第三幕 There's more ways than one to kill a cat.
「マオちゃん、ごめんね」
『んーん』
マオの散歩コースにもある公園に二人は居た。二人ともブランコに腰掛けている。マオはゆらゆらと、足を揺らしながら、
『京介さんの事情はわかったから』
ぽつん、と呟いた。
「うん、だから」
京介も、マオの方を見ないまま答えた。
「だから、ごめんね」
あたりはすっかり暗くなっている。そろそろ、隆二との約束の時間だ。
「そろそろ隆二来るはずだから。ごめんね?」
『うん。それは、いいんだけど』
マオは隣のブランコに座る京介を見る。
『一回だけ確認するね。京介さんは、本当にそれでいいの?』
「うん」
マオの言葉に、素直に頷いた。
「他の選択肢は、もう考えられない」
『そっか』
それじゃあしょうがないね、とマオは呟いた。
「呆れてる?」
『なんで?』
「こんな選択しか出来ないこと」
『全然』
だって、とマオは微笑んだ。
『京介さんには、あたしがいないから仕方ないと思うの』
「……マオちゃんが?」
『時間の流れが一緒の存在が』
「……ああ」
京介は小さく苦笑した。
『あたし、発生してから今日まで色々あって楽しくって、発生したときのことなんかとぉい昔のような気がする。けど、永遠は、まだまだ長いのでしょう? それを一人で生きろというのは、酷だと思うの』
「そうだね」
とん、っと京介は軽く地面を蹴った。ブランコが揺れる。
「うん、そうだね。なんだかんだで俺が隆二に頼もうと決心出来たのは、隆二にはマオちゃんがついているってわかったからだしね」
答えは決まっていた。でも、結果は一つでも、それを成し遂げる方法はいくつかあって、その中で今回のことが最善だと結論付けた。それは、マオの存在が大きい。
「あいつはもう一人じゃないから。それなら、多少、面倒ごとを押し付けても平気かなって思ったんだ」
一人きりだったら、潰れてしまうことも、二人ならば平気だろうから。
『うん、一人じゃないから』
マオが頷く。力強く。
「うん、任せた」
微笑みながら京介も頷き返した。
そして、とんっと地面に足をつける。揺れていたブランコがとまる。
『京介さん?』
「来たよ」
不思議そうな顔をするマオに、告げた。足音がする。
「時間きっかりだね。吃驚だ」
弾みをつけてブランコから立ち上がる。
「てっきり、早い時間に奇襲でもしかけてくるかと思ったのに。一応、外見上は誘拐犯なわけだし、俺」
『なんだかんだで、京介さんのことを信じていたからじゃない?』
「違うね。マオちゃんのことが本当に心配だったんだよ」
だから時間より前にこの場所に来ることができなかった。平気だろうと高をくくって、万が一のことがあったら怖いから。
『そうかなぁー?』
マオが不思議そうに首をひねった。
「そうだよ。ねぇ、マオちゃん」
名前を呼ぶと、マオが不思議そうな顔のまま京介の方を向いた。
「最後に一つだけ」
『うん?』
小さく首を傾げる。
「あいつは、イマイチ素直じゃないし、なんか冷たいし、ひとでなしだけど、マオちゃんのことを心配してる。気にしている、いつだって。それは本当のことだから。ただ、あいつはあれでバカだから、無くさないと大事なものに気づけないんだ。大事にしているものを無くしそうになって初めて、それが大事だとわかるタイプの人間なんだ。さらに言うと、無くしそうになってその時は焦るけど、無事だとわかると、焦ってた気持ちなんて忘れるんだ。大事だと一度理解したのならば、そのままずっと、しっかり持っていればいいのに、それが出来ない。本当、呆れるほどバカだろ?」
だから、と真面目な顔で京介は続けた。
「自信を持って。あいつの冷たさに挫けたりしないで。どんなに冷たくても、あいつはマオちゃんのことを見捨てたりしないから。愛されているのだと自信を持って。マオちゃんが自信を持つぐらいできっと、丁度いい」
マオは京介の顔をじっと見つめた。言葉をゆっくりと飲み込むような沈黙のあと、
『……うん』
しっかりと頷いた。
『大丈夫。隆二がひとでなしなことは、知っているから』
そうして、にっこりと、笑った。
京介は、ならいいんだ、と笑い返した。
「京介」
その背中に声がかかる。
京介が振り返ると、そこには敵意剥き出しの隆二が立っていた。
ブランコの柵の、三歩向こう側で、不機嫌そうな顔をしている。
「やあ、時間ぴったりだね」
おどけて京介が言葉を返す。
「マオを返せ」
それを隆二は斬り捨てた。
「はいはい。マオちゃん、ごめん、隆二と二人で話をするね」
『うん』
京介の言葉にマオは頷くと立ち上がった。
そのまま、すぃっと京介の横を抜け、隆二の隣に立つ。
「大丈夫か?」
無事を確かめるかのように、隆二の右手がマオの頭を撫でる。
『平気。心配かけてごめんね』
「そうか」
すっと、隆二の肩から少し力が抜ける。安心したように。
『待ってるね、外で』
そんな隆二にマオは公園の外を指差した。
「ああ」
隆二は小さく頷く。マオは頷き返すと、
『京介さん』
振り返り、京介の方を見る。
「ごめんね、マオちゃん」
『ううん。隆二のことは、心配しなくて平気だよ。あたしがいるから』
「任せた」
『任された』
そうしてマオは、少しだけ寂しげに微笑むと、
『……じゃあ、ばいばい』
右手を小さく振る。
「うん、じゃあね」
京介も軽く手をふりかえした。
『じゃあ、隆二、あとでね』
二人のやりとりを怪訝そうに見ている隆二に少し微笑むと、マオはすぃっと公園の外に向かった。
「……なんなんだよ、一体」
その背中を見送り、隆二は京介の方を見ながら、うんざりとした口調で言う。
「誘拐犯っぽい文面を残したわりには、和気藹々としていたみたいじゃないか」
「心配した? マオちゃんのこと」
「おちょくるな」
「素直じゃないなあ」
「京介! お前な、冗談ですむこととすまないことがあるだろうがっ。エクスカリバーまで持ち出してっ」
隆二が声を荒げると、京介は小さく肩を竦めた。
「聞いただろ? マオちゃんから。俺は約束を破りにきたんだ」
「だからなんだよそれ」
「……少し長くなるけど、聞けよ」
「命令か」
隆二の嫌そうな言い方に、京介は少し笑う。
「俺はね、隆二。約束を破りに来たんだ」
「だからなんの約束を」
「帰ってきてね」
ループしはじめた会話に苛々した様子の隆二だったが、京介の言葉にぴたり、と口を閉じた。
「帰ってきてね。それが、俺が破ろうとする約束だよ」
「……おちょくってるんじゃ、ないよな?」
「本当だよ」
隆二は何か、行き場のない感情を逃すように大きく息を吐き、
「……わかった。続けろ」
かろうじてそれだけ言った。
「約束の相手はね、人間の女だ。惚れた相手だ。……笑っちゃうだろ?」
惚れた人間の女に、帰ってきてねと約束させられる。どこかで聞いた話だ。
「笑えねぇよ」
隆二の身に起きたことと、同じじゃないか。
「だよね」
「笑えるかよ。なんだよ、ソレ」
苛立ったように片手で髪をかきあげる。
「何だよソレ、本当。ふざけんなよ、お前。なんで、そんな。……なんだそれ」
額に軽く手をあてて、大きく隆二が息を吐く。気持ちを落ち着かせるかのように。
「まあ、そういう態度になるよね」
「当たり前だろうがっ」
のんびりとした京介に、キレ気味に言葉を返す。
「なんで、なんでお前がそうなるんだよっ」
「そんなの俺が聞きたいよ」
呆れちゃうよな、と肩をすくめる。
「お前にはあんなに、やめとけ無理だとか言ってたのにな」
「まったくだ」
「だから、謝らないとな、と思って。それについては。ごめん。当事者になってようやくわかった」
京介は小さく、悲しそうに微笑んだ。
「そんなこと言われたって、無理だよな」
「……ああ、無理だよ」
理性でわかっていても、感情がついていかない。それで解決したら世話はない。
離れようと思って離れられたら苦労しない。
「気をつけようと、思っていたんだ。お前と茜ちゃんのこと、知ってたから。深入りしないように、ってずっと思ってた。思ってたのに、おかしいよなぁ」
力なく笑うと、京介は再びブランコに腰掛けた。
「あいつさ、意味わかんないんだよ。出会い頭に、なんて言ったと思う?」
「知るか」
そんな他人の馴れ初めなんて。
「私と恋仲になって。そして心中して」
真顔で言い切られた言葉に、隆二はしばし沈黙し、
「……まあ、なんだ。お前もなかなかに面倒な恋愛してるな」
かろうじてそれだけ言葉をひっぱりだしてきた。
「お前にだけは言われたくないよ」
京介は呆れたように笑う。
「でも本当、意味わかんないだろ? 俺最初、こいつバカなんだろうな、って思ったし」
「そんな怪しいやつとかかわるなよ」
「だってあの時は疲れてたんだもん」
「もんじゃねーよ。唇とがらせるなよ、可愛くないから」
心底嫌そうな隆二の顔に、京介は小さく笑う。
「ごめんごめん。でも、疲れていたんだ、あのとき」
膝の上に頬杖をつく。
「隆二、お前はさ、必要最小限に人間とかかわって生きていってるだろ? 新幹線の乗り方もわかんないぐらい」
「流れでバカにするな」
「バカにしてないよ。ある意味尊敬してるんだよ。俺には出来ないから」
京介は視線を隆二から外し、地面を見つめた。
「俺には出来ない。そういう生き方。一人は寂しいから」
いつも飄々としている仲間の、こぼれ落ちた本音に隆二は何も言えない。
寂しい。そんなことを、こいつが言うなんて。
「過度にかかわるつもりは勿論ないよ。だって、俺たちはもう人間じゃないから。だけど、まったくかかわらないっていうのも俺には出来なかった。だから、エミリちゃんにお願いして、適当な身分証作ってもらって、適当に人間社会で仕事したりしてたんだ」
「……料理人の真似事とかか」
隆二の言葉に、京介は一度顔を上げて、
「意外。お前が覚えてるなんて」
少し皮肉っぽく唇を歪めた。
だから流れでバカにするな。
「その料理人の真似事が曲者だったんだよ」
京介はまた視線を下に落とす。
「あれは結構楽しかったんだ。料理作るの、嫌いじゃないしな。正体がバレるとまずいから、そんなに一つのところに長居はできないけど、そこにはぎりぎりまで居たいと思ってたんだ」
だけどさ、と淡々と京介は続ける。
「なんか料理長の奥さんが俺に惚れたとか惚れないとかで、それで料理長の反感買っちゃって、なんかよくわかんないまま辞めさせられることになっちゃってさ」
「なんだそれ。言いがかりだな」
「な? 俺もそう思うよ。これが他の仕事場だったら、もしかしたらごねて続けさせてもらってたかもしれない。理不尽だしな。だけど、さっきも言ったけど、そこは本当にすごく気に入っている職場で、仕事で、そこでそんな理不尽な理由が罷り通ることにどっと疲れてしまったんだ。好きな場所だったからこそ、水を差されたことが不快で、辛かったんだ。だから、あっさりと身を引いた」
小さく溜息。
「今思うと、元々無理していた部分があったとは思うんだ。人間社会に入り込もうとすることに。それが、あれで一気に決壊したっていうか。疲れたんだ」
疲れたのだ、と何度も告げる仲間を隆二は見下ろした。
仲間内では一番、彼がまともだと思っている。あとの二人は偏食が過ぎるあまり、人間性にやや難があるし。だから、人間社会でやっていくのならば、彼が一番上手くやっていけるのだろうと。
でもきっと、まともだからこそ、辛い部分があったのだろう。賢く立ち回って人間社会に溶け込める分、そんなこととっくの昔に諦めた自分とは違う苦労があったのだろう。溶け込めてしまう分、期待してしまうものも、きっとあったのだろう。
「住み込みの仕事だったしさ、住むとこもなくなっちゃって。でもなんか、新しい仕事を探す気にもなれなくて。まあ、しばらくいいかなって地下道に住み着いたりしてさ」
京介はそこで一度言葉を切り、少し声のトーンを和らげる。
「……そこにあいつ、現れたんだ」
「心中さんがか?」
揶揄するように尋ねると、
「そういう呼び方するなよ」
睨まれた。
「すまん」
からかったことは事実なので、素直に謝る。
「でもまあ、それでさっきの台詞言われたわけだけど」
「恋仲になって心中して?」
「そう。で、それを守ってくれるなら衣食住提供してくれるって。なんかさー、俺、そのとき本当疲れてて。とりあえずしばらく、ココの家に置いてもらって、頃合い見計らって逃げ出せばいいかなって思ってたわけ」
当たり前のように言われた、ココという言葉。おそらく、その相手の女性の名前だろう。
「そう、思ってたんだけどなぁ」
溜息とともに吐き出すように、ぼやく。
「心中したいとかいうのがさ、結構本気っぽくって。最初はそれが心配で、ずっと見てて。なんでだろうな。逃げ出せなくなってた、気づいたら」
京介は顔をあげると苦笑する。
「お前なら、わかってくれるだろう?」
「ああ。残念ながら」
肩をすくめると、同じように苦笑した。
「一回気にするともう駄目だよな。本気になったら駄目だって自分に言い聞かせて、感情に蓋をしていたつもりだった。言わなきゃいいだろって。だけど」
京介はそこで言葉を切った。痛みに耐えるかのように瞳を閉じる。隆二は黙って次の言葉を待った。
少しの間のあと、
「言わなかったから、あいつを追いつめた」
目を開くと、吐きすてるように言った。
「ココは基本的に怖がりなんだ。幸せが怖い。幸せのあとに訪れる不幸が怖い。だから、一番幸せな時に死にたいとかって言う。だから、心中したいとか言う。それはわかっていたんだ。だから、安心させてやればよかったんだ。なのに、俺は助けを求めて差し出された手を、掴み損なった。怖くて」
ぐっと爪を立てて手を握る。
「だって俺は、絶対に、あいつの願いを叶えてあげることが出来ない。一緒に死ぬなんてことが、出来ない。化け物だから」
かすかに痛みに耐えるような顔をしている隆二の顔を見ると、京介は自嘲気味に笑う。
「なあ、隆二。俺はお前が羨ましいよ。なんで、言えたんだよ。茜ちゃんに、自分が化け物だって」
わずかにだが棘のある言い方に隆二は口を開きかけた。反論しようと思って。
俺だって、言えたのは最初の段階だったからだ。関係性を築き上げる前だったからだ。関係性が出来上がってしまっていたら、好きになってからだったら、きっと言えなかった。
でも、結局言葉を飲み込んだ。そんな反論をしたところで意味がない。京介だってそれぐらい、わかっているだろう。タイミングの問題だということぐらい。
「俺は言えないよ。言えなかった。ココに好きだと告げることは、同時に心中のお願いを叶えてあげられないことを、明確にする必要があった。だから言えなかった。怖かったんだ。ココに化け物だと知られることが」
かすかに京介の手が震える。
「あの時はたまたま、ココが仕事とか他の人間関係とかで悪いことが重なって落ち込んでいる時で、あいつはただ俺に、俺が居るってこと言って欲しかっただけなのに。安心させて欲しかっただけなのに。俺は上手く出来なかった。俺が人間だったら、もっと簡単だったのに。あのとき、俺は好きだよ、って言えばよかったのに。人間じゃなかったから言えなかった」
そこで京介は一度大きく息を吐いた。滞った感情を外に出すように。
「俺が手を掴み損なったから、あいつ、手首切るし」
「ちょっ」
黙って聞いていた隆二は、さらりと言われた言葉に軽く声をあげる。
「いや、大丈夫だったんだけど。そんなに深くもなかったし」
「そうか」
「だけどさ、そういう問題じゃ、ないじゃん? 自分の血は見慣れてるし、いくら流れても平気だけど、他人の血は無理だよ。だって、下手したら死んじゃうんだぞ」
「……人間だからな」
「そうなんだよ、ココは人間なんだよ。……なんか、それ見てたら俺、もう無理だなって思ったんだ」
泣きそうな顔をする京介なんて見たくなかった。だから本当は視線を逸らしたかった。でもきっと、ここは逃げちゃいけない場面だ。同じ化け物として。そう思ったから、隆二は京介から目を逸らさなかった。
「これ以上、俺がここにいても、いいことなんてないって。そう思ったんだ。だってさ、俺ってば、ココが手切ってるの見たらテンパって好きだとか言っちゃうしさ」
「だから、離れることを決意した?」
「そう。ココは恐がりだから、俺がココのことを嫌いになる時がきたらどうしようって、そんなこと心配するんだよ。それで、結局心中したいってことになるわけで。俺が、ココの傍にいる限り、ココはずっと心中したいと願うんだろうな、そう思ったら、もう一緒に居られないと思った」
だって、と少し上擦った声で続ける。
「俺はココに生きていて欲しいんだよ。だって、ココの人生なんて、たった八十年とかそこらだろ? それぐらい、ちゃんとまっとうして欲しいんだよ。だってこれからまだまだ、幸せなことだってきっとあるはずなのに。死んだらもうなんにもないんだ。耐えられないと思ったんだ。ココにまで、置いていかれることっ」
「……ああ」
京介の言葉に、隆二はゆっくり頷いた。
耐えられないと、かつて自分も思った。愛した女性が自分を置いて居なくなること。亡くなること。耐えられないと思ったから、あの時自分は逃げ出した。
「俺、ココと約束したんだ。帰ってきたら心中しようって。世話になった人に会いに行ってくるけど、必ず帰って来るから。そしたら一緒に死のうって。そう、約束したんだ」
「……それがお前の約束か」
自分の時よりもよっぽどややっこしいじゃないか。
隆二は嘆息した。
「それで、その話が今回のこととどう関係があるんだよ」
約束の内容はわかったが、それがマオを誘拐する理由には繋がらない。
「だから言っただろ。俺は約束を破りに来たんだ。俺はココのところには戻らない」
そうして京介は立ち上がると、ブランコの脇に無造作置かれていたトートバッグをとりあげた。それをそのまま、隆二に向かって投げた。
受け取る。
「なんだよ」
顎で促されて、ぼやきながらその中身を見て、隆二は言葉を失った。それには見覚えがあった。嫌という程。見た目は小型の剣。でも、それがただの剣じゃないことを知っている。
「……京介」
かろうじて名前を絞りだすと、
「そ、俺がパクってきたエクスカリバー」
なんでもないように答えられた。
「おまえっ、なんでっ」
なんでこれを今、このタイミングでこっちに向かって渡すのだ。
「察しが悪いな、隆二」
京介は呆れたように笑い、
「それを使ってくれ、って言ってるの。俺に向けて」
なんでもないことのように言った。
言われたことを理解するには、少しの時間を要した。
「ふざけんなっ」
言われた意味を理解した隆二は、反射的に怒鳴った。
「おまえっ、何を考えてっ」
「実験体が勝手に消滅しないように、自己使用が出来ないようセーフティかかってるのは知ってるだろう? それは誰かに使ってもらわなきゃならない」
「そんなことは知ってる! そんな話をしているんじゃないっ!」
「俺はココのところには戻らない。戻れない。あいつを死なせるわけにはいかない」
「だからってっ」
「このままいたら、いつか俺はまた、ココに会いたくなってしまう。だけど、俺はココを死なせたくない。ココに会いにいったら、約束叶えなきゃいけないだろ」
「そんなもん、適当にお前自身でどうにかしろよっ。それこそ、そこで約束破ればいいだろうがっ」
「どうにか出来る自信がないから頼んでるんだろうが。俺はもう、俺がココを傷つけるのは耐えられない。これ以上約束を破ったら、ココにどう思われるか」
「ふざけんなよっ」
どんなに怒鳴っても揺らがない瞳に腹がたつ。
相手を死なせたくないから、自分が消えるというのか? それを、隆二に手を下せと?
「じゃあ、最初からそのつもりでここに来たのか?」
「そうだよ」
当たり前のように京介は答えた。なに今更そんなこと訊いてくるんだ、とでも言いたげな口調だった。
「なんだよ、それっ。……じゃあ、あのときのはなんだったんだよ!」
「……あのとき?」
怪訝そうな顔をする。
「マオに一緒にいようとか誘ったって言う、アレはっ」
そうだ。もう隆二のところには居られないと泣くマオに対して、自分と一緒に居ればいいと言ったじゃないか。あれはどういうつもりだったんだ。最初から消えるつもりだったのに、マオと一緒にいるなんて、出来ないことを約束するつもりだったのか。
「ええっ、それまだ気にしてたの?」
予想外の事を言われたとでも言いたげに、京介が目を見開く。
「ああ、っていうか、そんだけマオちゃんのことが心配なのか。じゃあ、言ってあげなよ。喜ぶよ、マオちゃん」
「おちょくるなっ」
「もー、本当、相変わらずカルシウム足りないね、お前は。あれは、あのときは本気だったよ。本気でお前から盗ってやろうと思った。そのためなら延命だって厭わなかったね」
そこで京介は、笑顔を歪めた。
「だって、ずるいんだよお前だけ。マオちゃんといい、茜ちゃんといい。人間として生きることを放棄したお前に、なんで皆集まるんだよ」
「……京介?」
「俺はずっと、お前が羨ましかったよ。本当に」
歪んだ笑顔に見つめられて、隆二は言葉が返せなくなる。
しばらく隆二の顔を見つめた後、京介はふっと空気が抜けるように笑った。
「そんな顔すんなよ。俺が怖がらせてるみたいじゃん」
「……間違ってないだろ、あながち」
おどけたような言い方に、隆二もそっと息を吐く。強張った空気を逃がす。
「羨ましいのは本当だよ。本当はわかってるんだ。誰よりも不死者であることを受け入れられていないのは、俺だ。お前じゃなくて」
女々しいんだよ、俺、と笑う。
「受け入れられていないから、人間のフリして生きている。それが結局、俺を偽物の人間として世の中に縛り付けている。結果として俺は自分が化け物だということを誰にも言えず、理解者を得ることができない。お前にとっての、茜ちゃんやマオちゃんのような」
だから盗ってやろうと思ったのさ、となんでもないような口調で続ける。
「お前からマオちゃんを。まあ、マオちゃんに拒否られたけどね。心底羨ましかったんだ。同じ時間軸を生きられる、理解者がいるお前が」
そこで一度言葉を切り、
「くだらない仮定の話だ。笑うなよ?」
念をおしてから続ける。
「もしも、もしもだ。マオちゃんと先に出会ったのが俺だったら、お前の場所にいるのが俺だったら、そしたら俺はマオちゃんの為に残りの永遠を使ったのにな」
それから小さく肩を竦めて続ける。
「俺の方がお前よりも、よっぽどマメで、優しくて、話も合うし、マオちゃんのパートナーとしては申し分ないと思うんだけどなぁ」
おどけたように言われた言葉は、それでも真実だと隆二は思った。外でもちゃんと話相手になってあげて、テレビの話にもつきあってあげて、京介の方がよっぽどマオにとっていい生活を与えるだろう。
それには納得した。
「……おい、黙るなよ。冗談だろうが」
隆二の沈黙をどう解釈したのか、京介が呟く。
「そのとおりだなぁって思ってただけだ」
「そのとおりだなぁってお前な! お前はいつもそうやって」
「だけど」
こんなときでも始まりそうな京介の小言を遮る。
「だけど、マオと一緒にいるのは俺で、マオが選んだのは俺だ」
ぶっきらぼうで、気が向いたときにしか構わないし、外では絶対会話しないし、からかって遊んでばかりいる。それでも、マオは優しい京介ではなく、そんな自分を選んだ。何がいいのか知らないが。
ならば、まあ、せめて、それに応えるぐらいはしないと。
隆二がまっすぐ京介を見ながら答えると、京介は少しうろたえたような顔をした。
「お、おおう。なんだ、わかってるじゃないか」
隆二があまりにまっすぐ答えたことが意外だったようだ。
「じゃあ、それ、マオちゃんに言ってやれよ」
「それとこれとは話が別だ。絶対に言わない」
心配しているとか言えば、どうせ調子に乗るに決まっているのだ。それはそれでうざい。
「あっそ。でもまあ、そうか。わかってるならいいんだ」
京介はどこか寂しげに微笑みながら、
「俺がお前に頼もうと、決心できたのはマオちゃんの存在があったからなんだ。マオちゃんがいるから、お前はもう一人じゃないって思ったから」
本筋に戻った話に、少し身構える。そうだ、こいつは今、むちゃくちゃなお願いをしている最中だった。
「マオちゃんなら大丈夫だろうなって思ったんだ。あの子は、何があってもお前から離れないから。なあ、マオちゃんと茜ちゃんは違うっていう意味、わかるか?」
種族の違いというのは、ベストアンサーではないのだろう。だから隆二は黙っていた。
答えない隆二に呆れたように京介は笑い、
「マオちゃんは絶対にお前を一人にしないってことだよ。もしも、お前がマオちゃんから離れることを決意しても、マオちゃんは絶対にそれを許さないだろう。お前が前みたいに、一時の感情の迷いで離れそうになっても、マオちゃんは決してお前を一人にしないだろうから。茜ちゃんみたいに、物わかりよく、離れたりしないから」
「……ああ」
溜息のように言葉が漏れる。
ああ、そういうことか。その答えには納得出来た。
マオは絶対に隆二から離れないだろう。隆二の方が逃げても、彼女はきっと追ってくる。拾った猫の世話は最後まで見なさいよ! とかなんとかいいながら。
「幽霊だからっていうんじゃない。マオちゃんだから。マオちゃんが茜ちゃんの性格だったら、俺はやっぱり、あの時と同じように心配したと思うよ。だけど、あの子はいつだって、お前のことを考えてる。憎らしいぐらい」
「そうだな」
「それにさ、この際だから言っておくけど。なぁ、お前だって本当はわかってるんだろう? マオちゃんが幽霊だからって、一概には安心出来ないんだよ。居なくならないって。本当の意味での永遠なんてないんだよ。なぁ」
そして隆二が手に握ったままのエクスカリバーを指差し、
「それが俺の永遠も、お前の永遠も、マオちゃんの永遠も終わらせること、わかってるだろう? 理解してろよ、意識してろよ。目を逸らすなよ。ちゃんと考えてないとお前、後悔するぞ」
京介の言葉に返事は出来なかった。考えなかったわけではない。ここに来るまでに最悪のことを。マオが居なくなることを。永遠なんてないのだということを、再確認したことを、思い出したくなかった。
「しっかりしろよ。マオちゃんにはお前しかいないんだから」
そして、畳み掛けて来るような京介の言葉からも逃げたかった。なんだってそんな、次から次へと色々言うのだろう。これじゃあ、まるで、遺言みたいじゃないか。
「わかってるよ」
自分の考えに不安になって、京介の言葉を強引に終わらせた。
京介はどうだか、とでも言いたげに肩をすくめたが、それ以上は何も言わなかった。代わりに、
「なあ、頼むよ」
お願いを続けた。
「嫌だ」
それを、首を横に振ることで拒否した。
「なんで俺が」
「お前だからだよ」
そこで京介は、なんだかやわらかく微笑んだ。
「お前だからだ」
「だからなんで」
「お前が一番、俺の気持ちわかってくれるだろうなって思ったからだよ」
言われた言葉に返事が出来ない。ああ、それはきっとそうだろう。英輔よりも、颯太よりも、隆二が一番京介の気持ちがわかる。理解出来る。かつて同じ約束を受けたから。
だけど、だから。
「だから、無理だ」
約束をした相手が、ずっと待っていることを知っているから。
「ココは茜ちゃんとは違うよ。待っていない」
「そりゃあ茜ほどの時間を待つことはないだろうけれども」
言いながら胸の奥が痛む。幽霊になってまで待っていてくれた彼女。
「けど、それでも待つことにはかわりないだろう?」
「……うん、そうだね」
「約束を守れなかった時の気持ちを知っているから、お前の願いはきいてやれない」
「……死んだら約束を破ったことを後悔することもないだろうけど」
「そんな逃げは許さない」
言い切ると京介は困ったなぁ、とぼやいた。
「ここまでお前がごねるとは思わなかったな」
「例えば、例えばだ。他の頼み事なら別だった。それこそこれから先、家に置いてくれとかな。だけど、京介」
言いながら自分の声が震えることに気づいた。ああ、怖いと思っている、今、自分は。
「それだけは、わかった、とは言えないよ。なんだよ、お前」
永遠だと思っていた。ずっとずっと、これから先、永遠に一緒だと。直接顔をあわせることはなくても、この世界のどこかに、同じ永遠を分け合って存在しているのだと、信じていた。それが崩れることなんて、考えてもいなかった。
「お前まで、俺を置いて行くのかよ」
京介も顔を歪めた。なんだか泣きそうに。
「それは、悪かったと思ってるよ」
「だったら」
「でももう疲れたんだよ」
彼はまた、疲れたと口にした。
「俺はお前みたいに、人間から離れて生きられない。今更生き方は変えられない。仮に、ココのところに戻って、心中のお願いもどうにかうやむやにして、そしてココともう一度生活をしたとする。だけどさ、それも、いつか絶対に終わっちゃうじゃないか」
語尾が上擦る。
「もう疲れたんだ。そういうのに怯えるのも。俺は英輔や颯太みたいに割り切れない。永遠を有効活用しようとは思えない。お前みたいにマオちゃんもいない。無理だよ。俺にはもう。疲れたんだ」
疲れた疲れたと言う京介の顔が、光の加減かとてもやつれて見えた。それにぞっとする。取り憑かれている、永遠という名の死神に。
「気持ちは変わらない。俺にはもう無理だ。この永遠を手放したい」
「だけど」
何かを言おうと隆二は口を開き、何を言っていいのかわからなかった。ここまで疲れたという彼を、ここに引き止めようとするのはエゴじゃないだろうか。
永遠を憎み、終わりが来ることを願ったのは自分だって一緒だ。マオに会うまでは、ただ、だらだらと生活しながらはやく終わりが来ないかと、何かの間違いで永遠が途切れないかと、それをどこかで願っていた。消極的か積極的か、それだけの違いだ。
「お前が引き受けてくれないなら、それも仕方ないな、と思う。嫌だよな、同族殺しみたいなの」
京介の口から同族殺しという言葉が、ずんっと肩にのしかかる。そうだ、そんなの、大事な仲間を自分の手で、なんてこと。
「エミリちゃんとか、研究所の人間に頼めばまあ、どうにかしてくれるだろうな、とも思うし。その前にこき使われたり実験台にされたりしそうだけど、まあ、それもいいよ」
だけどさ、と京介は隆二の瞳を捉える。
「それでもやっぱりお前に頼みたいんだよ。縁、っていう意味で。お前だってそう思うだろ?」
一瞬の躊躇いのあと、
「なぁ、――」
呼ばれた本当の名前に、撃たれたような気分になる。
縁、っていう意味で。
ああ、そういう意味なら、そうかもしれない。
「……ああ、そうだな」
そうして隆二も、彼の本当の名前を呼んだ。
「柳司」
それを聞いて神野京介は、かつてリュウジの名を持っていた彼は、優しく微笑んだ。
「お前の言うとおりだよ、柳司。俺がお前と同じ立場で、その、終わりを望んだとき、誰に頼むかっていったら、きっと真っ先にあいつに頼む」
かつての自分の名前をもつ彼に。それが、縁、だ。
あの時、たった四人だけ残った実験体同士で名前を交換し合った。漢字は替えたけど。かつての自分の名前をもつ者に、なんとも言えない気持ちを覚えたことを覚えている。かつての自分の名前で他人を呼ぶことに、違和感を持ったこと。
今ではすっかり自分に馴染んだ名前だけれども、今ぐらいは返さなければならない。
「……うん、そうだな。それなら、仕方ないのかもしれない。柳司」
殊更に名前を呼ぶ。自分に言い聞かせるように。
「うん。悪いな、本当に。――」
向こうもこっちを本当の名前で呼んで来る。それは縁、で。それと同時に、
「柳司。死ぬなら出来れば人間でって、ことか」
自分が人間だったことを思い出させるまじないのようなものだ。
「そんな感じかな」
「そっか」
その思いもわかる。わかってしまった。わからなければ断れたのに。
「ずるいよな、柳司」
「知ってる」
くすり、と柳司は笑った。
「そうなると、断れないな」
「――ならそう言ってくれると思ったよ」
「ずるい」
もう一度言うと、さらに彼は笑った。
柳司がひらりと、軽い動作でブランコの柵を飛び越える。
二人を隔てていたものが無くなる。
「ずるいな、本当に、ずるい」
「うん、悪かった。本当にそう思ってる」
「人の弱みにつけこみやがって」
「それもわかってる」
人間ではないことを、心のどこかで割り切れていないのはお互い様だ。人間であったころのことを持ち出されては、断れない。それがどんなにお互いにとって大事なことだかわかっているから。
「俺がこれで病んで病んで病みまくったら、柳司、お前責任どうとるんだよ」
「――はそこまで無責任じゃないでしょ。自分のメンタルの責任ぐらい自分で持てる」
原因を作ろうとする人間が、いけしゃあしゃあと答えた。
「それに、――にはマオちゃんがいるだろ?」
なんでもないように言われて、ため息をつく。それを言われると反論できない。
「俺にはマオがいて、俺が茜と約束して、俺が今神山隆二で、だからお前はここに来たんだな」
もう一度、確認するように問う。
「そうだよ、――」
「じゃあ、仕方ないな」
困ったように笑った。選ばれてしまったのは、もう仕方ないと思えた。
終わりを迎えたい気持ちもわかるのだ。
右手に持ったエクスカリバーを、そっと握り直す。
「あ、――」
慌てたように、彼がズボンのポケットから何かを手渡して来た。
「エクスカリバーってさ、対象が身につけてたものも全部消しちゃうだろ? だけど、それだけは、その、一緒には消したくないんだ」
渡されたのは財布と、ジッポだった。
「お前に持ってろなんて言わない。捨ててくれていい。だけど、無かったことにはしたくない」
「……わかった」
頷く。
「財布の中身はあげるよ。全財産。迷惑料代わりに」
「ありがたくもらっとくよ」
あえておどけて返した。彼もふふっと笑う。
そうして、沈黙。
「……ごめんな」
少しの沈黙のあと、そう告げた。
「それはこっちの台詞。本当、ごめん。――」
「うん」
「あと、エミリちゃんにも謝っておいて。ここ、人が立ち入れないようにしてくれたでしょ?」
「……ああ、なんだ気づいてたのか」
「さすがにね、この時間にこんなにも人が来ないのはおかしいと思うよ。ごめんね、って言っておいて」
「……うん、わかった。伝えておく」
頷いた。
右手を握る。
「――」
名前を呼ばれた。
彼は微笑んでいた。
「ありがとう」
「ああ。こちらこそ。世話になった」
右手を握る。力を入れて。
一歩踏み出したのは、彼の方だった。右手に向かって一歩踏み出してくる。それに慌てて右手を引きそうになって、ぐっと堪えた。
代わりに、それを前に突き出す。
嫌な手応えがあって、そちらを見そうになるのを、
「――」
名前を呼ばれ、遮られた。小さく首を横に振られる。気にするな、と。
「じゃあ、ね」
「柳司っ」
何かを言いたくて名前を呼んで、言葉を探す。でも、遅かった。エクスカリバーに刺された箇所から彼の存在が消えていく。
彼は最後まで笑っていて、隆二は何も言えなかった。
目の前から、何事も無かったかのように彼が消える。
右手から力が抜ける。
支える力が何もなくなったエクスカリバーが、からんと音を立てて地面に落ちた。
そこには本当に何もなかった。
大きく息を吐き出す。
エクスカリバーは元々、実験体の抹消に使われていたものだ。実験体の抹消に、遺体やら遺品やらは不要なのだ。実験体なのだから。
その事実を改めて思い知らされる。
空を見上げ、ぐっと目を閉じる。
しばらくそうしてから、
「いるんだろ」
空を見たまま尋ねた。
「はい」
がさり、と草木が揺れる音がしたあと、静かにエミリが近づいて来た。
「……すみません」
そして彼女が頭を下げる。
彼女が何を謝っているのかわからなかった。彼女の何が悪いのかわからなかった。けれども、彼女を詰りたかった。実験体を作り出した側の彼女を。
それを精一杯の理性で押しとどめた。それは、八つ当たりだ。自分達を作ったのは彼女ではない。組織全体としてはともかく、彼女個人には落ち度はない。
「あと、頼む」
それでも優しい言葉をかけられるわけもなく、淡々とそれだけ告げた。
「はい」
エミリが頷く。
それを見てその場を立ち去ろうとし、ふっと左手に持ったままの財布とジッポに目が行く。ああ、そうだ、これ、どうしよう。
よく見ると、渡されたジッポには、シールが貼ってあった。京介と知らない女性がうつった写真のシール。二人の間には何故だか大仏が描かれている。
「……バカが」
小さく呟く。写真の中の京介は、慣れないことに強張った笑顔をしていたけれども、それでもどこか幸せそうだった。
そんな幸せな時間を見つけたのに、お前は本当にこうすることしか出来なかったのか? 自分がやったことは正しかったのか?
俺たちは二人とも、バカだったんじゃないだろうか。
今更嘆いても、遅いけど。
財布の方も一度あけてみる。金銭の他に、ジッポに貼られていたのと同じような写真シールが入っていた。それをひっぱりだしてみる。何種類かの写真。そのうちの一種類には女の子女の子した丸い字で、キョースケ、ココナと書かれていた。
ココナ、というのか。彼女は。
京介を帰してあげられなくて、すまない。
「嬢ちゃん」
「はい?」
エミリは名前を訂正することはしなかった。
「これ」
その写真シールを差し出す。エミリは写真を見ると、
「ああ……」
一言呟いた。
それから、それを受け取ると、
「お預かりします」
「うん、頼む」
それを確認すると、隆二は残りの財布とジッポをポケットに滑り込ませた。
「形見わけ」
言い訳するように呟くと、エミリは一度頷いた。
そのまま、足早にその場を立ち去った。
エミリは去って行く隆二の背中を見送ると、足元に落ちているエクスカリバーを拾い上げた。その隣に落ちているトートバッグも拾うと、その中に滑り込ませる。
少し躊躇ったあと、ケータイを取り出した。研究所の番号を呼び出すと、耳に当てる。
「お疲れさまです」
淡々と事務的に、電話の相手に告げる。
「はい。そうです。すみません、U〇六八は……、はい。申し訳ありません。とめることが出来なかったのは、わたしの責任です。……はい。わかりました。詳しくは戻ってから」
失礼します、と電話を切る。
研究所に嘘をついたのは初めてだった。
「……とめるつもりはありませんでした」
京介の話を聞いていたら、とめられなかった。貴重な実験体が消えることがないようにしろと言われていたにもかかわらず。途中で飛び出していくことも出来たにもかかわらず。
「……神野さん」
しゃがみ込み、京介が立っていた辺りの地面を撫でる。
「本当に、申し訳ありません」
貴方をここまで追いつめたのは、わたし達研究所の責任です。
「ごめんなさいっ」
公園の入り口にある花壇に、マオは腰掛けていた。足をぶらぶらと揺らしている見慣れた姿。それをみると、隆二は軽く息を吐いた。強張っていた気持ちも、一緒に少し逃がす。
『隆二』
それで気づいたのか。マオが振り返ると、微笑んだ。
『お話、終わったの?』
いつもと同じように、なんでもないように尋ねてくる。
「……ああ」
『そう、じゃあ帰りましょう』
そうしてマオは片手を伸ばしてきた。立ち上がらせて、とでも言うように。
何も考えずにその手を握ろうとして、
「っ」
赤い。血で。自分の手が赤く染まっている、血で汚れている、そんな気がした。そんな風に見えた。
京介から血が流れたりしていないのに。
その手でマオの白い手に触ることが怖くて、慌ててひきかけた手を、
『隆二』
マオの方から掴んで来た。
咄嗟に振り払おうとするのを、思ったよりも力強い手が許さない。
『同じだよ』
かわりにぐっと手を引っ張られた。思わぬ事態に体勢を崩す。片膝をつく。反対側の手をマオが座る花壇についてバランスをとる。
緑の瞳が、近い場所から隆二を見つめた。
『あたしも同罪だよ。あたし、京介さんが何をするつもりなのか知ってた。知ってて、隆二には言わなかったし、京介さんをとめなかった。あたしも同罪だよ』
「だけど」
手をくだしたのは、自分だ。マオじゃない。
『ずっと言ってるじゃない。同じ穴の狢でしょう?』
と、いつもと同じように笑う。なんでもないことのように。
それを見ていたら、耐えられなくなった。泣く、と思った。
ぐぃっとその腕をひっぱり、頭を腕の中に抱え込む。抱きしめる。
「なんでだよっ……」
吐き出した声が震えていた。
背中にそっとマオの腕が回される。
「なんだよ、あいつ。なんなんだよ」
思いが明確に言語化されない。なんで、どうして、それだけが口をついてでる。
なんでこんなことになったんだ。どうしてこんなことになったんだ。なんで俺はあんなことをしたんだ。どうして京介はこんなことを選択したんだ。なんで他の選択肢を選べなかったんだ。
どうして俺を、あいつは、置いていったんだ。
「ずっと。ずっと一緒だと思ってたんだ。滅多に会ったりしないけど、会わないようにしてたけど。それでも、ずっと一緒に居られると思っていたんだっ」
なんで、あいつにまで置いて行かれなきゃいけないんだ。
「寂しいとか、疲れたとか、抱え込む前に言えよ、バカっ」
言われて自分に何が出来たかはわからない。言いたくなかった京介の気持ちだってわかる。だけれども、もっと他の選択肢があったはずじゃないか。
「消えたら後悔だって出来ないのにっ」
声が完全に上擦った。ああもう、泣いていることがマオにばれただろう。
とんとんっと、優しく背中を叩かれた。宥めるように。
『京介さんね』
そのままマオが喋りだす。いつもよりも柔らかい声色。
『よかったって、あたしに言ってたの。もう一度心から人を愛せて。まだ、人を愛せると知ることが出来て。それから』
そこでマオは一瞬躊躇うような間をおいて、
『気にかかっていたこと、間違っていなかったってわかって。あの時、隆二をとめなかったことは、間違っていなかったってわかったからよかった、って』
「……あのとき?」
『茜さんのこと』
マオの口からでた、茜の名前に思わず体が強張った。それに気づいたのか、マオの手がさっきよりも強く、一度、隆二の背中を叩いた。しっかりしてよね、とでも言いたげに。
『ずっと気にしてたんだって。隆二が茜さんと一緒に居るのをみたとき、もっとちゃんと諦めろってとめるべきじゃなかったのかって』
「ああ……」
気にかけてくれていたことは知っている。
『真剣にとめられなかったのはね、隆二があまりにも優しく笑ったからなんだって。京介さんはもう、ずっと、そんな風に笑ったことなかったのに、隆二が優しく笑うから、期待したんだって。隆二と茜さんには奇跡が起きて、今後も人間として暮らしていけるんじゃないか、って』
俺はお前が羨ましいよ。京介の声が蘇る。
『そんなことを期待してしまって、とめる手が鈍ってしまったと後悔していたんだって、ずっと。そのあと会った隆二が、あまりにも悲しそうな顔をしていたから。俺がちゃんととめてればって思ったって。だけど、とめなかったことも、間違ってなかったって気づけたって。別れの時に傷つくことを差し引いても、人を愛することは幸せなことだと、思い出せたからって』
写真にうつっていた、強張った笑顔をした京介。だけれども、どこか幸せそうに見えた。
『それからね、茜さんが待っていたこと。それも救いになったって。隆二と茜さんとの間の絆が切れていなかったこと、ある種の奇跡のようだと思ったって。気にかかっていること、間違っていなかったと気づけてよかったって』
よかったんだって、とマオはもう一度続けた。
「そうか……。あいつが、納得しているのなら、いいんだが」
だけど京介。できればそれは、お前自身の口から聞きたかった。こんな風に、完全にお前がいなくなって、他人から聞きたい言葉ではなかった。
「そうか……」
喉元に涙の塊が押し寄せてきて、堪える代わりにぐっとマオの頭を抱え込んだ。マオは何も言わずに、されるがままになっていてくれた。
「幸せだったら、いいんだ」
吐き出した言葉は、殆ど負け惜しみのようなものだった。だけれども、唯一見つけた救いに縋り付きたかったのだ。
『うん』
マオの手がそっと背中をさすってくれる。
『隆二』
優しい声で名前を呼ばれる。
『あたしは、絶対に貴方を一人になんてしない。置いて行ったりしない。絶対に』
優しい声で、それでも力強くマオが言った。
『京介さんとも、約束したから』
「……ああ」
腕の力を少し緩めて、マオの耳元に顔を近づける。大きな声じゃ恥ずかしくて言えないから。小さな声でも届くように。
「頼むよ。……絶対にいなくならないでくれ」
例え俺が逃げようとしても、追いかけてきて欲しい。我が侭だと、わかっているけれども。
『……うん』
急に耳元で囁かれた声に、言葉に、戸惑ったような間を置いて、マオは頷いた。
『隆二にはあたしがいるから大丈夫だよ』
いつもの底抜けの明るさに、少しの優しさを加えてマオが言った。そのままぎゅっと隆二の背中に回した腕に力をこめる。
「……ありがとう」
耳元で礼を言ったあと、そのままマオの肩に額をのせた。
「……ごめん、もうちょっとだけ」
掠れた声で告げたお願いに、マオは返事をしなかった。代わりに片手で隆二の頭を撫でる。
相変わらずゴム手袋を何枚も重ねたような、遠い感触しかしない。それでも、今日はその手がとてもあたたかく感じられた。そう思った瞬間、また泣きそうになる。
ぐっと唇を噛んで、耐えた。
どれぐらいそうして居ただろうか。
『隆二』
マオが小さく名前を呼ぶ。
「ああ」
それをきっかけに隆二も顔をあげた。マオの方を向く前に、ぐっと腕で目元を拭った。
「……悪かったな。色々、付き合わせて」
そういうとマオは小さく首を横にふった。
マオから離れて立ち上がる。
マオは花壇に座ったまま、先ほどと同じように片手を伸ばしてきた。
『帰りましょう? 帰ってソファーに座って、二人でテレビでも見ましょう』
そう言って、いつもと同じ顔で笑う。
「ああ」
隆二は軽く頷くと、今度は迷うこと無くその手をつかんだ。
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