第二幕 猫にはまだ鈴をつけていない
『ころんでもぉー、またたちあがるぅー、そうよぉーわたしはぁぁぁ、ななころび、ヤオ! きみこぉぉぉ』
「……なんだその歌は」
気持ち良さそうに歌うマオに、隆二は思わずつっこんだ。
ソファーに座り本を読む隆二の膝の上に、寝転んだマオが両手で頬杖をついている。マオが来て最初のころは膝にのると邪魔だのなんだの言っていたが、言って聞かせても無駄なので最近は黙認している。
仲がいいよねぇとかからかってくる京介も、今はどこかに出かけているし。
『ん? 君子の主題歌だよ』
顔をあげたマオが、知らないのぉ? 不思議そうな顔をする。
「いや、それは薄々わかってたんだが」
七転びヤオ君子とか言ってたしな。訊きたいのはそういうことではなくてだな。
『隆二も一緒に歌う? 教えてあげるよ?』
「いや、遠慮しておく」
『そう? 楽しいのに』
などと言いながらも、マオはまた歌に戻る。
今日も今日とて、神山家の日常はどこまでも怠惰で非生産的であった。
京介がここに来た目的も、未だにわからないままだが、面倒なのであれから追及はしていない。今だって、「ちょっと出かける」と行き先も告げずにいなくなって、数時間経っているが、どこで何をしているかさっぱりわからない。だからといって、訊くつもりもない。どうせ答えないだろうし、面倒だし。
神山隆二の性根は、とことん怠惰であった。
マオのリサイタルはしばらく続き、隆二もしばらくそれをBGMに本を読んでいたが、
「コーヒー飲みたい」
ぼそりと呟いた。思いついたら、今すぐにでもあの茶色の液体を摂取したい気分になった。彼はどこまでも思いつきだけで生きている。
そうと決まれば、
「マオ、どけ」
膝の上の、立ち上がるのに邪魔な居候猫をどかさなければ。
『えー』
歌を邪魔されたマオが不満そうな顔をする。
「いいから」
『はーい』
それでも素直に、ごろごろと寝返りをうつ要領でソファーから離れる。ソファーから三歩程離れた宙で、仰向けに浮かんでいる。
「どーも」
一応礼を言ってから、台所に向かう。薬缶に水を入れ、火にかけ、インスタントコーヒーの瓶をあけ、
「……あ」
そこに何もないことを確認し、固まった。
『どうしたの?』
「コーヒー切れてた」
『ありゃりゃ、残念』
「買いに行って来る」
テーブルの上に放り出していた財布を掴む。
『京介さん、帰って来てないけどいいの? 隆二お出かけしちゃったら、京介さん入れないじゃん』
未だに合鍵を作っておらず、隆二が出かけてしまえば鍵を持たない京介は部屋に入れない。そして、盗られて困るようなものはないとはいえ、京介のために留守宅の鍵を開けっ放しにしておくつもりなんて隆二には無かった。
「どこに行ってるんだか知らないが、あいつが遅いのが悪い。コンビニだし」
『じゃあ、あたしも行く!』
上半身を起こしたマオに、
「お前は留守番」
冷たく返した。
『えー』
「京介が帰って来たら待つように言っといて」
『コンビニでしょう? 近いでしょう? 大丈夫だよぉ、京介さんだって鍵開いてなかったら待ってるよぉー』
「何も言わないで出かけたら、いくらなんでも、あいつうるさいだろ」
この数ヶ月でどれだけの小言を聞いたことか。うんざりとため息をつく。
それからふくれっつらしたマオに、宥めるように微笑みかけた。
「すぐ帰って来るから。それで、京介戻って来たら、京介に留守番させて散歩でも行こう。お前、そろそろ食事摂った方がいいだろ?」
マオはしばらく膨れっ面したまま隆二の顔を見ていたが、やがてしぶしぶ頷いた。
『約束ね?』
「ああ、約束する」
隆二の言葉に、少しだけ口元を緩めてマオは頷き、
『じゃあ、待ってる。はやく帰って来てね』
「ああ」
マオのためにテレビをつけてやると、隆二はコンビニに向かう。
『約束ね』
マオはがちゃりと閉まるドアに向かって小さく呟いた。
その口から、ふふっと笑みが溢れる。
『約束ね、約束』
基本的に約束をしないという隆二との約束。小さな約束だけれども、これはやっぱり特別だということだろう。
すっかり機嫌を良くして、鼻歌なんて歌いながらマオはテレビに向き直った。
思ったよりも遅くなってしまった。
京介は足早に、隆二の家に向かう。
あまり遅くなると、何を言われるかわからない。怪しまれるかもしれない。
「この前、マオちゃんに探りいれられちゃったしなぁ」
ぼやく。
約束を破るためにここに来た。それは嘘じゃない。けれども、それを実行に移す決心がなかなかつかず、長いことかかってしまった。本当は、こんなに長いこと、ここにいるつもりはなかったのに。
流されやすくて情にもろくて、日和見主義なのは昔からだ。平和な生活は心地よくて、ずるずるとこのままでいいかと思ってしまう。それで失敗したというのに。
でもそれも、今日で終わりだ。
ソレを入れたトートバッグを、ぐっと握る。
ここまできたら引き返せない。実行に移すならすぐに。はやくしないと止められてしまうかもしれない。
覚悟なんてあの場所で決めてきた。もう迷わない。
それでも隆二の家まで戻り、そのドアを開けようとしたときには手が震えた。
一つ深呼吸。
落ち着こう。動揺しているところを見せちゃいけない。
「よしっ」
平常心を取り戻し、いつものような笑顔を浮かべて、ドアノブをひっぱり、
「あれ?」
ドアは開かなかった。
合鍵なんてものを持っていないから、隆二か京介、どちらかが必ず家にいて、家にいるときは鍵を開けっ放しにしていることが多いのに。
仕方なしにチャイムに指を伸ばす。そこから、腹立ち紛れに連打した。
せっかく覚悟を決めたのに、なんというか、出鼻をくじかれた気分だ。なんでこう、いちいち人の神経を逆撫でするようなことするかね、あいつは。
返事はない。テレビの音はするから、いるとは思うんだが、居留守か。
『京介さん』
そう思っていると、ひょいっとマオがドアから顔を生やした。
「マオちゃん」
『ごめんね、隆二、今お出かけしてるの』
本当にすまなさそうな顔をマオはする。
『コンビニだからすぐ帰ってくると思うんだけど』
「あーそう。そっか」
コンビニ行くのに律儀に鍵かけていくなよ。どうせ盗まれるようなもの持ってないくせに。
仕方ない、帰って来るまで待つか、とドアに背を預ける。
『ごめんねー』
「マオちゃんが悪いんじゃないよ」
そう言って微笑みかけ、
「あ、そっか」
気づいてしまった。
何もここで隆二を待つ必要はないじゃないか。隆二が居ない、それは好都合じゃないか。
『京介さん?』
不思議そうなマオの声。
握った鞄。
今ここで、実行に移そう。それが一番、賢いやり方だ。
「マオちゃん」
上半身だけドアから生やした、マオの手を掴む。
『……京介さん?』
訝しげなマオの声。
怯えさせてしまうことは本意ではない。それでも、どこか顔が強張ってしまう。
「ちょっと付き合って欲しいんだけど。外行こう?」
『えっと。でも、あたし、お留守番してないと。隆二と約束したから』
マオが困ったような顔をする。本能的に何かを感じとったのか。軽く身を引き、京介から距離をとろうとするのを、
「なんで俺がここに来たのか、説明するよ」
ずるい言葉で引き止めた。
「俺がここに来た理由、隆二知りたがってるんじゃない?」
これじゃあまるで、君子に出てくる悪人だ。マオにとって一番魅力的に聞こえる言葉で誘惑する。
「教えたら、隆二が褒めてくれるかもよ?」
マオは少し躊躇ったあと、
『ちょっとなら、いいよ』
頷いた。
コンビニの袋片手に、足早に隆二は家を目指していた。
まさか家から一番近いコンビニが改装工事中だとは思わなかった。そして、足を伸ばして遠いコンビニまで行ったら、久しぶりにあのオカルトマニアの店員に会うし。
話なげえよ。あんたが新しく買った吸血鬼小説が面白かった話なんかどうでもいいんだよ。っていうか、オカルトマニアだとしてもなんか、どっかずれてるんだよ。なんで本物の吸血鬼、と思っている人間相手に吸血鬼小説の話をつらつらとできるんだよ。もっと他に話すことあるだろ。
などと、脳内で怒濤のツッコミを繰り広げていると、
「神山さん!」
背後から声をかけられて振り返る。予想どおりの赤い色にうんざりする。道ばたで話しかけるな、赤くて恥ずかしいから。
「よかった、今からお宅に伺うところで」
「何? 嬢ちゃんってば、またなんか逃がしたの?」
からかうように言っても、意外なことにエミリは抗議の言葉を述べなかった。お決まりの名前の訂正もない。
「神野さん、まだ、いらっしゃいます?」
慌てたように放たれた言葉に、少し面喰らう。
「あー、帰ってるかな? でかけてたけど。何、京介に用?」
エミリは一度息を整え、その青い瞳でじっと隆二の顔を見つめる。
「落ち着いて聞いてください」
「なに?」
何を言い出すのか。少し身構えると、エミリは慎重に言葉を発した。
「エクスカリバーが盗まれました。恐らく、神野さんの仕業です」
その言葉の意味を認識するまで、少しの時間を要した。
エクスカリバーが盗まれた?
理解すると同時に、振り向き、家に向かって駆け出した。
「神山さんっ」
エミリが叫び、後をついてくる気配がする。
エクスカリバーは実験体の抹消に使われていた武器の通称だ。
実験体、つまり、隆二や京介や、マオを。
「昼間に! 研究所にいらっしゃって!」
背後からエミリの声がする。少しだけ速度を緩めて、その言葉に耳を貸した。
「京介がか?」
「はいっ。それで、様子が変で。うまく、言えないんですけど。帰られたあと、保管室の人間が倒れているのを発見して、それで」
「中を見たらなかったってことか」
「はい」
息を切らしながらエミリが頷く。
「……なにに使うつもりだと思う?」
「わかりません。わかりませんけれども、でも」
エミリがそこで言葉を切った。
「そうだよな」
今ここらにいる実験体に該当するのは、隆二とマオだ。
「……マオにも、勿論?」
「効果があります。あるはず、です」
「先に行く」
それだけ聞けば十分だった。それ以上は聞けなかった。
エミリを残し、全速力で駆け抜ける。本気で走ったら周りの人間から不審がられる。そんなこと、今はどうだっていい。
ぎしぎしとうるさいアパートの階段を三段飛ばしで駆け上がり、乱暴に鍵をあけ、
「マオっ!」
叫びながら部屋に入る。
「マオっ」
靴を脱ぐのがもどかしくて、そのままあがった。
つけっぱなしのテレビから、能天気な音楽が流れる。
「マオ!」
狭い家の中に、居候猫の姿は見えない。
焦燥感が募る。
隆二が遅いから勝手に出かけたのかもしれない。でも、帰って来たら出かける約束をしていた。マオがそれを待たずに出かけるわけがない。
マオは自分と違う。約束はきっちりと守るタイプだ。
「っち」
舌打ちすると、持っていたままだったコンビニ袋を腹立ち紛れに投げつける。
外を探さないと。
振り返り、ドアに向かったところで、
「神山さんっ」
息を切らしながらエミリが現れた。邪魔だったのか、赤いベレー帽は片手に握られている。
「マオさんはっ」
「いない。京介も」
「……探すの、手伝いますっ」
「頼む」
背に腹はかえられない。素直に頷くと、部屋から出る。ドアを後ろ手で閉める。
「神山さん」
そこでエミリに袖をひっぱられた。
「なに?」
「これ」
エミリが指差す先、ドアの新聞受けに、一枚の紙が挟まっていた。見覚えのないそれを、慌てて引き抜く。
少し神経質そうな文字が踊っていた。
「隆二へ。ごめん、マオちゃんを預かりました。返して欲しかったら、夜九時、公園まで来てください。ごめん。追伸、ごめん、エクスカリバーもっています」
そこに書かれていたのは、謝罪にまみれた誘拐犯からの手紙。
「あんの、馬鹿野郎っ」
くしゃり、とメモを握りつぶした。
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