第九幕 迷い仔猫の同居人

 一条の件はエミリに丸投げし、自宅に戻ったところで全てが元通りというわけにはいかなかった。

 研究班を締め上げてどうにかしろと脅しをかけたが、マオの右手は元には戻らないらしい。痛みはないから大丈夫、とマオは言っていたが、大丈夫なわけあるまい。

 見られるのが嫌なようで、あれ以来、隆二の右隣に居るようになった。すぐに隠すように動かすから、隆二はあまりそのことに触れないことにした。

 隆二に見られるのは嫌なようだが、隆二の傍から離れるのも極端に嫌がるようになった。今までも隆二についてまわっていたが、最近は本当にべったりだ。テレビをつけていても、それが四苦八苦久美子でも、テレビより隆二を優先する。コーヒーをいれるためにソファーから立ち上がるときでさえ、怯えたような顔をする。すぐそこなのに。ソファーからでも姿が見えるのに。

 寝ているときにはうなされているし、突然起きて泣き出すこともある。夜は怖くて眠れないと言い、元々幽霊のときは不規則だった睡眠時間が、めっきり昼間に集中するようになった。

 一晩追い回されて、自分の身の上を急に明らかにされて、斬られて、消されかけて。あれだけの目に遭ったのだから、一人になるのを恐れるのも、眠れないのも仕方が無いことだと思う。

 そして、何もできない自分は、ふがいない。出来るだけマオが安心できるように努めることしかできない。

 特に問題だと思うのが、ことあるごとにマオが呟く、ごめんなさいという言葉だ。思えばあのときから、ずっとごめんなさいと言っていた。

 約束を破って一人で出かけたから、こんなことになった。心霊写真を撮りたいと駄々をこねて、一条にバレることになった。隆二に心配をかけた。だから、ごめんなさい。そういうことらしい。

 確かに約束は破られたけれども、その約束の理由を説明しなかったのは隆二だ。説明していればマオだって、出かけたりしなかっただろう。だから、非は隆二にだってある。

 それ以外のことにかんして、マオに原因がある部分はない。心霊写真のことだって、出かけたことだって、誰がこんなことになると思えただろう。

 マオは悪くないから謝らなくていい。そう何度も言っているのに、今だって隣で眠っているマオは、寝言でごめんなさいと呟いている。

 まったく、どうしたものかね。

 上手い解決方法が欠片も思いつかない、自分のひとでなしさに呆れ返り、溜息をつく。

 眠っているマオの頭をそっと撫でる。歪められていた顔が、少しだけ和らいだように見えた。

 心の傷は時間が治してくれるかもしれない。今は待っていればいいのかもしれない。

 だけれども、待っていてくれないことだってある。

 ぴんぽーんっと、チャイムが鳴った。マオを起こさないようにそっと立ち上がると、玄関に向かう。

「こんにちは」

 ぺこりと頭を下げたのは、勿論赤い彼女だった。

「来てもらって悪いな、エミリ」

「いえ。マオさんは?」

「寝てる」

「そうですか」

 なんとなく小声で会話しながら、部屋の中に入る。二人分のコーヒーをいれると、ダイニングテーブルに向かいあった。

 エミリがソファーで眠るマオに視線を移す。

「……やはり、嫌がりますか?」

「ああ」

 今もっとも困っていて、問題視していることは、マオが食事をとりたがらないことだ。あれから半月経って、食事の日が来ても嫌がった。

「実体化するのが怖いっていうのは、わかるからなぁ」

 先月まではあんなに楽しみにしていたのに。実体化しているときは、普通の人間としてしか生活できないこと、つまり肉体の死が生じることを知ってしまった今、実体化したくないらしい。

 だからといって、このままでいいわけがない。このままじゃ、エネルギー不足で消えてしまうだけだ。

「食事と実体化が切り離せないところが問題ですよね」

「強引に与えようともしたんだけど、人に物喰わせるのと違って、本人に食べる意思がないとどうしようもないみたいだな」

「……そうですか」

「マオ本人も、このままじゃただ消えることになるのはわかっているみたいなんだけどな。エネルギーが不足してきているのは本人が一番わかっているだろうし」

 だけれども、どうしても勇気がでないのだと言う。こればっかりは、気長に待つ訳にもいかない。もたもたしていると本当にマオが消えてしまう。

「でしたら、これがマオさんに勇気を与えるきっかけになればいいんですけど」

 言いながら、エミリが鞄からクリアファイルを出してきた。

「お話ししていた件、研究所に飲ませることに成功しました」

「本当に!?」

 思わず声が大きくなる。慌ててマオの方を見るが、僅かに顔をしかめたものの、目は醒まさなかった。

 クリアファイルの中の書類を手に取る。ゆっくりと、それに目を通していく。

「……本当だ」

 今回のことの責任をとれ、と押し付けた要望書。無理難題をふっかけている自覚はあったので、こちらの条件が全て通るとは思っていなかった。それらが多少条件はついているものの、全て通っている。

「……大変だったんじゃないのか?」

 澄ました顔でコーヒーを飲むエミリを見る。

「半分は父のおかげです」

「……ああ」

 では、残り半分は?

 尋ねようとしたとき、

『りゅうじっ』

 マオの怯えたような声がして、慌てて立ち上がった。

 目を覚まして、ソファーで上体を起こしたマオの前に膝をつく。

「おはよう」

 軽く頭を撫でながらそう言うと、マオは小さく頷いた。

『あ、エミリさん』

 腰を浮かしかけたエミリに気づき、そう呟く。

「お邪魔しています」

 エミリはいつものように応えた。

「……お腹、空いてないか?」

 尋ねるとマオは戸惑ったように沈黙した。嘘がつけないマオのことだから、やはり空いているのだろう。

「話があるんだ、いいか?」

 マオは小さく首を傾げたが、嫌がったりはしなかった。

「席、外しましょうか?」

 エミリがそう声をかけてくる。

 別にいてもらっても構わないが、そう言いかけて、これから自分が口走ることを考えたら、

「あー、悪い」

 苦々しくそう呟くしか出来なかった。エミリに聞かれて困る話ではないのだが、エミリに聞かれたら恥ずかしいことを言うような気がする。

 エミリは一度小さく笑ってから、

「外に居ます。終わったら呼んでください」

 躊躇い無く外に出て行った。

『……隆二?』

 小さな声で尋ねてくるマオに、安心させるように微笑みかける。それから告げた。

「引っ越そう」

 突然の申し出に、マオがきょとんとした顔をする。最近怯えたような顔ばかり見ていたから、こんな顔でも表情が動くと安心する。

「行き先はマオが決めていい。どこでもいいよ、俺は」

『……え、なんで?』

「今回知り合いを増やし過ぎたから」

『……ごめんなさい』

 ああ、もう。だからなんで謝るかな、こいつは。

 一瞬、苛立ちが胸中に湧き起こり、慌てて深呼吸してそれを押し込めた。

「マオのせいじゃなくって。っていうか、そもそもコンビニの人に正体はバレてたんだけどさ」

 菊だけだったならば放っておいた。なんか、オカルトマニアだったし、実害がなさそうで。だけれども、緊急事態だったとはいえマオの写真をばらまいたし、柚香とも葉平ともしっかり面識が出来てしまった。さすがに、これは問題だと思う。

『……あ、柚香さんに、あたし連絡してない。急に消えたままだ』

「ああ、それはやっといたから大丈夫」

 まあ、一週間経ってからだけど。世話になったり心配をかけたりした人へ、無事だった報告をすることなんて、すっかり頭から抜けていた。仕方ない、ひとでなしなんだから、と自己弁護。

「とりあえず大丈夫だったって、連絡してある。……だけどさ、やっぱりこれ、あんまりいい状態じゃないと思うんだ」

 今はまだいい。だけれども、時が流れればいずれ不審に思われるだろう。容貌に変化がないことも、マオが半月ごとにしか姿を現さないことも、どこで不審に思われるかわからない。

 自分一人だったら、多少不審に思われても構わなかった。でも、今はマオがいる。不安の種は減らしておきたい。

「だから引っ越そう。どこでもいいけど、そうだな、どこか田舎でのんびり暮らせたら一番いいな」

 正直、今回頑張り過ぎて怠惰な生活が恋しい。

『……引っ越しって、でも平気なの? 急にそんな……』

「これ」

 クリアファイルから書類をだして、マオに見えるように床に並べる。

「今回のことの迷惑料ってことで、研究所にふっかけた」

 一条のことを隠蔽して、マオのことを見捨てようとしたことを、ちくりちくりとやりながら、マオになにかあったらここを壊滅させるぞ、と躊躇いなく脅した。一条を生かしてそちらに引渡したことも感謝しろよ、と半殺しにしておきながら偉そうに告げた。

 久しぶりにU〇七八であることを、存分に使った。死神のいない今、トラウマもなにもない研究所など何も恐れることがない。どさくさに紛れて、一条の持ち出したエクスカリバーも破壊したし。電話越しとはいえ、相手方の怯えるさまはなかなかに痛快だった。

「引っ越しも条件のひとつ」

 引っ越し費用は向こう持ち。新しい家も用意しろ。我ながらむちゃくちゃな要望だが、エミリと和広の協力があってねじ込めた。

「あとまあ、当面の生活費なんかももぎ取ったし。あー、定期検査無しには出来なかった。回数は減ったけど。ごめんな」

『……それは、うん。……行かなきゃいけないのは、わかってるから』

 語尾が震える言葉に、ぽんぽんっと頭を撫でる。

「まあ、俺も一緒に行くし」

『ん、ごめんなさい……』

「謝らなくていいから」

 だから何故謝る。

「一条のことは」

 その名を口にすると、びくっとマオの体が震えた。しかし、避けて通れない話題だ。

「あいつらに全部任せた。ただ、二度と俺たちに近づかせないことを誓わせた。居場所も教えるなって」

 次にその姿を見かけることがあったら、研究所もろともただじゃおかないぞ、と言っておいた。まあ、その前に、一条がまた隆二達の前に姿を現せるほど、元気になるかも疑問だが。身体的な意味で。というのは、マオには言わないでおく。

「だから一条のことは大丈夫」

 それからエミリに調べてもらったところ、一条稔は、あの一条と、茜の一条と親戚関係にあるらしいこともわかったが、まあそれは蛇足。一条花音が茜と親戚関係にある、それになんともいえない感慨を抱いたが、それはマオとは関係ないことだ。一条花音とマオは、何にも関係がないことだ。

 マオがこくりと小さく頷いた。

『ごめんなさい』

「謝らなくていいから。それから、あと、そうそう義手」

 この話をするのは嫌がるだろう。だけれども、言わないと先には進めない。

「右手」

 告げると、マオは身をよじるようにして右手を隠そうとした。

「元には戻らないけど、義手作るように頼んだから。実体化している時は勿論、霊体になってからも使えるもの。不便はあるだろうけれども、見た目は気にしなくていいはずだから」

『……本当?』

「ああ」

 マオが少し安心したように笑った。のも、束の間。

『ごめんなさい』

 また謝った。

 ぷちっとどこかで何かが切れる音が聞こえた気がした。

 あ、駄目だ。我慢の限界だ。半月我慢してきたのに、ここで限界だ。

 マオの頬を包むように、両手を伸ばす。

『……隆二?』

 不思議そうなマオ。

 寧ろ優しく微笑みかけると、

『ひゃぁっ、ちょっ』

 その頬をぐっと引っ張った。

『りゅーじっ』

「お前は本当に一体なんだってそうやっていちいち人の神経を逆撫でして俺を一体なんだと思ってるんだ」

 そこまで一息に言ってから手を離す。そのまま、また頬を包むように手を置いた。

「ひとでなしだぞ」

『……ええ?』

「お前はあれだけ普段人のことを、やれひとでなしだの、唐変木だの言っておいて、それでも気を使えというのか、この俺に」

 自分でも、なに駄目なこと自信満々に言っているんだろうなあ、という気はするが。

『え? ごめんなさ』

「だからそれ」

 また謝ろうとしたマオを遮る。

「今後、この話題について謝罪禁止。だって別にマオは悪くないだろ。悪くないのに謝罪されるほど不愉快なことはないだろう」

 マオの目が大きく見開かれる。驚いたように。

 さてはお前、自分が二言目には謝罪していたことにも気づいてなかったな。

「大変だったのも辛かったのも怖かったのもわかるよ。だから、無理に笑え、とは言わない。だけど、せめて謝るのはやめろよ」

 ああ、やっぱりエミリに席を外しておいてもらって正解だったな。そう思いながら、続きを口にする。

「俺はずっと、この一年、お前の無駄な明るさに救われてたんだよ」

 最初はただ振り回されて、面倒だなと思っていた。今だって、たまに面倒だなと思うけれども、面倒だなと思うこともひっくるめて楽しいと思っている。マオとの生活を。

 マオを拾ってすぐは、久しぶりの誰かと一緒の生活も悪くないものだな、と思っていた。今は、マオと一緒の生活じゃなければ意味がないと思っている。誰かじゃなくて、マオとの。

「調子が狂うんだよ、マオがそんなだと」

 マオの存在は、すっかり隆二の生活に組み込まれているのだから。

「無理に笑えとは言わない。時間がかかってもいい。それぐらいちゃんと待つ。俺だって、たまにはそういう努力をする。だけど、謝るのだけはやめてくれ。頼むから」

 怯えさせたくて、泣かせたくて、謝罪させたくて、傍に置いているわけではないのだ。

 マオは目を見開いたまま隆二の顔を見つめていたが、やがて、

『うん』

 頷いた。それから言葉を探すように少し沈黙して、

『……ありがとう』

 まだどこかぎこちなくだが、そう言って微笑んだ。

 それに安堵すると、ぽんぽんっと頭を撫でる。

「……マオ」

 左手をそっと繋ぐ。

「……食事、しよう。そろそろ、本当に」

 その途端、マオの顔がまたくしゃりと歪んだ。

「大丈夫。あんなこと、そうそうないから。今度はちゃんと、俺が傍にいるから。危ない目には遭わせないから」

 マオが今までよりも少し気を使って、隆二がちゃんと見ておけば、きっと平気なはずだから。

「それでもまだ、やっぱり、怖い?」

『……怖いよ』

 泣きそうな顔でマオが答える。

『だって、約束破っちゃうかもしれない』

「……ん?」

 それは想定と違う返答だった。約束?

『ずっとあたしが、傍にいるって言ったのに。一緒にいるって言ったのに、それを破っちゃうかもしれないの、すっごく怖い。隆二がまた、一人になっちゃう……』

 泣きそうな顔で、それでもはっきりとマオはそう言った。

 約束って、ああ、そうか。

「……お前は、本当にっ」

 繋いだ手をひっぱって、頭を抱き寄せる。

『わっ。……隆二?』

「怖いって、それかよ」

 声が掠れた。

「他にも色々あるだろうが。最初にでるのが、それかよ」

『……隆二、大丈夫?』

 腕の中のマオが心配そうに呟く。立場が逆転した。

 だって、そうだろ?

「なんで俺の心配なんだよ、お前」

『……なんでって』

 どうしてそんなことを訊くのかわからない、とでも言いたげな不思議そうな口調で、

『だって、約束したから』

 当たり前のようにそう続ける。

『一人じゃないから大丈夫だよ、って言ったの、あたしだもの。絶対に一人にしない、って言ったの、あたしだもの。だって』

 マオの左手がそっと背中にまわされる。

『泣いていたじゃない、あのとき、隆二』

「……京介の?」

『そう。あたしね、びっくりしたの。隆二は泣いたりしないって勝手に思ってたから』

「あー、うん」

 出来れば泣いていたことは忘れて欲しいんだが……。

『隆二が泣いているの見るの、なんだかとっても悲しいから。だから、もう二度と、隆二を泣かせないって決めたの。今また、泣かせたけど……』

「……泣いてない」

『うそ』

 ぎゅっとマオの額が胸に押し付けられる。

『声で、わかるよ』

 そっと囁かれた言葉に、ぐっと言葉につまる。まあ確かに、今少し泣きそうだったけれども、それは、

「……世の中にはうれし泣きっていう言葉があってだな」

『……うれし泣き?』

「……そのうち学んでくれ」

 心配してくれていたことが嬉しかったのだと、どうして自分の口から言えよう。

「ともかく」

 気を取り直して咳払い。

「俺のことでそんなに気に病まなくていいから」

 肩を押して体を離す。マオの眉間に寄った皺を指先でぐぐっと押した。

『ちょっ』

「大丈夫だから、俺は」

 抗議の声を無視して、指でぐいぐい押したまま続ける。

「マオが実体化してから、少しずつだけど、ちゃんと覚悟をしてきたから」

『……覚悟?』

「一人になること」

 微笑んでみせると、マオはまた泣きそうな顔をした。眉間から手を離し、マオの頬に手を移すとぐいっと唇を笑みの形にした。

『ちょっと』

「泣かれたら嫌なのは俺もなんだよ」

 早口でそう言うと、手を離す。

 マオはなんだか驚いたような顔をして、それから小さく頷いた。

 長い時間をかけて覚悟してきたのだと、茜が言っていた。それならば、きっと。

「一緒にいる時間は、いつかくる別れのための準備期間なんだ」

 それがいつのことかはわからない。でも、別れが避けられないのであるならば、せめて悔いなくその日まで過ごしたい。今は、そう思う。

「だから、その、残された俺のことは気にしなくていい」

『……でも』

「代わりに、今のことを気にしてくれ」

『……今?』

 そう、と一つ頷く。

「別れの時に悔いたりしないように。悲しいのは避けられないとしても、悔いがないように」

 ここまでの別れはずっと悔いばかりのこった。茜のことも、京介のことも。今度は、それを避けたい。

「出来るだけ楽しく、笑って過ごせたらいいな、と俺は思うわけだ」

 なんだかとっても恥ずかしいことを口にした気がしてきたので、

「あとだらだらしたいよな」

 照れ隠しにそう続ける。いや、本心だけど。

『……ん』

 マオが小さく頷いた。

「……だからマオ、食事をとろう」

 ここまで言っても、今ひとつ押しが足りないらしい。困惑の表情を浮かべる。

「お前さ、わかってるだろ。食事とらないと消えるんだぞ」

 さすがに苛立ってきた。人にここまで恥ずかしいこと言わせて、何を躊躇っているんだ。

『……そうだけど』

 マオの左手が、自身の右肩にそっと触れる。

「今のことを考えろ」

 その左手ごと、肩に触れる。

「悲しませたくないなど言ってもな、俺は」

 なんだかもう色々面倒になって、睨みつけた。マオが怯えたような顔をする。もう知るか。ひとでなしなのにここまでよく頑張った方だと自分でも思う。怯えようが結構。優しい言葉なんてこれ以上かけられるか。むず痒くて仕方ない。

「今、マオに消えられたら、悲しいし、困るんだよ! いつまでも甘えないでくれよ、困るんだよ、ひとでなしなんだから!」

 マオの目が大きく見開かれる。

 それを容赦なく見つめ返した。というか、睨み返した。

 マオはしばらく黙っていたが、ふいに唇を重ねてきた。咄嗟のことに目を閉じるのが遅れた。

 触れていた部分に熱があらわれる。

「いただきますぐらい言えよ」

 唇を離したマオにそう毒づいた。

 マオは一瞬、不満そうに唇を尖らせたあと、

「ごちそうさまでした」

 肉声をふるわせて、そう答えた。

 実体化した彼女の右手はやっぱりなくて、白い肩が痛々しかった。

「……痛みは?」

「平気」

 マオは少し微笑み頷いた。それから、

「……ねえ、隆二」

「ん?」

「さっきの、引っ越しの話。あたし、住みたい場所があるの」

 提示された場所はとっても意外な場所だった。



 とりあえず着替えて来い、とマオを隣の部屋に連れて行くと、次に玄関の扉をあけた。

「……あ、お話終わりました?」

 扉の横に寄りかかるようにして立ち。ケータイをいじっていたエミリに頷きかける。

「悪かったな」

「いえ」

 エミリは再び部屋の中に入りながら、

「どんな恥ずかしい言葉で、マオさんを説得されたんです?」

 悪戯っぽく笑った。

 見抜かれている。

「ほっとけ」

 苦々しく言葉を返した。

 またダイニングに戻ってくると、部屋着に着替えたマオも部屋から出て来た。首元にはしっかりとペンダントがついていて、それに少し微笑む。

「マオさん」

 エミリが立ち上がると、マオの目の前に立った。

「ごめんなさい」

 そこで頭を下げる。

「エミリさん?」

 マオが驚いたように声をかける。

「一条のこと知らなくって。研究所のことなのに、何も知らなくって。心霊写真のことも、知ってたら送らなかったのに。ごめんなさい」

 早口の謝罪に驚いたのは、隆二も一緒だった。エミリが気に病んでいたのはわかっていたが、まさかここまでとは。ずっと、この半月、どこで謝ろうか考えていたのだろう。

「え、待って。エミリさんが悪いんじゃないよっ」

「でもっ」

「エミリさんが助けてくれたの、知ってるもん。ありがとう」

「マオさん……」

 二人ともなんだか声が泣きそうになっている。おいおい大丈夫だろうな、と思っていると、

「本当、最悪の前に間に合って良かったです」

「うん、ありがとうっ」

 何故か二人して抱き合って号泣。

 なんでこうなった?

 感情の波に一人置いて行かれた隆二は、間抜けな顔をして、わんわん泣く少女達を見る。

 それにしても、緑の髪と赤い服。クリスマスみたいなやつらだなーと、どこまでもひとでなしなことを思った。


「……あー、そろそろいいか?」

 二人が思う存分泣き、落ち着いたところでそう声をかけた。

「はい、すみません」

 ハンカチで目元を拭きながら、エミリが頷く。マオはティッシュを探して彷徨いはじめた。

「あー、その引っ越しの件だが」

 置いてあったティッシュの箱をマオに渡しながら、本題を切り出す。

「決まりました? 場所」

「ああ。マオの希望で」

 その場所を告げると、エミリが驚いたような顔をした。

「いいか?」

「こちらは構いませんが……、神山さんはそれでいいんですか?」

 いいか悪いかで言われたら、正直微妙だけど、

「どこでもいいって言ったの俺だしなー」

 そう呟くと、マオがふふっと楽しそうに笑った。僅かなものではあるが久しぶりの笑みに、心の底で安堵する。

「わかりました」

 エミリも小さく微笑むと、

「それじゃあ、準備できたらご連絡しますね」



 その準備の連絡は意外とはやく、一週間後には、いつでも引っ越せますよ、などと言われた。それならば、マオが実体化しているうちに引っ越してしまおう、と連絡を受けた二日後には、新天地に向かっていた。

 どうせ荷物なんて、たいしてないし、面倒な手続は研究所任せだし。

 電車を乗り継ぎ、目的地につく。切符の購入も乗り継ぎの案内も、全部エミリに頼んだが。

 人の少ない駅で降り立つと、ちらほらと視線が向けられた。

「やっぱり目立つのかな」

 向けられる視線に、マオは右手を隆二にくっつけて隠そうとする。必然的に腕を組んだような形になって逆に目立つような気もした。

 研究班の寄越した義手をつけているから、ぱっと見はよくわからない。それでも、右手のことは気になるらしい。こればっかりは、慣れてもらうしかないな、と思っている。

「そんなことありません。うちの研究所はバカばかりですが、その腕は優秀ですから。わたしたちが可愛いのに神山さんがむっつりしてるからですよ」

 そういって微笑むエミリ。お前の服が真っ赤だから目立っているんだよ、と思うのはどうやら隆二だけらしい。

 とはいえ、赤は赤だが、エミリの服はいつもと違っていた。

 今までのエミリは、いつも同じような、赤いジャケットに、かろうじてオレンジ色っぽいスカート。赤いブーツ、赤いベレー帽と全身赤コーデだった。

 今日は白いブラウスに赤いカーディガン、赤いチェックのスカートで、靴は黒のパンプスだ。帽子も被っていない。

 赤は赤だが、いつもと違う。控えめだ。

 その理由を考えながらエミリを見ていると、

「なにか?」

 視線に気づいたエミリに、不思議そうな顔をされた。

「いや、別に?」

「そうですか」

 駅から先は隆二を先頭に歩いて行く。

 ところどころ、見慣れた景色がある。自然に、歩く速度がはやくなっていく。

「隆二、はやい」

 マオの抗議の声に、慌てて歩く速度を落とした。

 でも、もうすぐそこだ。

 その角を曲がれば……。

 角を曲がって、その場所を見た時、一瞬息を呑んだ。

 そこは昔と何もかわっていなかった。

 近代化にのりおくれたようにぽつんと家が立っていた。寂しげに。

 もうずっと来ていなかった場所。一条茜と過ごした場所。そして、これから住む場所。

「……ただいま」

 崩れかけた門扉を撫でながら小さく呟いた。

 感傷に浸る隆二の横を、すすっとマオが通り抜ける。

「へー、ここに住んでたんだ」

 言いながらマオが家に向かう。

「マオさん、鍵あけますね」

 それをエミリが慌てたように追う。

 まさかまた、ここに住むようになるとは思わなかった。未だ一条の持ち物だったらしいが、持て余していてすぐに購入できたらしい。一条稔が親戚筋だったことも関係しているらしい。ありがたくもない話だが。

「隆二ぃ、はやくぅー」

 家の方からはしゃいだマオの声がする。それに苦笑しながら返事をした。

「今行くー」

 部屋の中は、一通り掃除と修繕がしてあるようだった。

 ゆっくりと辺りを見回し、茜との日々を思い出そうと、

「お風呂が変!」

「ああ、五右衛門風呂だから」

「あ、知ってる! テレビで見た! 釜ゆでにされるのね」

「ああ、まあ……」

「ねぇねぇ、あれはー!」

 思い出そうとしたけれども、出来なかった。はしゃいだマオの声が色々と話かけてくる。

 それに答えながら、まあいいか、とも思った。今後一緒に住むのはマオだ。茜じゃない。茜のことを今、無理に思い出さなくても。

 大事なのは、今とこれからだから。




 一通り家の中を見たあと、居間に向かう。

 家具や食器類は予め運び込まれているので、コーヒーぐらいならば直ぐに飲むことができた。

 隆二が人数分のコーヒーを、運び込まれたダイニングテーブルの上に置いた。

 エミリはそれを受け取ると、自分の向かいでなにやら楽しそうに話す、隆二とマオを見る。

 そろそろ、あの話をしよう。

 きっと、隆二はなんらかのことを察しているだろうけれども。

「……あの」

 二人の会話が途切れたところを見計らって声をかける。

「お話が、あるんですけど」

「エミリさん、どうしたの?」

 一つ深呼吸してから、

「……わたし、研究所をやめることにしました」

「ええ!?」

 エミリの言葉に、マオは驚いたように声をあげたが、隆二は少し眉を動かしただけだった。やはりそれなりに察していたか。

「え、あれ、もしかして、あたしのせい? あたしのこと助けたから?」

 慌てたようにマオが言うが、

「いえ、自分で決めたことです」

 それはしっかり否定した。

 確かに直接のきっかけは、マオ達の側についたことだ。だけれども、マオ達の側につくことを選んだのは自分自身だ。研究所とはかりにかけて、マオ達を選んだ。

「正直、自分の人生において研究所よりも大きな存在ができるとは思っていませんでした」

 それぐらい、研究所の存在はエミリにとって大きいものだったから。

「でもだったら、辞めてもわたしはきっと平気だな、と思ったんです」

 研究所を辞めたら何もなくなってしまうと、昔は思っていた。今は違う。何もないかもしれないけれども、それは何かを掴めるということなのだと、知っている。

 辞める前に最後の我が侭だ、と今回の引っ越しのことなど全てをねじ込んだ。あれが自分の最後の仕事だ。最後にこの二人の役に立てたのならば、言うことはない。

「……おっちゃんは?」

「父は好きにしろと言っていましたから」

「ふーん、ならいいか」

 隆二は興味なさそうな顔をして、呟いた。

「……だから今日、ちょっと地味な格好なんだな」

 そのまま呟かれた言葉に苦笑する。見ていないようで、この人は意外とよく見ている。

「ええ、まあ。あれはなんとなく、制服みたいなものだったので」

 真っ赤な格好は研究所の人間として働くときの、制服のようなものだった。私服ではあるものの。戦闘服と言い換えてもいい。あれを着ると身が引き締まる気がしていた。

 今となっては、もうあれを着ることもないのだろう。そう思う。

「え、でも、辞めてどうするの?」

「イギリスに行きます」

 マオの言葉に小さく微笑み返す。

「わたし、高校も行ってませんし、どうしようかと思っていたんですけど、祖父の友人がこちらで勉強しないか、と言ってくれたんです。数年、向こうで勉強しようと思っています。自分がなにをやりたいか、を」

 それから小さく息を吸い込み、一番大切なことを告げた。

「ですから、しばらくお会い出来ません」

 エミリの言葉を聞き終わると、マオが横の隆二に訊いた。いつもわからないことを訊くのと同じ口調で。とても軽く。

「イギリスって遠いの?」

「遠いだろ。海越えるし」

「へー、いいな。あたしも行きたい!」

「パスポートないだろお前」

「実体化してない時にいけばいいじゃん」

「俺が無理。あんな鉄のかたまりが空飛ぶ何てありえない、絶対乗ったら落ちる」

「隆二おじいちゃんだもんねー」

 そうやって、ぽんぽんといつもとおりの会話をしていく。それなりに意を決しての発言だったのにいつもの会話を。

 そんな二人の会話に圧倒されて、エミリはぽかんっと間抜けな顔をした。

 そんなエミリのことは気にせず、

「まあ、帰って来たらまた遊びにきてね」

「どうせ俺たち暇してるから。いつでもいいからさ」

 二人は微笑んだ。

 それになんだか、きゅっと心臓が痛くなる。視界が歪む。

「……エミリさん?」

 マオの心配そうな声に慌てて深呼吸をすると、微笑んだ。

「ありがとうございます」

 もう二度と、会わないぐらいの心づもりだった。そちらの方が、彼らの負担にならないと思ったのだ。

 だけれども、来ていいと言ってくれるのならば、自分はまた彼らに会いたい。そして、彼らが社交辞令を言うなんて、そんなことが出来る人じゃないことをエミリはよく知っている。本心から、来ていいと思ってくれている。

 それは、とても、嬉しい。

「絶対にまた来ます」

 力強く言い切った。



 事務的な話を終えて、エミリを駅まで見送った。

 帰り道、のんびりと手を繋いで帰る。マオの左手と繋いだ隆二の右手には、あのブレスレットが巻かれていた。

「ところでさ」

 隆二は歩きながら、隣のマオに話かける。

「んー?」

「お前、なんであそこに住みたいって言ったわけ?」

「え、今?」

 驚いたようにマオが目を見開く。まあ、タイミング逃して、訊くのが遅くなってしまったことは否めないが。

 マオは、隆二らしいね、と小さく笑うと、

「隆二が住んでいたところに住んでみたかったんだよー」

 と、なんでもないように続けた。

「この前来たときはすぐ帰っちゃったし。じっくり見てみたかったの。隆二が住んでいたところ。隆二が見てたものとかも」

 そこまで言ってから、ちょっと困ったような顔をして、

「もしかして、嫌だった?」

 こちらの顔色を伺ってくる。

「……や、別に?」

 嫌ではないのだ。ただ、なんとなく微妙なだけで。現在と過去が交差する感じが、うまく言えないけれども、不思議な気分になるだけで。

「嫌ではないよ」

「そっか」

 よかった、とマオが笑う。

 さっきからよく笑っているな、とその顔を見て思う。楽しそうに笑っているのならば、まあ引っ越しも悪くなかった。

 角を曲がり、自宅が見えてくる。

 門のところで、一度マオが立ち止まった。つられて一緒に立ち止まる。

 マオは家全体を見回すと、

「ねぇ、隆二、ここは、あたしたちの家よね?」

 隆二の顔を見て首を傾げた。

「ん? ああ」

 なに当たり前のこと訊いているんだか。

「ふふーン! これでも居候なんて言わせないんだからねっ!」

 するとマオは、何故だかやたらと勝ち誇った声でそう言った。

「は?」

 予想外の展開にあっけにとられる。

「隆二の家に居たら居候だけど、隆二とあたしの家なら同居人でしょう?」

 そう言って楽しそうに笑うと、隆二の手から鍵を奪いとって、さっさと玄関の鍵をあける。

 居候? ああ、なんだ、そんなこと気にしていたのか。

 そう言えば、確かにいつまでも居候猫だと言っていたけれども、それは便宜上そう呼んでいただけで、隆二の中ではとっくの昔に居候から同居人ぐらいには格上げされていたのに。

 言ってくれればよかったのに。そんなに気にしているのならば、言ってくれればよかったのに。

 そう思いながら、同居猫の後ろ姿を見ていると、

「あ、あとさ」

 玄関を入ってすぐのところでマオが振り返った。

「ん?」

「あたし、決めたから」

「何を?」

「覚悟を」

 言ってマオは、悠然と微笑む。

 予想だにしない言葉に、思わず息を呑んだ。覚悟を、決めた? 何の?

「もしも死んでも、また幽霊になるから。絶対になるから。そう決めたの。元々幽霊なんだもの、またなるのなんて、簡単だよね、きっと。未練があればなるっていうし、未練たらたらだし? 猫に九生あり、って君子で言ってたしね!」

 なんだか悪戯っぽく笑って、歌うように続ける。

「隆二が泣いて喚いたって、一人になんかしないから」

 くすくすと笑うと、あっけにとられる隆二を残し、くるっとターンして家の中に入って行く。

 幽霊になる? 何を言っているんだ、こいつは。そんなこと、出来ると思っているのだろうか。

 でもそうか。幽霊になったら、また元に戻るだけなのか。それがもしも、可能ならば、それもありなのかもしれない。

 相変わらず想定の斜め上をいく。想定外の存在だ。想定外の存在だから、もしかしたら本当に幽霊になって、またまとわりついてくるのかもしれない。それならば、それでいいかもしれない。

 見ていて飽きない、と茜に言った。あれはやっぱりそのとおりだ。一緒にいて飽きない、退屈しない。いささか振り回されてはいるけれども。

 この同居人が何を考えているのか、まだまだわからないことだらけだ。

 まあ、ゆっくり知っていけばいいさ。時間はまだまだあるのだから。

 とりあえず今は。

「さって、テレビ見ようっと!」

 マオが、既に運び込まれていた赤いソファーにぽんっと飛び乗る。今までと同じように。

「マオ」

 そこに声をかけた。

「ん?」

「ただいま」

 言ってみる。ここは二人の家なのだから。

 マオは驚いたように目を見開き、

「おかえりなさい、隆二」

 ぱっと花が咲くように、笑った。


End.

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ひとでなしの二人組 小高まあな @kmaana

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