第二幕 少女の心は猫の眼
結局、隆二にメールを一通送らせるまでに二時間程かかってしまった。最後の方はこちらも意地になって付き合ってしまったが、時間の無駄なような気もしてくる。
溜息をつきながら、エミリは研究所の廊下を歩いていた。戻って来たらすっかり日も暮れてしまった。
外観は製薬所の研究施設のフリをしている。その廊下には、白衣の人間が沢山歩いている。白衣を着ているのは研究班だ。その中で、エミリの姿は浮いている。もっとも、彼女の場合、どこを歩いていても浮くことになる外見なのだが。
「進藤」
すれ違う白衣二人組に声をかけられる。下品な笑い方をしたそいつは言った。
「もう失敗しないようにな」
バカにしたように言われた。それだけの言葉だったが、何をさしているのかはすぐにわかった。わかったから、エミリは軽く一度頭を下げると、何も言わずに足早に彼らから距離をとる。
失敗したことは、わかっている。あれは失敗だった。神野京介の件。だけど、何を失敗ととらえているか、エミリと彼らでは違う。
「現存している貴重なUナンバーをみすみす消滅させるなんて! なんのための派遣執行官なんだっ!」
「役立たず!」
「これだから小娘に任せるのは不安だったんだ。親の七光りだな」
彼らはあのとき、そうエミリを罵った。
それでなくても研究班は、研究の成果を理解できないからと派遣執行官をバカにしている。
その中でも最年少のエミリのことは、こんな小娘に何がわかる、たまたま祖母や親が研究所の人間だっただけじゃないか、と底辺として扱っている。そんなエミリの失策で、古い実験体を失うことになった、と苛立つ彼らの気持ちは理解している。
だけど、エミリは決して、貴重な実験体を失うことになったことが失敗だと思っていない。
失敗したと思っているのは、神野京介にあの選択肢を選ばせてしまったことだ。自分に何が出来たのかはわからない。けれども、間違っていたことだけはわかる。
あれは誰も幸せにしない選択だった。
ココナに会ってきたけれども、なにもできなかった。そう、先ほど神山隆二に告げた。
それはある意味正しくて、ある意味嘘だ。
金銭を渡した。忘れ物のフリをして。研究所の規定に従って。
そんなこと、神山隆二には言えなかった。
「それはそれは、素敵な弁償方式だな」
なんて皮肉って笑う彼の顔が目に浮かぶ。
金銭で解決できないことだって、あるのだ、ということを最近理解した。
今日の報告書を仕上げると、足早に研究所を後にする。とはいえ、自宅も研究所の敷地内、寮だ。
父の二人暮らしの部屋に戻る。
「ただいま」
言いながらドアを開ける。玄関には既に父の靴があった。
「お帰り」
「ただいま、ダディ」
リビングで新聞を読んでいた父親に微笑みかける。父親はいつもと変わらない和服姿だった。
そのまま自室に入る。机の上の写真に微笑みかけた。
「ただいま、マミィ」
殆ど記憶のない母親が、写真の中で微笑んでいる。
荷物をベッドに放り投げると、その上に自分も倒れ込む。
先ほどの、マオとの会話を思い出す。
ケータイがきっかけになったのか、今日のマオは普通に話してくれた。そのことが、ほんの少し嬉しい、気がする。ただ、会話の流れがなぜ研究所のことだったのか。もっと他に話題がなかったのか。思い返して、自分にうんざりする。
ないのだ。
自分には、マオを喜ばせるような話題が思いつかない。彼女はなんだか興味深げに聞いてくれていたが、本当はマオにするような話じゃなかった。
「なくなっちゃえばいいのに、か」
それはきっと、神山隆二も思っていることだろう。研究所の話なんて、わざわざ彼らにすることじゃない。
だけれども、エミリには他に話題がない。今日改めて思い知らされた。自分の世界は、この研究所の中で完結している。狭い世界で。産まれてからずっと、ここの常識が世界の常識だった。
それを、おかしいと思ったことは今までない。寧ろ、誇りに思っている。
確かに、マオや隆二には迷惑をかけている。それでも、この研究所は社会に役立つ研究もたくさんしている。最近解禁になったある難病の特効薬だって、この研究所の研究成果だ。
決して表舞台に立つことはないけれども、世界を裏から支えている。何万人も救えることになるのだから、多少の犠牲は仕方がない。
それは本心だし、プライドだし、ずっとそう思っていた。
でも、本当に?
何万人も救えるのならば、数人を犠牲にしてもいいの? 本当に?
最近なぜだろうか、このことを考えると心のどこかで疑問が沸き上がる。こんなこと、初めてだ。疑うことなんて、今までなかった。
だって、研究所は正義だから。
それがわたしの世界だから。
ぐるぐるまわる思考回路に引きずり込まれそうになったとき、体に振動を感じる。下敷きにした鞄の中、ケータイが震えていた。
とりだすと、隆二からのメールだった。おお、意外。使おうと努力している。
開いてみる。
タイトルが入ってないのはご愛嬌。本文、「ずつとききたかった。なんで赤い服きてんの。あと今度、ちいさいつのだしかたおしえて」
平仮名が多いが、まあ彼にしてはなかなかだろう。このメールをうつのに何時間かかったか知らないが。
返信をしようと思って気づく。まだ、続きがある。
少しスクロールすると、何度かの改行のあと書かれていた。
「あときようすけのことは、気にしなくていいから。ほんとうに」
どこかで、ひゅっと音がした。
しばらくしてから、それは自分が息を吸った音だと気づいた。
なんで、そんなことを。慣れないメールで、無駄な改行をいれるなんていう手間をしてまで、なんでそんなことを。わざわざ言ってくれるのだろうか。
気にするに決まっているじゃないか。
なんだかよくわからない感情が胸中を支配する。
しばらくその文面を眺めていたが、一つ大きく息を吐くと、そのメールを保護した。戒めだ、これは。忘れないように。
机の引き出しをあける。小さな箱の中に入れた、彼のプリクラ。捨てられないで大事にとってある。捨てられるわけがない。
忘れないように。
今はまだ結論が出ていないけれども、この前から胸を過るこの気持ちを大事にできるように。この前の、G016が脱走した事件から胸を過るこの気持ち。
わたしは、正しいのだろうか?
ふっと小さく笑った。自嘲気味に。
悩んでばかりいて、最近のわたしはどうにも変だ。
とりあえず今は、このメールに返事を打とう。そう決めると、ケータイに向き直った。
ぴろろん、と音を立ててケータイが鳴った。
『隆二! ケータイ!』
新しい玩具を与えてもらった子どものように、ケータイをじっと眺めていたマオが焦ったような声をあげた。
「ん」
なんでもないように頷いて、それを手に取る。手が震えそうになる。
『メールね!』
横から覗き込んだマオが言う。新着メール一件と出ている。
「えっと」
『その真ん中のボタン押せばいいんだよ』
「わかってるよ」
本当にわかっていたってば。今押そうと思っていたってば。
そう思いながら、真ん中のボタンを押す。
エミリからの返事だった。開くとそこには長文がずらりと並んでいる。
え、さっきメールしたばっかりなのに、もうこの量の返信を打ってきたの? そのことに愕然とする。
若者、怖い。
メールの内容は、小さいつの出し方を懇切丁寧に教えてくれていた。ただ、ところどころバカにしたような言い回しも確認できたけれども。
そして、最後に書かれている。
「お尋ねの件ですが、赤いと三倍速いんですよ?」
三倍速い?
『赤い彗星だったのか……』
横からそれを見ていたマオが、驚いたように呟く。
え、なんで伝わってんの?
全く意味のわからない隆二をほったらかして、マオはなるほどね、なんて呟いている。だから何が? なにこれ、ジェネレーションギャップ?
困惑している隆二の顔をどう判断したのか、
『お返事しといた方がいいよ』
マオがくすり、と笑って言う。
『わかった、だけでも。小さいつ、使うしね』
戯けたように付け足す。まったく、余計なお世話だ。
そう思いながらも、なんとか苦労して、わかっただけのメールを打つ。
ああ、なんだろうこの達成感に疲労感。頼むから、嬢ちゃん、これ以上今日はメールしてこないでくれ。対応しきれない。
『おつかれさま』
マオが笑ったまま、隆二の頭を撫でる。なんだかバカにされている気しかしないが、今回は本当、バカにされても仕方がない気がするので何も言わない。代わりに、目の前のマオをじっと見つめる。
『なに?』
見られていることに気づいたのか、マオが小首を傾げる。
『今日もマオは可愛いよって? 知ってるー』
「言ってない、一言も」
両手を頬にあてて、巫山戯て笑うマオは、いつもどおりのマオだ。
Gナンバーの消失。それはマオとはきっと関係ないのだろう。きっとそうだ。
だって、マオはすでに規格外なのだ。こんなに自由気ままに動くのはGナンバーとしてはイレギュラーなのだと、最初の時にエミリが言っていたじゃない。
だから消えるなんてこと、あり得ない。
そう自分に言い聞かせる。
それでも、
「……なあ、体調とかどうだ? 妙に眠いとか、そういうこと、ないか?」
一応聞いてみる。
マオは、急に変な質問をされた、とでも言いたげな不思議そうな顔をしながら、
『女の子はそういうときがあるってテレビでみたよ』
とんちんかんな回答をかえしてくる。
……また、そういうことばっかり覚えて。
うんざりため息をつく。
テレビに教育を投げっぱなしな俺がいけないんだよな、きっと。ちょっとだけ反省。
『眠くはないけど、ねー、隆二。お腹空いたぁー』
甘えたように喉を鳴らして、マオが隆二の右腕を軽く揺する。
「この前食べてなかったか?」
『でも空いたのぉ! だから、行ってくるね?』
軽く唇を尖らせてそう言うと、隆二から離れようとするマオを、
「あー、ちょっと待て」
引き止める。
なにもないとは思うけれども、万が一なにかがあったら困るから。心配だから。という理由は隠して、
「俺も行く。コンビニ行く、ついでに」
言い訳を付け足しながら立ち上がると、
『本当っ!? 一緒に来てくれるの? やったぁ!』
マオの顔がぱぁぁっと華やいだ。
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