第三幕 猫がいる生活

 少女は正直、途方に暮れていた。

 少女が追っている実験体の情報が、ぷつりと途絶えてしまった。

 ただ、それに関係すると思われる女性は見つけた。もしかしたら偶然かもしれないけれども、多分、少女が探しているものと関係している。

 それは、目撃情報の最後の場所とも一致していた。

 なので、あの辺りに住んでいる知り合いに聞く事にしよう。そうすれば、何かあるだろう。

 少女はそう思った。



 静寂は嫌いではない。

 聞こえてくるのはただ風が動く音と自分が歩く音。後は他に、聞こえてくる音がない。

 そんな状態は、嫌いではない。

 真夜中、道の真ん中に立って、隆二はそんなことを思う。

 いつも隣にいるマオは、眠っていたのでおいてきた。

 突然コーヒーが飲みたくなって、でもあいにく切らしていた。

 今は便利だよなぁ、コンビニなんてあって。そんな年寄りみたいなことを考えながら、コーヒーと思いつきで買ったチョコの入った袋を振り回すようにして持ちながら歩く。

 かさかさと、袋の音がする。

 静寂は嫌いではない。

 寧ろ、心地よいとも思う。


 家の鍵を出して、開ける。

『隆二っ!』

「うわっ!」

 開けたと同時にマオが飛び出て来た。

『もぉ、どこ行ってたのよぉっ!』

 半分泣きそうな顔をして、マオは言った。

「コーヒーを買いに」

 そういって袋をかかげてみせると、マオは頬を膨らませた。

『起きたら一人ぼっちで寂しかったんだからぁ! 起こしてよ、誘ってよ。このカフェイン中毒!』

 言いたいだけ言うと、マオは部屋の奥に引っ込んだ。

 多分、ソファーの上でふて寝している。うつぶせになって、こちらが声をかけても反応しない。それでも、横目だけでちらっとこちらを見てくることだろう。

 すっかり慣れたマオとのやりとりを思い、少しだけ笑う。

 そう、静寂は嫌いではない。

 寧ろ、心地よいとも思う。

 ずっと一人で居たから。長い事、一人で暮らしていたから。

 

 昔、一緒に暮らしていた女性がいた。

 体の弱い女性だった。

 ずっと一緒にいたいと思っていた。

 でも、自分は彼女を見捨てた。

 彼女が自分より先に死んでしまうことが怖くて、彼女の元から姿を消した。

 一度、様子を見に戻った。もう一度、やり直せないか、とも思っていた。

 けれども、彼女は既に亡くなっていた。

 あの時、誓った。

 もう、人とは深く関わらないと。亡くしてしまうのが、怖いから。

 それなのに、と少しだけ自嘲気味に唇を歪める。


「マオー、機嫌直せー」

 それなのに今、ソファーの上で拗ねたマオを、居候猫を宥めている。

「マオ、ごめんな」

 ちょっとだけ、マオが身じろぎした。

『起きたら一人で、寂しかったの』

 半分だけ顔をあげて、こちらを見る。膨らんだ頬。

「ごめん」

 もう一度謝る。

『隆二の唐変木』

「ごめんって」

『いいよ、もう。どーせ、隆二だもん』

 そういって、マオは再び顔を枕に押し付けるけど。ちょっと笑っていたからこれでもう大丈夫。

 隆二は少しだけ微笑んだ。


 マオは人じゃない。だから、あの時の誓いを破った事にはならない。

 幽霊は自分より先に死んだりしない。

 だから、大丈夫。

 そんなことを思う。



『もう、あたしのことおいてったらやぁよ?』

 うつぶせのまま、マオが言う。

「うん、わかったわかった」

『もー、てきとー』

 言いながらもマオが顔をあげて、笑う。

 それに満足すると、コーヒーをいれに台所に向かう。

『りゅーじー』

「んー」

『てれびー』

「ちょっと待て」

 マオの声に適当に返事して、ゆっくりコーヒーをいれてから戻る。

 マオはソファーに寝転んだまま、足をばたばたさせて、待っていた。

『おそーい』

 赤い唇を尖らせて言う。

 そのまま甘えるように両手を隆二の方に伸ばす。のを、隆二はさりげなく避けて、

「何チャン?」

 リモコン片手に尋ねる。

『んー、とりあえずなんでもいいやぁー』

「はいはい」

 適当に電源を付ける。

 派手な音楽が流れる。

『あたしねー、最初、この小さい箱の中に人が住んでるのかと思ってたわー。なんかこう、薄っぺらくてちいぃさい人が』

「へー、バカだなお前」

 ソファーに寄りかかるようにしながら、床に座る。

 コーヒーは畳の上に直接置いた。もう既に何度か汚しているので、今更なにやっても一緒だろう。さらば敷金。

『むー、あたし、バカじゃないもん。バカって言う人がバカなんですぅー。隆二のばーかばーか』

「ああ、お前いまバカって何度も言ったな。バカって言ったマオがバカだな」

『っ!!』

 マオは驚いたように息を飲み、

『……そうね、そうなってしまうわね。なんてこと、あたし、バカだったの……? バカって言ってしまったから』

 何故だか深刻そうに呟いた。

 やっぱりバカだ。

 バカは放置して、立ち上がる。

『りゅーじー、どこ行くのー?』

「本」

 寝室に置いてある本棚から、適当に本をひっぱりだす。

 そのまま元の位置に戻る。

『何読むのー?』

「人でなしの恋」

『ひとでなし? ああ、あたしのことねー!』

「……まあ、人じゃないけどな、お前」

 そういうことじゃないだろう。

 マオがソファーの上から、肩越しに本をのぞいてくる。

『うげっ、字、いっぱい。いやー』

 悲鳴をあげるようにマオが言った。

『隆二は、本、好きなのー?』

 ソファーにぱたりと横になったマオが尋ねてくる。

「まあ、嫌いではないな」

『なんでー? テレビよりも好きなのー?』

「テレビは、あんまり見ないから」

 なんとなく、家には置いてあるが、殆どつけていなかった。

『なんでー?』

「本の方が、自分の好きなときに読めるだろ」

『んー?』

 テレビから笑い声がする。

「まあ、どちらにしろ、暇つぶしの意味しかないけれども」

『暇つぶしー』

 なんとなく字を目で追いながら、なんとなくページを追いかける。この本だってもう何度か読んでいる、あらすじは頭に入っている。

『隆二、暇なの?』

「忙しそうに見えるか」

『んーん』

 視線を向けると、マオは首を横に振った。

『ずぅっと、おうちにいるもんね。でかけるのはコンビニに行く時ぐらい? ねー、ずっと気になってたんだけど、隆二ってお仕事何してるの?』

「してないよ」

『してないのー?』

「してるように見えるか?」

『見えなぁーい』

「だろ?」

『じゃあ、お金どうしてるのぉー?』

「どうって」

 マオが横から何度も話しかけてくるから、仕方なく本を閉じ、

「貯金?」

『貯金!』

「前にちょっと仕事したときの残り」

『それで大丈夫なのー?』

「んー、まあ、そろそろ危ないからまたちょっとバイトでも探さなきゃなーって思ってるけれども」

『ふーん』

 マオはわかったのかわかってないのかそういうと、

『あ!』

 ぽんっと、手を打ち鳴らし、

『あたし、知ってる! 隆二みたいな人のこと、クソニートって言うんだよね!』

「クソは余計じゃないか、それ」

 否定はしないが。

 最初のバンバンジーの一件からも思っていたが、どうやらこの幽霊はバカだ。

『そーなの?』

 マオが不思議そうに首を傾げた。

「そーなの」

『んー、そっか』

 そっかそっか、ニートか、なんて小声で呟いている。本当にわかっているのだろうか。

『あ、でも、あたしもニート! やった、おそろい!』

 それから、やけに嬉しそうな声でそう言った。

「ニートがお揃いって……、駄目だなー俺等」

 呆れて笑う。

 マオもくすくすと笑い出す。

 テレビから派手な笑い声がして、マオがそちらに視線を移した。

『あ! この芸人さん好きー!』

 そのまま、体を動かしてテレビを見る。

 やっと大人しくなる、と思い読書を続ける。

『面白いのー、この人?』

 と思ったら、やっぱり話しかけて来た。

「そーかい」

 適当に相槌を打つ。

『テレビは凄いよねー、楽しいー。大好きー』

 ソファーに寝転がり、頬杖をついてテレビを見つめながら、マオが言う。

『隆二はー、テレビは好きじゃないのね? 本の方が好きー』

「あー、まあ」

『ふーむ』

 マオは一瞬何かを考えるように黙ってから、

『……あと、隆二は梅干しのおにぎりが好き?』

「え?」

 本から顔を上げ、マオの方を見る。

『よく買ってるからー』

 マオはテレビをみたまま言う。

 そう言えば、そうかもしれない。

「まあ、嫌いじゃないけれども」

『やっぱりねー』

 嬉しそうに足をぱたぱたと動かす。スカートの裾がめくれそうになる。

「マオ、スカート」

『ちょっといまいいとこなのー、黙ってー』

 テレビに釘付けになっている。

 直してやることもできないし、見なかったことにした。

 もうすこし、恥じらいというものを身につけて欲しい気もする。いや、どうこうなるわけじゃないけれども。

 マオはテレビを見て、楽しそうに笑っている。何がそんなに楽しいのかよくわからない。

『はー』

 テレビがCMテレビがCMになると、マオはまた隆二の方に顔を向けた。

『でねー、隆二はー、あとコーヒーが好き』

 床に置いたままのマグカップを指差す。

「まあな」

 思い出して、一口飲む。

『で、あたしのことは、好き?』

「ぶっ」

 飲んだばかりのコーヒーを吹き出しそうになった。

 慌てて口を抑え、堪える。

『うわ、やだー、きったなーい』

 マオが本当に嫌そうにそう言うと、汚物を見るような目で見てくる。

「ちょっ、おまえっ」

 ティッシュで拭きながら、マオを睨む。

『なによぉー、あたしが悪いの?』

 形の良い唇を尖らせる。

「いいとか悪いとかじゃなくてだな」

『なぁにー? それとも、りゅーじは、あたしのこと、嫌いなの?』

 桃色の頬を膨らませて、不満そうに。

「いや、あのなぁ」

『あたしは、隆二のこと、好きだよぉー?』

 緑色の瞳が、上目遣いで見てくる。

 思わず、言葉につまる。

「マオ、あの」

『あとねー、テレビも好きだしー、このソファーも好きぃー』

 隆二の返事を待たず、マオは楽しそうに続けた。

「……あー」

 そういう好き、ね。

 なんとなく、動揺した自分を恥ずかしく思いながら、

「そりゃどーも」

 呟く。

 ふんっとマオが少し勝ち誇ったように笑う。

 それから、すぅっと隆二の肩の辺りに移動すると、

『で、隆二はあたしのこと、好き? どう思ってるの?』

 耳元で囁くようにして、尋ねた。

 一瞬息を飲む。

 それを気取られないように、ゆっくり息を吐き出すと、

「ちょっと粗相の多い、居候猫だと思ってる」

『む、なによそれー』

 また膨れた。

 さっきは少しだけ、色っぽかったのに。

「でもまあ、猫は可愛いよな」

 それだけ付け加える。

 それが今言える、精一杯だと思った。

 マオはしばらく吟味にするように隆二の横顔を見ながら黙っていたが、

『うん』

 何かに納得したかのように一つ頷き、

『あたし可愛い!』

 両手を頬にあて、笑み崩れた。

 そういう顔をすると、本当に可愛いから困る。

「あー、テレビ、CM終わったぞ」

 かろうじてそう言うと、

『あ! 本当だ!』

 ひょいっと身見を翻し、テレビに向き直った。

 気まぐれで、わがままな、それでいて少し甘えん坊の仔猫のようだ、と思う。



 静寂は嫌いではない。

 でも今は、騒がしいのも嫌いではない。

 猫がいる生活も、一人ではない生活も、悪いものではない。

 そう、思った。

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