第六幕 The cat is in the cream pot.
件のファーストフード店につくと、京介似のあの女性が、困ったような顔をして座っていた。
「マオはっ?」
挨拶や礼儀なんて抜きに、斬りつけるように尋ねると、軽く首を横に振られた。
「一階に飲み物を買いに?」
「そう。奢ってくれるっていうからお言葉に甘えちゃって。……なんかごめんなさい」
「いや」
別にこの女性が悪いわけではない。
というか、何があったのか今の段階ではわからない。ろくでもないことになっているのは、わかるけれども。
飲み物を買いに行って姿を消した。鞄は持っていったようだが、ケータイがここにあるんじゃなんの意味もない。
「……俺、探すんで。万が一見つかったら、今から言う番号に電話して欲しい」
覚えている自分の電話番号を告げると、慌てたように女がメモをした。機械音痴でも、数字を覚えることは苦ではない。
「それじゃあ」
と、マオのケータイをもって立ち去ろうとするところを、
「待って」
慌てたように呼び止められた。
「これ」
渡されたのは、いつだったかペンダントを買った時のと同じような袋。
「貴方にって、マオちゃんが」
「マオが?」
予想外の言葉に、怪訝な顔になる。
それから、そっと袋を開けてみた。出て来たのはシンプルな革のブレスレットだった。
「今日は、それを買いに出て来たみたいよ。いつもお世話になってるからって、嬉しそうに言ってたけど?」
付け足された言葉に、なんとも言えない気分になる。
そんなことのために、わざわざ一人で出かけたのか。お世話になっているお礼? そんなこと、考えたりしなくってよかったのに。
ブレスレットをもう一度袋に戻す。
これはちゃんと、マオの手から渡してもらおう。じゃないと、素直に喜べない。喜びたいと、嬉しいと思っているのだから、俺は。
「……ありがとう」
女になんとかそれだけいうと、足早に店を後にした。
そうでもしないと、何故だか知らないが泣きそうだった。
駅のファッションビル、そこの女子トイレにマオはかけこんだ。変な顔をする周りの人は気にせず、洗面台に手をつき、あがった呼吸を整える。走り過ぎて喉が痛い。
顔をあげると、鏡の中の自分は泣きそうな顔をしていた。髪の毛も乱れている。
一体、なんだっていうの。
柚香と話していて、ブレスレットが買えたのが、あまりにも嬉しかったからお礼に飲み物をご馳走することにした。一階のレジに並んでいたら、後ろから肩を掴まれた。そのままぐいっと、力任せの後ろに引っ張られる。
「いたっ」
振り返ると、見たこともない中年の男性がいて、マオを見ると驚いたような顔をした。それから次に、泣きそうな顔になり、
「ようやく見つけたっ、花音!」
大きな声でそう言った。
花音? 誰それ。
「ちが、あたしはっ、マオで」
言いかけた言葉は無視され、右手を掴まれる。そのまま、男は黙ってマオの腕を掴んで店を出て行く。
「ちょっと、おじさんっ! 離してよっ」
「花音」
男は呆れたような顔で振り返ると、
「お父さんに向かって、おじさんとはなんだ。いい加減、機嫌を直せ」
なんてわけのわからないことを言う。
「マオだってばっ!」
周りの客達は様子をうかがうようにマオ達を見ていたが、男が父親だと言ったことで、年頃の娘のプチ家出とでも思ったのか、視線を逸らした。
男はまた前を向くと、ぐいぐい歩いて行く。ファーストフード店が遠くなる。
一体誰と勘違いしているのか。
「おじさんっ! ちょっと、あたしはマオで! 花音なんて名前じゃないし! おじさんのことなんて知らないし! っていうか、父親なんていないしっ!」
ぎゃんぎゃん叫んでも、男は無視をする。
路上に停められた黒い車。男はポケットから鍵を出しながら、それに近づく。男の持ち物らしい。
これは本格的にヤバいかもしれない。
どきどきと心拍数がはやくなる。
なんでもいいから逃げなくっちゃ。
男が助手席のドアをあけ、
「乗りなさい」
突き飛ばすようにマオを押し込む。
「いっ」
悲鳴をあげたマオを気にせず、男はドアを閉める。そして自分は車の前をまわって、運転席側にまわった。
逃げるなら、今だ。
落ち着け落ち着け。ドラマの主人公みたいに、最高の瞬間を狙わなくっちゃ。
男が運転席のドアに手をかける。がちゃり、とドアがあき、それと同時にマオもドアをあけた。転げ落ちるようにして車から飛び出すと、後ろをみないで走りだす。
「花音っ!」
後ろから男の声がする。
逃げなくっちゃ。どこか安全なところ。
ぱっと目に入ったのが、駅ビルだった。息を切らしながら駆け込み、男が入れない女子トイレにまで逃げ込んだ。
それが今だ。
一体、なんだっていうのよ。
思い返したら、怖くて体が震える。
大きく息を吸って、呼吸と気持ちを整えた。
それにしても、どうしよう。いつまでもここにはいられない。あの様子だとすぐには諦めなさそうだし、また出会ったら嫌だし。怒られるかもしれないけれど、隆二に迎えに来てもらおう。
そう決めると、ずっと肩からかけたままだった小さなポシェットをあける。そこからケータイを取り出そうとして、
「あれ?」
そこにケータイはなかった。そういえば、ファーストフード店のテーブルに置きっぱなしかもしれない。
「……もうっ」
隆二に連絡が取れないなんて、どうしたらいいんだろう。
鏡の中、泣きそうな自分と見つめ合う。考えなくっちゃ。
家に帰れればあとは心配いらない。だけど、あの男がまだうろうろしていたら、ちゃんと帰れるだろうか。そんなに距離はないけれども。
隆二は多分、あんまりにもマオが帰ってこかなかったら探しに来てくれるはずだ。ぶつぶつ怒りながらも。いつも、そうだから。
だから、うまくどこかで隆二と会えるのが一番いい。連絡とれない以上、運任せになるけど。
隆二がいそうなところを通って、家まで帰る? 普段、お買い物で通る道を通って。
マオが考えついたのは、そこまでだった。
自分でも行き当たりばったりだなぁ、と思う。
溜息。
でもまあ、もしかしたら、あのおじさんの本当の娘を見つけて帰ったかもしれないし。楽観的な考え方は、ここでもむくむくと持ち上がる。そう考えたら、なんだか帰れる気がしてきた。
手を洗って、髪の毛を整える。
ひょいっと女子トイレの外を伺うが、あの男の姿はない。
よしじゃあ、なるべく目立たないようにして、何かあったら悲鳴があげられるように人通りの多いところ通って、ついでに隆二がいそうなところ通って帰ろう。
そう決めると、そろそろと女子トイレから脱出した。
しかし、探すと言っても全く当てがない。
そのことに舌打ちしながら、隆二はいつも通る道を中心にマオを探しはじめた。
途中でエミリに電話を入れたが、取り込み中なのか出なかった。折り返し連絡くれるように、留守電を残しておいたが。
一人で探すには、限度がある。だからといって、何もしないわけにはいかない。
辺りはすっかり暗くなってしまった。ケータイで時間を確認する。もう二十二時か。
いつかマオはいなくなる。
それは、覚悟を決めつつあることだった。
それでも、今すぐではないと思っていた。遠い未来のことだと思っていた。
でも、今すぐではない、と思っていたのは、結局目をそらしていたということなのだ。と、気づいたときには遅かった。
いつもそうだ。いつも気づかない。いつも最善を見逃す。
茜のことも、京介のことも、この間のGナンバーのことも。いつもそうだ。
だからって、今諦めるわけにはいかない。
マオに一人での外出を禁じた、本当の理由を言わなかったのは自分だ。言っておけば、マオだってこっそり出かけたりしなかったかもしれない。言わなかったのは自分の過失だ。だからこんなことになった。だから、結果の発生は阻止しなければ。
まだ、覚悟はできていない。
だから、まだ、一人にはなれない。
だから、一緒に帰ろう。
ぜぇぜぇと、自分の呼吸が乱れているのがわかる。それでも足を止めることはできない。
ビルとビルの間の細い隙間。そこに目をつけると、マオはするりと身を滑り込ませた。 ぎりぎりなんとか入り込めた。胸がないとか悩んだりもしたけれども、今は感謝だ。
横歩きで奥に進み、ビルの影にしゃがみこむ。
男が走って行くのが見えた。
ふーっと一息つく。
駅ビルから出た後、途中までは順調に帰れていたのに、安心しきったところであの男はまた現れた。
「花音!」
なんて叫びながら追いかけてくる。
本当、いい加減にして欲しい。きっと、なんか変な人なのだ。
今、何時ぐらいだろう。辺りはすっかり暗い。あちらこちらのお店のシャッターも閉まっている。
隆二、心配しているだろうな。
胸元に手を伸ばし、ペンダントに触れる。
そうすると、少しだけ安心できた。
明日の午前九時には実体化がとける。
それならばいっそ、ここに隠れて実体化がとけるまで待っていようか。幽霊に戻ってしまえば、あの男に追いかけ回されることもないだろう。明日の午前九時まで、何時間あるんだか知らないけれども。
ゆっくり奥に進むと、少し広いスペースがあった。ビルとビルに囲まれた場所。
そこまで行こうと、横歩きを継続していると、
「いったっ」
置いてあった木の板、その破片で右腕を引っ掻いた。
「ああもう」
血が出て来た。痛い。
痛いのには慣れていない。ずっと感じたことがない感情だったから。幽霊のときは、痛いとか熱いとか寒いとかそんなこと、関係なかった。痛いのは、実体化しているときだけだ。
そこまで考えて、嫌なことを思いついた。
「あたし、酷い怪我したら、どうなっちゃうんだろう」
今の今まで考えたことがなかった。人間と同じように、身の危険が生じるんだろうか。ああ、だから、だから隆二はあんなにも気を使ってくれていたのか。全然気がつかなかった。だから、一人で出かけるなと言っていたのか。こんなことになるから。
視界がぼやける。
ビルの影に座り込む。膝を抱える。
実体化がとけるまでここにいよう。あとどれぐらいの時間があるのかわからないし、それまで隆二に心配をかけることになってしまうけれども、ヘタに動き回ってあの男に見つかるよりもずっといい。
一人にしないと誓った。約束した。
だから、帰らなくちゃ。なんとしてでも、彼のところに。
一人じゃないから大丈夫だと、約束したのは自分なのだから。だから、帰らなくっちゃ。絶対に。
隆二は、一度試しに家に戻って来た。入れ違いになっている可能性も考慮して。けれども、やはりそこにマオの姿はなかった。
舌打ちすると、マオのケータイをテーブルの上に置く。戻って来たら連絡しろ、のメッセージをつけて。
それから、ブレスレットの袋も隣に置いた。マオから直接渡されるまで、これは自分のものじゃない。
時計を見る。夜中の三時だ。
ここまで本当に姿が見えないなんて、本当になにかあったんじゃないか。もう、戻って来ないんじゃないか。
考えると、心臓がぞっと凍える。
と、ポケットにいれたケータイが震えた。
慌てて取り出す。着信表示は、進藤エミリだった。
「もしもし。夜分にすみません。今、留守電聞きました。今日は珍しく、ずっと外だったので」
眠気を噛み殺したような声。
「どうしました?」
「マオが帰って来ないんだ」
告げると、電話の向こうの空気が変わった。
「いつから?」
返ってきた声は、張りつめていた。
「夕方から」
言いながら、ここまでの出来事を説明する。
「……わかりました」
返事をしたエミリには、もう眠気は感じられなかった。
「わたしもすぐにそちらに……」
「いや、それは大丈夫」
エミリがここに来るまでには、また時間がかかってしまう。研究所とは距離が離れているし、もう電車もない時間だ。それにあんな赤服に夜間出歩かれたら、また別のトラブルを引き起こしてしまうだろう。
それよりも、
「調べて欲しいことがある」
「はい」
それを告げるには、勇気が必要だった。一拍おいてから、早口で。
「夕方から今まで、うちの辺りで起きた事件事故、調べてくれないか」
電話の向こうで、エミリが息を呑んだのがわかった。
「神山、さん。それは……」
「そうじゃなければいいと思ってる。だけど」
なんらかの事件事故に巻き込まれたんじゃないか。そして怪我なりなんなりして病院に搬送されて、連絡先がわからず隆二のところに連絡が来ない。その可能性だって十分考えられる。
「可能性を否定して、見逃すなんてことの方が、あってはならないだろ」
怪我をしているのならばはやく会いにいってやりたいし、最悪なことがあるのだとしてもはやく傍に行きたい。このまま見逃してひとりぼっちにさせてしまうことが、一番あってはならないことだ。
絞り出すように発した言葉に、エミリは少し躊躇ってから、
「わかりました」
力強い声で返事した。
「なにかわかったらすぐに連絡します」
「すまない、夜遅くに」
「いつものことですよ」
「頼む」
「はい」
通話を終える。
何もないのが一番いい。だけれども、何もないままここまで連絡がないわけがないのだ。何かあったことは、否定できない。
もう一度マオを探すために部屋を出た。
覚悟はしている。だけど、希望は捨てない。次にこの部屋に入るときは、二人一緒に、だ。
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