第20話:旗袍の山

「さて」


 これでお話はおしまい、という風に煙草の吸い殻を灰皿に置くと、蓉姐は立ち上がった。


「あたしたちはこれで休むけど、あんた、明日までにここの服、全部直しといてね」


 蓉姐は、いつの間にか長椅子から籐椅子に移動していた旗袍チャイナドレの山に手を伸ばす。


「まず、これは、襟のボタンが取れかかってるからそれを付け直す。これとこれは、スリットが解れてるからそこを繕って。あ、こっちは脇の下も破けてるからそれも頼むわ! これは胸の刺繍に染みが出来てるからそこをほどいて縫い直して。白い糸はあるでしょ?」


「はい」


 返事はしたものの、冷や汗が出る様な思いで私は服の山を見詰めた。

 これ、全部で何枚あるの?


「これは、裾をまつり直しといて。後から繕ったって分かんない様に丁寧にやるのよ!」


 蓉姐が一枚一枚籐椅子から取り上げては放る旗袍が、長椅子の上にまた元の山を形成していく。


「それからこれは」


 長椅子の上に残った最後の一枚を取り上げると、蓉姐は少し思案する顔つきになった。


 他の旗袍と比べると一回り程小さい、薄いだいだい色の旗袍だ。

 周家の奥様が飼ってた金魚みたいな色だ、と他人事ながら思う。


「これは、あんたに上げるわ」


「いいんですか?」


 私は服を受け取ってまじまじと眺める。

 橙色の絹地に黄色の絹糸で可憐な小菊の刺繍が施してあった。


「いいのよ、それ子供っぽいし、もう着ないから」


「可愛いやないか」


 苦笑いで私たちを見守っていた偉哥も口を添える。


「お前、もう、これ着ようにも入らんわ」


 刺繍の小菊を眺める偉哥の笑いが寂しくなる。

 確かに今の蓉姐の体格では、肩も胸も腰もこの旗袍には収まるまい。


「どうもありがとうございます」


 私は深々と頭を下げる。

 お古とはいえ、私には過ぎた衣装だ。


「あんたにはちょっと大きいだろうから、そこは後で自分で直してね」


 蓉姐はそう言うと、顎で長椅子の服の山を指した。


「それじゃ、頼むわよ。明日の朝、この中から着ていくやつを選ぶから」


「はい」


 私は譲り受けた金魚色の旗袍を抱き締めて頷く。

 夜が開けるのが怖い。


「それじゃ、阿偉、もう寝ましょ」


 蓉姐が蜜を含んだ声で告げると、偉哥はひょいと姐さんを抱き上げた。


 え……?


 呆気に取られる私を残して、二人は先程蓉姐が衣装の山を出してきた部屋に入っていく。

 偉哥が後ろ手で扉をガチャリと締めた。


 とにかく、仕事に取りかからないと。

 応接間で一人、我に返った私は、まず縫いかけのままに卓上の隅に丸まっている卓子掛けを取り上げる。

 縫い糸を結び止めにし、糸切り鋏を出して切った。

 こっちより、服の手直しが先だ。


 卓上の灰皿には許容量一杯に吸い殻が溜まっているので、これもゴミ箱に捨てる。

 赤い口紅の跡の着いた吸い殻とそうでないのがゴミ箱で入り交じっていたのは、吸う人間が一人でなかったからなのだ。


 吸い殻の山を眺めているだけでせ返りそうなので、視界に入らないよう、ゴミ箱は卓子の下に置いた。


「さて、と」


 小声で呟くと、私は旗袍の山をもう一度分け直す。

 すぐ手直しが出来る物と時間のかかりそうな物という分類でだ。


 この赤いのはボタンを付け直すだけ。

 この桃色のはスリットの裂け目以外に、両脇が大きく破けてるから時間がかかる。

 この朱色のは……。


 不意に、背後からクスクス忍び笑う風な妙な声と板張りの激しく軋む音が聞こえてきた。

 思わずぎょっとして振り返ると、隣の部屋とこちらを隔てる壁を通して、

 猫の鳴き声に似た声が途切れ途切れに響いてきた。


 ……とにかく、今は耳が聴こえないつもりで、服の手直しを要領良く済ませる事だけを考えよう。

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