第18話

 錠を挿して玄関から元の部屋に戻ると、電話も、長椅子も、縫いかけの卓子掛けもそのままで、この部屋の主の姿だけが消えていた。


「蓉姐?」


 見回すと、さっきは閉じていた壁の扉が半ば開いており、その隙間から薄暗い奥が覗いていた。


 こっちは何の部屋だろう?


 恐る恐る近付いて見る。


 と、急にその扉が軋んだ音を立てて開いた。


 私は思わず息を飲む。


 赤、緋、薄紅、桃、朱、黄、浅葱(あさぎ)、緑、青、紫、黒、白……。


 色とりどりの絹や紗の地に、これまた様々な色の糸で花や蝶の刺繍を施した旗袍(チャイナドレス)の山が、姿を現した。


「ふう」


 蓉姐は長椅子の上に衣装の山をドサリと置く。


 弾みで長椅子の下に落ちた白の旗袍を私は拾った。


 遠目には無地の白絹に見えたが、間近に見るとビーズで花の形に刺繍が施されている。


 部屋の灯りを受けて、ビーズは七色に輝いた。


「これをあんたに直してもらうわ」


 私は姐さんの言葉をよそに光の加減で青から赤へと色を変えるビーズに見入る。

 これは、玉虫の羽ででも出来ているのか?


「汚れるわ」


 蓉姐はいきなり私の持っていた白い旗袍を引ったくると、長椅子の上に放った。


「こっちに来なさい」


 姐さんはそう言うと、廊下を今度は玄関とは反対側の方に進んでいく。


「まず、あんたを洗うのが先よ」


 行く手には今までの扉とは毛色の違う、白く曇った感じのガラス戸が構えていた。


「ここがお風呂」


 蓉姐がガラス戸を開けると、壁も床もツルツルした水色の板で張り付くされた部屋が姿を表す。


 正面の壁からは、二本の銀色の管が突き出ていて、取っ手の付いた先の方が蛇の様にぐにゃりと曲がっていた。


「水はどこから汲んでくるんですか?」


 田舎でお仕えしていた家では、女中仲間と交代で井戸から水汲みしていたが、これからは毎日かと思うと、ちょっと気が重い。


「水ならここから出るわ」


 姐さんは二本の管に近付いていくと、右の方の取っ手を回した。


 すると、管の先から迸る様に水が吹き出した!


「止める時には蛇口(じゃぐち)を反対に回すの」


 蓉姐が取っ手をさっきとは逆に回すと、水は嘘の様にピタリと止まった。


「右が冷たい水で、左がお湯ね。左はいきなり熱いのが出たりするから気を付けて」


 私は茫然と二本の管を見詰める。


 こいつは一体どんな仕組みになってるんだ?


「使い終わったら必ず蛇口は締めて水を止めるのよ。出しっ放しにしたら、あんたに水道代払ってもらうから」


「はい」


 よく分からないが、後払いで水を買う決まりになっているらしい。


「髪から爪の先まで石鹸付けて良く洗うのよ」


 蓉姐は白い蝋に似た四角い固まりを取り上げてそう言うと、眉根に皺を寄せた。


「臭くて堪らないわ」


 私は自分の破れ靴に目を落とす。


 汚くてみすぼらしい身なりの上に、嫌な匂いまでしていたのか……。


 そんなんだから、飛び込み先の店でも相手にされなかったんだろうな。


「田舎ではどうだったか知らないけど、」


 姐さんは石鹸で私の顎を軽く叩く。


 この人は、相手が自分から目を反らすことを許さないらしい。


「これからは毎日体を洗うのよ」


「はい」


 二本の蛇口から出る水は、半々に混ぜ合わせてやっと肌に心地良い温かさになった。


 乾いていると蝋の固まりにしか見えない石鹸は、水に馴染ませると七色の泡が立って、花に似た香りがする。


 蓉姐の蓮に似た匂いの一部は、これだったのだ。


 そんな事を考えながら、体を流すと、まだ治りかけの膝の擦り傷が滲みた。


 蘇州で仕えていた周家の門を出てから、船着き場まで無我夢中で駆けていく内に幾度となく躓いて出来た傷だ。


 お湯で汚れを洗い落とすと、まだうっすらと血が染み出してくる。


 その擦り傷の上には、また新たに赤紫の痣が出来ていた。


 これは、多分さっき姐さんとぶつかって転んだ時のだろう。


 浴室を出ると財布の下に畳んで置いていた綿入れとズボンが消え、代わりに手拭いと白い洋服の上着とスカートが置かれていた。


 これを着ろということらしい。


 服の脇に置いた破れ靴はそのままだから、多分これはこのまま履けということなのだろう。


 表面はザラザラと毛羽立ってはいるが、酷く柔らかな生地で出来た手拭いは、濡れた髪や体を拭くとそのまま水を吸い取った。


 これも外国製の手拭いなのだろうか?


 車といいエレベーターといい、洋人の作る物は全く得体が知れない。


 蓉姐が用意してくれた白い洋服の上着は、しかし、袖を通すと、私には明らかに丈が長過ぎた。


 そのままだと指先まで袖に隠れてしまうので、肘まで捲(まく)る。


 紺のスカートも腰周りがかなり緩くてずり落ちそうなので、内側に折り込む。


 壁に備え付けられた鏡を見ると、痩せこけた体にだぶだぶの洋服を着て、濡れた髪をお下げに編んだ、妙な娘がまじまじとこちらを見返した。


 まあ、不潔で嫌な匂いがしない分だけ、さっきよりはマシだと思いたい。

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