第34話

「髪切ったり、ちょっと手直ししてもらう位なら、もっと安いとこはいっぱいあるから、そこは自分で探して」


 蓉姐は通りをカツカツ靴音を響かせて歩きながら、振り向きもせずに告げる。


「はい」


 私にも安いと思える所なんて見つかるだろうか。


 写真館、宝石店、洋服の仕立て屋……。


 目の脇を通り過ぎていくのは、皆、透き通ったガラス板の奥に姿が認められるだけで、私の手には届かない物ばかりだ。


 ふと、また、石鹸の香りがして、そちらに目をやる。

 匂いの先には、上半身裸になった太鼓腹の中年男が背もたれのない椅子に腰掛けて、ボロを着たお爺さんに髪を切らせていた。

 客の男は座ったまま眠りこけてでもいるのか、すっかり目を閉じて、路上床屋に頭を預けた格好でいる。


 見てはいけないものを目にした気がして、私は思わず目を逸らす。

 ジャキ、ジャキ、ジャキ、ジャキ……。

 通り過ぎる瞬間、錆付いた切り音が耳に障った。

 そもそも、あれは、糸切り鋏じゃないか。


「ま、安い所はそれなりだから、嫌ならとにかく稼ぐ事ね」


 蓉姐の身に纏う濃紺の旗袍の背は陽の光を浴びて、黒揚羽(くろあげは)の羽根の様に照り返した。

 姐さんの靴音が一歩一歩響く度に、体全体からまるで青紫の光る鱗粉が飛び散るみたいだ。


「はい」


 青紫の残像に毒粉でも嗅がされた様に目が眩みつつ、私はふらつくハイヒールの足をひたすら前に踏み出す。


「今日だけだからね、こんな風に手を懸けてやるの」


 蓉姐は不意に振り向いて立ち止まる。

 陶器じみて滑らかな白い手が、私の縮れた前髪を撫でた。

 理髪店でパーマした後に塗りこまれた髪油の匂いに混じって、蓮に似た姐さんの香りがする。

 何だか憐れむ風な、寂しい笑いが、姐さんの弧を描いた眉から紅を引いた口許にまで漂っていた。


「こんなモノにならない奴を連れてきたなんて追い出されない様に、あんたがしっかりやるのよ」


 蓉姐の緋色の唇は挑む様な笑みを作っていたが、緑色の目に潤んだ光が微かに宿る。


「分かった?」


 念を押す姐さんの双眸で、透き通った光が蝋燭(ろうそく)の火の様に揺れた。


「はい」


 私は鼻を押さえると、大きく首を縦に振ると、目頭を拭った。

 どうして、涙が込み上げたのか、自分でもよく分からない。


 蓉姐はまた何事もなかったように前を向いて歩き出した。


 行く手に妓楼と寺塔に洋人の館を混ぜ合わせた様な建物が見えてきた。

 白昼の青空の下でもそこだけ真夜中の様な楼閣だ。

 近付くに従って、「海上花(ハイシャンホア)」という屋号が星の様に浮かび上がった。


「薔薇(バラ)、薔薇はいかがですか?」


 歌う様な子供の声が後ろから急に聞こえてきた。


「一輪から売りますよ、お部屋の飾りに真っ赤な薔薇はいかが?」


 振り向くと、七つか八つ位の男の子が両手で籠を抱えて歩いてくるところだった。

 男の子の服も籠も煤けて黒ずんでいたが、籠に溢れんばかりに積まれた花は、燃え立つ様に赤い。


「蓉姐!」


 こちらに気付くと、男の子の小さな真っ黒い顔がパッと明るくなった。


「鴉児(ヤール)!」


 姐さんが呼ぶより先に、男の子は籠を抱えたまま、トコトコこちらに走ってくる。

 重い物を持ってそんなに急ぐと転ぶか、籠の花を溢しちゃうよ、と言いたくなる。


「お花はいかがですか?」


 男の子は顔の前に籠を掲げた。

 瑞々(みずみず)しい香りと共に、籠に入った花の赤い花弁に点じた露がキラリと光る。

 そういえば、今はまだ昼前なのだと思い出す。


「今日は十本で花束にしてちょうだい」


 蓉姐は日溜まりの様に穏やかな声で告げた。

 姐さんは多分、二十四、五歳だろうから、本当ならこのくらいの子供がいてもおかしくないのだ。

 蓉姐に浮かんだ柔らかい笑顔から、そんなことをふと思い当たった。


「分かりました」


 男の子はこくりと小さな頭で頷くと、素早く籠から花を取り出して、器用な手つきで纏め始めた。

 まだ小さいけれど、指の節くれだった、ザラついた感じの手。

 蘇州の周家にいた庭師のおじさんもこんな手指をしていたな、と思い出す。


「こちらになります!」


 男の子が丸く纏まった花束を差し出す。

 蓉姐がバッグから財布を取り出す間に私が代わりに花を受け取る。

 至近距離で吸い込むと、この香りは瑞々しさの中にあまやかさを含んでいる。

 浴室の石鹸(せっけん)は、この薔薇の香りなのだと改めて気付いた。


「とっても綺麗ね」


 私が花から目を移して声を掛けると、男の子はニッと八重歯を見せて笑った。

 地黒の上に煤けた顔をしているので、歯が真っ白に見える。

 誰が「鴉児(カラスッコ)」と呼び出したものか、本当に鴉(カラス)の子そっくりだ。


「こちらのお姐(ねえ)さんは?」


 蓉姐から金を受け取りながら、鴉児は私に向かって笑顔の首を傾げた。


「莉姐(リーねえさん)よ」


 蓉姐が笑顔で答える。

 鴉児は小首を傾げた笑顔のまま、私に向けたはしこい目を光らせた。


 ――お姐ちゃんも、花、買ってくれるよね?


 口には出さなくても、その目はそう語っている。


「じゃ、どうもありがとうね」


 蓉姐が礼を告げると同時に歩き出したので、私も手にした花束の香りを嗅ぐ振りをして後に続く。


「毎度あり!」


 幼い声が後ろから響いてきた。


「莉姐も今度買ってね!」


 ……油断のならない子ガラスだ。

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