第32話:着替えて、髪を整えて
「今日は
「はい」
総経理って、要はお店の
蓉姐の言葉に頷きながらも、私の頭の中はまた耳慣れない言葉でいっぱいになる。
とにかく、姐さんの話を総合すると、私は姐さんも勤めている「
客の前で踊りを見せたり、あるいは求められれば一緒に踊ったりはするが、「
「
あんたも知ってるでしょ、という調子で、蓉姐はまた私の見知らぬ人の名を口にする。
「あんたが使い物にならないと判断したら、その時は」
姐さんの紅い唇が続ける。
「バラバラにして
人前で踊るより、まずその総経理のお目にかかる方が恐ろしい。
「あんたのバッグはこれね」
私の思いをよそに蓉姐は箪笥の奥から黄色いビーズのバッグを取り出して、ベッドに放る。
「昔、あたしが使ってたやつだから、ちょっと流行遅れだけど、使う分には支障ないから」
「どうも、ありがとうございます」
やっぱり、この服、私にはちょっと緩いみたい。
姐さんに貰った橙色の旗袍は、いざ袖を通してみると、脇の下の隙間から微妙に下着が覗いてしまう。
今日着ると分かっていたら、卓子掛けなんかより、こっちの手直しを先にしたのに。
そう悔やみつつ、ベッド上の黄色いビーズのバッグに手を伸ばした所で、蓉姐の声が飛ぶ。
「ちょっと、万歳してみて」
私はバッグを持ったまま両手を挙げた。
何て間抜けな格好だろう。
蓉姐は呆れた顔で息を吐く。
「洗面所に剃刀置いてあるから、今すぐ脇の下、剃って来なさい。石鹸を付けると綺麗に剃れるから」
万歳したまま、私はカッと顔に血が上るのを感じた。
「脇にヒゲを生やしたまま旗袍着てたら、オカマと思われるわよ」
これからは、毎日風呂に入るばかりでなく、その都度、脇の下を剃らなくちゃいけないみたいだ。
*****
「こっちよ」
濃紺の旗袍に真珠の耳環で着飾った蓉姐の声が通りに響く。
「ほら、もっと、シャキシャキ動く!」
「はい」
返事はしてみるものの、新しい靴を履いた足を早めようとすると、グラついて転びそうになる。
踵の高い靴、姐さん曰く「ハイヒール」が、こんなに歩きにくいとは思わなかった。
私が薄桃色のハイヒールで一歩踏み出すのにさえ四苦八苦している間に、姐さんは青紫のハイヒールをカツカツ進めていく。
と、その規則正しい音が止まった。
「ここで、今度は頭をやってもらうわ」
姐さんの白い手が指し示す。
次は、一体何があるんだろう……。
「
出迎えた五十がらみの男は蓉姐を認めると、丁重に頭を下げた。
「今日は私じゃなくて、この子の髪をお願いしたいんです」
「お下げに長くしてるみたいですけど」
「切ってパーマにして下さい」
蓉姐と男のやり取りを尻目に私は店内をぐるりと見回す。
壁に備え付けられた大きな鏡。
その前にはベッドと椅子の合の子みたいな腰掛けが並ぶ。
部屋全体に漂う、石鹸やら髪油やら薬やら混じった異様な匂い。
何だか床屋というより、怪しげな手術を施す医院にでも入った気がした。
と、男が急に私の肩に手を置くと、金歯を覗かせて笑った。
「それじゃ、そちらにお掛けになって下さい」
*****
「いかがでしょう?」
理容師は鏡越しに金歯を見せて微笑む。
「とても」
鏡の中の私が引き吊った顔で笑う。
「とても素敵です」
新しい髪型は、お下げ髪を肩まで切って全体を波打たせ、前髪は鶏冠みたいに丸めて縮らせてある。
何だか、頭にだけ雷が落ちて、その後に鳥が巣を作ったみたい。
「このパーマが今の流行りなの」
蓉姐が隣に来て笑う。
これは、多分、洋人の女が始めた頭なんだろう。
同じ髪型なのに、私はまるで火事で焼け出されたみたいで、蓉姐は生まれ落ちた瞬間からこの頭でいた様に思える。
「どうも、ありがとうございます」
せめて笑い方だけでも似せよう。
私が唇の両端をきゅっと吊り上げたところで、鏡の中で後ろの扉が開いた。
「
「あ、ね、姐さん」
呼びかけられた相手は、ぷっくりした丸顔のクリクリした両目をパチパチさせる。
「お早うございます」
薇薇と呼ばれた女の子は太った小柄な体を折り曲げて、巨大な鳥の巣じみた頭を下げた。
動くと
「この店で会うなんて、あんたも出世したわね」
蓉姐がにいっと目を細めて相手に歩み寄る。
この目付きは、まずい兆候だ。
私は腰掛けから動けないまま息を呑んで見守る。
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