、ウェイ兄さん」といった意味になりますが、これも北京語読みだと「ウェイガー」、広東語読みだと「ワイコー」になります。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る