第30話

「あんた、駄目じゃないの、電話したのに」


 白地に赤紫の蘭が刺繍された旗袍の蓉姐は、私と顔を合わせるなり、腰に手を当てて呆れた声を出した。


「え?」


「せっかく靴を買ってやろうと店から電話したのに、何っ回鳴らしても出ないんだから」


 語る内にも姐さんの顔がますます苦々しくなる。

 あの三度目の電話は、姐さんだったのだ。


「すみません。勝手に取っちゃいけないと思って……」


 直前に掛けて来たのがあいつでさえなければ……。


「電話の取り次ぎくらい、さっさと覚えろよ、バーカ」


 背後から、阿建の忌々しいガラガラ声が飛んでくる。


「何だ、お前ら来てたのか」


 玄関の錠を挿して偉哥が廊下を歩いてきた。

 偉哥の方は昨夜と同じ洋服を着ている。

 その発見は、なぜだか胸をどきつかせた。


「そのお茶、すぐに出してちょうだい」


 蓉姐は台所の奥にいる小明に声を掛けると、私に向き直った。


「あんたの分のご飯も買ってきたわ」


 姐さんはもう笑顔になっていた。

 気まぐれでも、不機嫌を引きずる人ではないのが救いだ。


「どうもありがとうございます」


 私は頭を下げる。

 同時に、麻痺していた空腹の感覚が急速に戻ってきた。


「姐さん、俺らもご相伴(しょうばん)できますか?」


 阿建が後ろ手に笑顔で近付いてきた。


「手を前に出しなさい」


 蓉姐が鋭い声で命じる。

 阿建は恐る恐る手にしたクッキーの箱を出した。


「本当にあんたは、頭の黒い鼠(ねずみ)だわね」


 蓉姐は阿建のニキビ面の頬をピシャリと打つと、クッキーの箱を取り上げる。


「あんたが来た後は、必ず茶菓子がごっそり減るんだから」


 姐さんは腹立たしげにそう言い捨てると、流しの下を開けてクッキーの箱を投げ込む。


「すみません。今朝はまだ何も食ってないもんで」


 阿建は叩かれた頬を押さえたまま、打って変わってオドオドした声で答える。

 肥えたニキビ面の頬には、短い指からはみ出す様に赤い跡が出来ていた。


「お前ら、朝飯、まだ食ってないのか?」


 香ばしい匂いを放つ包みを持った偉哥が怪訝な顔をする。

 これは、肉饅頭(ニクマントウ)だ。

 流れてきた匂いに、涎(よだれ)が出そうになる。


「その件については、今、お話します」


 小明が盆に急須と新たな茶器を載せながら答える。


「こちらに急にお邪魔したのもそのせいなんで」


 小明の声がそこで密やかになり、偉哥の顔がさっと険しくなる。


「分かった」


 偉哥は頷きながら洋服の上着を脱ぐと、近づいてきた阿建に手渡す。

 阿建は受け取ったその上着を畳むと、その形が崩れない様に両手で大事に持った。

 さすがに阿建も兄貴分に対しては神妙に振舞うらしい。


「莉莉(リリ)」


 蓉姐と偉哥、次いで阿建の三人が応接間に向かったところで、小明が私を手招きした。


「蓉姐と偉哥が使うのはこれだから」


 小明はお盆に載せた二つの湯飲みを指す。

 形も大きさもお揃いの湯飲みには、色違いで洒落た小花模様が入っていた。


「桃色の花模様が姐さんで、青い方が哥哥(あにき)」


 まるで聞かれたら困る秘密を打ち上ける風に、小明は早口の小声で説明する。


「分かったわ」


 私は真っ白な茶器を三個持ったまま頷く。

 多分、こういう模様なしの器は雑魚(ざこ)用なのだ。


「俺は、もう一回湯を沸かすから、君は先に行って偉哥たちに茶を出しておいて」


「はい」


 私が返事をするより前に、小明はまた台所の奥に戻っていった。


「お茶、お持ちしました。」


 急須と五個の湯飲みを載せたお盆を持って応接間に足を踏み入れる。

 そこでは、偉哥が長椅子で煙草を吹かし、蓉姐がせっせと食べ物の包みを広げているところだった。

 と、開いた寝室の扉から阿建が椅子を二脚抱えて姿を現す。

 応接間の椅子だけで足りない時は、どうやら隣から補充するらしい。


「箸と取り皿!」


 私がお盆を卓子(テーブル)に載せたところで、蓉姐が当然の様に告げる。


「こちらです」


 たじろぐ私の頭のすぐ後ろで小明の声がして、皿と箸の山がトンと目の前に置かれた。


「醤油(しょうゆ)と辣油(ラーユ)を持ってきて」


 私の頭越しに、蓉姐が新たに小明に言い付ける。


「それから、お酢もね」


「はい」


 小明は素早く頷くと、小走りでまた台所に戻る。


「おい、小皿がないじゃんか」


 阿建も卓上を見やってそう言うと、台所へ駆け去った。


「何やってんの、早くお茶、淹れなさい」


 ぼやぼやするな、と咎める顔つきで蓉姐が私の肩を叩く。


「あ、はい」


 我に返って急須を取り上げると、取っ手が酷く熱くなっていて、危うく床に落としそうになった。


「やっぱり、お湯足りなかった?」


 急須を持って台所に戻っていくと、小明がコンロの青い火を止めながら尋ねた。


「ええ」


 私は情けない声で答える。


「あの急須、三杯分がやっとなんだよ」


 小明は苦笑しながら急須の蓋を開けると、新たな湯を注いだ。

 淡い茉莉花(ジャスミン)の香りと共に、白い湯気が彼の小造りな横顔を包む。


「貴方と私の分は二番煎じになっちゃった」


「俺は構わないさ」


 小明は急須の蓋を静かに閉じると、差し出した。


「いつものことだから」

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